第3話
どれくらい扇いでいただろうか。腹の減りからして昼と思しき頃、母親は自力で体を起こせる程度には回復していた。兄弟も、水を飲んだせいか血色が良い。嬉しい反面、瑛介はスマホの画面を見て唸った。圏外の表示は勿論、時計の数値までが一切表示されていない。
(奥は、こんなに電波が悪いのか)
山道を通っている限り、電波は良好だった。北山は電波が通る、と無意識に油断していたことが悔しい。
母親は傍目には元気そうだが、当分歩けないだろう。よし、と自分を鼓舞して、瑛介は立ち上がった。
「俺、戻って誰かを呼んできます。救急車も呼ばなきゃならないし、とにかく電波の届くところまで戻らないと」
瑛介が言うと、僕も行きます、と
「亘くんも疲れてるだろ。休んどきなって」
大丈夫、真っ直ぐ戻るだけだ、と言うと、亘は申し訳なさげに頭を下げた。
瑛介は来た道を戻る。窪地の対岸まで行き、南に直進すれば山道に出るはずだ。頭上はいつしか全天、鉛色の雲に覆われている。昼間のはずだが、霧が濃いせいで視界全体が
慎重に進む。道中、落ちてあった鋭い石で、木の幹に目印を刻んでいった。
十五分経った。しかし一向に山道が出てこない。
(ゆっくり歩いてるから当然だ)
言い聞かせながら、パニックにならぬよう呼吸を整える。しかし、もう着く、もう着くと念じながら歩いても、視界には樹林が続いているだけで、もはや真っ直ぐ進んでいるのかさえ怪しい。
二十分、三十分、時間だけが過ぎた。不思議なことに、幹に付けた印が一度も見つからない。一時間、二時間、手当たり次第に幹を削りつけても、少し歩いただけで、もうその印は霧中に没していた。
「……迷った」
無念にもその言葉を呟く。瑛介は途方に暮れて、その場にしゃがみ込んだ。
手元が見えない。曇天の暗さではなく、日暮れの暗さだ。陽が落ちれば気温は急速に低下する。――残り少ない水で、自分は一体何日保つのだろう。
かさり、と前方の繁みが揺れた。辺りは闇一色。――何かが低く唸っている。
瑛介は息を潜めてスマホのライトを点けた。
闇の中に、ぽかんと絵画のように切り取られた樹々が現れる。ライトを揺らした刹那、正面の木の根元で、何かが明滅した。のそりと影が体躯を現す――。
(……野犬)
瑛介は真っ黒な犬と睨み合う。
牙を剥いてにじり寄る相手、はちきれんばかりに鳴る自分の鼓動。
――逃げないと。
瑛介が立ち上がろうと
「やああ」
声と共に背後から振り下ろされたのは長い枝。俊敏に避けた黒い影に、間髪入れず突きを入れる。本能的に
「大丈夫ですか、瑛介さん」
隣りに屈んだ亘の顔を認識して、瑛介は眩暈を覚えるほど安堵した。
「この山は野犬が多いんです。伝えておくべきでした」
頭を下げかけた亘を、瑛介は制する。
「いや、知ってても動けなかった。そう、最近は見ないから忘れてたな……。見つけてくれて本当に助かった。命の恩人だ。ありがとう」
いえ、と結局頭を下げる亘に、瑛介は苦笑する。
「謙虚だな、亘は。同い年って言ってたろ?」
「……謙虚は表だけです。こういう時代ですから、周りに敵を作らない方がいいんです。頭を下げてやり過ごすのは姑息だと思いますが、今はそうして耐えるしかない」
二人は夜の森を歩く。亘は、瑛介を探し歩いた道を、迷いなく戻っていった。
「……立派だと思うよ。生きる覚悟っていうのかな。俺は亘と同い年だけど、まだまだ精神は、ひろ君と同じくらいだな。危機感が無いとことか」
瑛介が笑いかけると、亘も笑い返す。
「確かに、ひろは動転しませんね。状況を理解していないのか、楽しんでいる風さえある」
「くたばってたまるか、って言ってた」
「あの子らしいです」
そう、確かに危機感はないけれど、と亘は闇を見据える。
「今はそれがとても有難いんです。年そのままに純真な弟を見ると安心します。力が湧いてきます」
そこに居てくれれば十分です、と言う亘の横顔は、飾り気のない笑みに満ちていた。
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