霧晴れる

小山雪哉

第1話

「うるせえ、行かねえって言ってんだろ!」

 瑛介えいすけは自分の口から飛び出た怒声に、思わず身を竦めた。荷物の支度をしている母親と兄が同時に振り向く。急激な耳の火照りを感じて、瑛介は咄嗟に顔を逸らした。

「あらま、反抗期かしら」

 母が言うと、兄は微苦笑する。もう一度「うるせえ」と――今度は控えめに――一喝すると、瑛介は居間を出て、二階の自室へと駆け上がった。


 祖父の血圧が急速に低下している、と病院から電話があったのは朝食後――つい十五分前のことだ。いわゆる危篤らしいが、しかるべき医療処置は取ってあり、落ち着いて来るように促された。

 平日のこと、父親は町外に出勤していたが、幸い、大学生の兄が夏季休暇で帰省している。兄と、同じく高校が休暇中の瑛介と、母親の三人で病院へ行く――一家は、そんな流れで動いていた。


(俺が行って誰が喜ぶんだ)

 自室に入り、しわくちゃの万年床に寝転がると、床を伝って声が聞こえてきた。

(小さい頃は、あんなに懐いてたのにねえ)

 昔ながらの日本家屋は、階下したの声が丸聞こえだ。舌打ちし、手を組んで枕にしていると、足音が階段を上がってきた。錆びたノブが回って、兄が入ってくる。

「……ノックくらいしろよ。俺が、何かしてたらどうするんだよ」

 何かって? と笑いながら、兄は壁に寄り掛かる。

「まあ高一になったばかりだ。そういう時期もあるさ」

 悩みを打ち明けたわけでもないのに慰める兄に腹が立ったが、何も言い返せなかった。大学に入ってから、兄は一層大人びた気がする。容姿だけでなく、立ち居振る舞いや落ち着いた声が、明らかに昨年とは違っていた。

「親父も会社を抜けてくるって」兄は穏やかな目を向ける。「家で待っててもいいよ。……亡くなる瞬間は、こういう時期には見ない方がいいかもしれない」

「別に――」

 人が死ぬのが怖いわけじゃない、と言おうとして、瑛介は口ごもる。瑛介は家族の死を経験したことがない。怖くないかは分からなかった。

「……とにかく行かねえから。早く準備してこいよ」

 瑛介が被り布団に包まると、兄は小さく溜息をついて部屋を出た。


「戸締りお願いね! また連絡するから!」

 助手席から首を出す母親を、瑛介は二階から億劫そうに眺める。エンジンをふかした軽自動車が見えなくなると、乱暴にカーテンを閉めた。

 自分を反抗期だと悟る母、そんな時期だから仕方ないと慰める兄――なにより瑛介自身、これを反抗期だと承知していることが、一番憎かった。

「……出ていってやる」

 恨みを込めて吐き出す。瑛介は手慣れた様子で、リュックにスマホと水を詰め込むと、勝手口から飛び出して、路地へと歩いた。


 家から北へ五分も歩くと、そこは既に鬱蒼と広葉樹の並ぶ山の斜面だった。山道の入り口を示す小さな板が立っている。


 北山、と単純明快な名称の山だ。県境を東西に伸びる山脈の一部であり、北山を超えるとすぐ隣県だが、その険しさゆえ、登山客は滅多にいない。江戸期には修験道の修行場として山伏が籠っていたらしいが、明治政府の神仏分離に続く修験宗廃止令や、山麓の村の過疎化により、現在では村人が細々と拝む、山脈の一景観に過ぎない。


「荒れすぎだろ……誰も登らねえから」

 瑛介は額の汗を拭いながら、雑草の無遠慮に生え散らかす細い山道を登った。

 ふと暗くなった気がして空を見上げる。北の方から薄雲が掛かってきていた。通り雨の心配はなさそうだったが、その霞んだ曇り方が、瑛介の心を映しているようで気が滅入った。


 瑛介は精神的に疲れると、山へ行く。登頂が目的ではなく、山の異質な空気を吸うためだ。

初めて一人で登ったのは七歳の頃。病院帰りに玩具屋へ寄れず、家に帰ると、縁側のガラス戸を無意味に蹴破り、山へ駆け出した。北山へは祖父の仕事についていったことがある。道くらい分かっている、と勢い込んで飛び出したものの、山に入った途端、ひやりとした風が首筋を撫で、尻尾を巻いて帰ってきた。

 ――確かに、冷たい。

 朽ちかけた木の階段を上りながら、瑛介は深呼吸する。山の気候でそう感じるのかもしれないが、やはり山は、時間が止まっているような、あるいは延々と渦巻いているような、そんな神秘的な感覚を抱かせた。

 幾度となく登って来た道、嫌なことがある度に枯葉を踏み鳴らした道。道すがら、脳裏には過去の苦い記憶が走馬灯のようにちらついた。


 中腹まで一時間ほど登ると、木々が開けた場所に出る。山道の南斜面から、瑛介の住む村が見下ろせた。

辺鄙へんぴな村)

 町に編入されて十数年が経つが、未だにここは片田舎のままだ。上下水道も整備され、電気も通ってはいるが、一日中閑散として活気がない。

(土地が余ってるんだから、安く貸すなり売るなりすりゃいいんだ)

 瑛介にとってこの村は、未来のない、一刻も早く抜け出さねばならない場所だった。だから、都会で下宿している兄が羨ましく疎ましい。

 ――もっと奥へ行こう。

 こんな村が見えなくなるところまで。

 北の薄雲は、あっという間に中天を覆っている。山上から流れてきた霧が、山奥へ誘うように瑛介の身体を包み込んでいった。

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