第2話

 さらに半時間歩き、瑛介は木陰に腰を下ろした。リュックから水を取り出すと、一口飲んで喉を潤す。

 四方には延々と樹林が広がっていた。霧が薄く覆ってはいるが、まだ見通しは効く。

「久々だな、ここまで登るのは」

 自分が登って来た道を見ながら、そう独白する。尾根まではまだ遠いが、この先は高度が急激に上がる。岩場も多く、今いる辺りが瑛介の知る最奥だった。

(早けりゃもう御臨終か)

 刹那、病室のベッドを囲む、沈痛な面持ちの家族を想像して、瑛介は身震いした。なんとなく背後が気になって立ち上がる。休息もそこそこに、山を下りようと歩みかけたが、やはり身体に何かが纏わりついたようで気持ち悪い。


 瑛介は、目いっぱい息を吸う。

「おぉーい‼」

 おぉーい

 どこからか分からないが、微かに反響している。

(やっぱり叫ぶと気持ちいいな)

「こんな村、知るかぁー‼」

 知るかぁ

(どんな繋がりも捨てて、出ていってやる)

「ジジイは、勝手に、くたばってろぉー‼」

 くたばって たまるかぁ

 耳に届いた声に、瑛介は一瞬、思考が停止した。

(くたばって、たまるか……?)

 異常な状況に気付いて、瑛介は赤面する。

 ――こだまではない、誰かが返答したのだ。

 瑛介はすぐさま道を折り返す。相手の言葉から察するに、明らかに内容を聞かれている。

相手と鉢合わせたくなくて、足早に山道を戻りかけたが、

 おーい たすけてぇ

 またもや聞こえてきた声に、瑛介は立ち止まった。山道を逸れた北の奥から、明らかに子供の声が叫んでいる。

(なんでこんな山奥から)

 たすけてよぉ

(誰が)

 たすけてぇ

「……ったく」

 瑛介は舌打ちし、山道脇に一歩踏み出す。草を搔き分けながら、恐る恐る声の方へ進んでいった。


 十五分ほど歩くと、目前に巨大な窪地が出現した。かつて池だったのか、大地が大きく半球状に抉られて、褐色の地面が露出している。

 瑛介は木陰に身を隠しながら、対岸を注視した。

(この辺りか……)

 視線を左右に揺らしていると、対岸の中央あたり、一本の木陰で目がとまる。

 木の根元に、黒い影がうずくまっていた。

(……人?)

 よくよく目を凝らすと、影は紛れもなく人間だった。それも二人。幹に寄り掛かって座っている女性と、その傍らに寄り添う青年の姿が見える。

 遭難者、という言葉が浮かび、同時に違和感を覚えた。服装が妙なのだ。女性は上にかすりの着物、下はもんぺだろうか。青年の方は、上下カーキ色の制服で、足首を包帯のようなもので巻いている。登山らしからぬ服、という次元ではない。それは、まるで――。

(……戦時中じゃねえか)

「いた!」

 唐突に背後から掛けられた声に、瑛介は前につんのめった。

 痩せた少年だった。幹に寄り掛かっていた女性と同じく着物を着ているが、下は半ズボンだ。「さがしたんだよ」と言う幼い声は、間違いなく先刻のものに相違ない。

 瑛介が体勢を立て直しているところに、少年は物怖じせず近付いてくる。

「こっち、来て」

 おい、と瑛介の声も気にせず、少年は瑛介の手を取る。あどけない笑顔を向け、ぐんぐん歩き始めた。固く握られた手は温かい。少年は獣道を蛇行しながら進んでいるが、どうやら窪地の縁を回り込んで、女性たちのところへ連れていく気らしかった。


 瑛介は引かれるがまま、彼女たちの元に着いた。少年は手を離し、一足早く彼女たちに駆け寄る。それに気付いて青年が立ち上がった。

「ひろ、どこに行ってたんだ」

「人の声がしたから、さがしてたの」

 ほら、と「ひろ」と呼ばれた少年は、瑛介を指さす。青年はしばらく瞠若どうじゃくして、それから長い息を吐いた。

「良かった。ようやく人と会えました」

「あの、道に迷ったんですか」

「恥ずかしながら。歩き疲れて、母と兄弟二人で休んでいたのです」

 身なりの違和感は拭えなかったが、彼ら三人のやつれた様子を見ると、確かに遭難者らしかった。瑛介は安堵の息をつく。正直なところ、犯罪的な何かだという疑念があったのだ。

「……水、要りますか?」

 青年は一瞬、喜色を浮かべたが、首を横に振った。

「僕は大丈夫です。でも、母が長らく水を飲んでいないので、少し頂けるなら……」

「遠慮しないで下さい。俺、いつも余計に持ってるんで」

 言いながら水を取り出す。青年は深々と頭を下げ、母親へと誘導した。


 母親は酷く疲弊していた。山が涼しいとはいえ、気温も湿度も相当高い。それなのに汗がほとんど出ていないのは、危険な状態だと、素人の瑛介でも理解できた。

 瑛介はペットボトルの蓋を開けて、彼女の口元に持っていく。

「飲めますか、少しずつでいいんで」

「ん……ひろ坊、水、取って来てくれたのかい」

 彼女は瑛介を少年と見紛うほど、意識朦朧らしい。

 苦心して水を飲ませ、木陰に寝かせる。タオルを湿らせて首筋に当て、ハンカチや団扇うちわ――青年が持っていた――を使い、三人で身体を扇いだ。

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