第125話 父と娘 1

「がはははは! 久しぶりだな! この街に来るのも! 十年ぶりくれぇか?」


 街の往来に大きな笑い声が響いた。

 道行く人々が何事かと視線を向けると、そこにいる人物に誰もが例外なくぎょっとする。


 全身毛むくじゃらの大男だった。

 だがここは獣人の国。

 毛深い種族や、体格のいい者などそれほど珍しくはない。

 それでも人々が目を剥いたのは、その大男があまりにも薄汚い格好をしていたからである。

 奴隷でももう少しまともな身なりをしているだろう。


 そして凄まじい悪臭を発していた。

 総じて嗅覚に優れた獣人たちは、顔を顰めながら距離を取る。


「はっはっは! 道が勝手に開いていくぞ! こいつは楽チンだ!」


 それが自分の悪臭のせいだとは気付かず、大男は人混みが割れていくことに喜んでいた。


 大男の名はサルード。

 何を隠そう、世界にたった四人しかいないSランク冒険者の一人だった。


 獣人の国バランの王都を、サルードは悪臭を振りまきながら闊歩していく。

 やがて辿り着いたのは、とある建物だった。

 隣接したグラウンドでは大勢の獣人たちが、武器を手に手に訓練に励んでいる。


 ここは剣闘士を育成するための養成所だ。


「おい、ここは部外者以外立ち入り禁止――――ぎゃうん!?」


 門番をしていた屈強な獣人が、勝手に敷地内に立ち入ろうとしていたサルードを止めようと近づいてきたが、その悪臭にやられて悲鳴を上げる。


「がっはっは、アポなしで悪ぃが、久しぶりにあいつに会おうと思ってな!」

「ま、待て……げほっ……勝手に……ごほごほっ……」


 涙目で咽ているを門番を後目に、サルードは遠慮なく建物の中へと入って行った。


「そういや、あいつがどこにいるか分からねぇな。さっきの門番に訊けばよかったか。おっと、あそこは確か、事務室になってたっけな? そこで訊いてみるか」


 ボリボリと頭を掻きながら、サルードは事務室の扉を開けた。

 驚いたのは職員たちだ。


「な、何だお前は――――臭っ!?」

「おえええっ」


 たちまち漂う悪臭に苦悶する彼らへ、サルードは平然と訊ねた。


「フィナはどこにいるか知らねぇか?」

「げほっ……しょ、所長……? お前、一体、所長に何の用だ?」

「所長? がはははっ、所長じゃなくて、オレが言ってんのはフィナだ、フィナ」

「だからそのフィナさんが所長で……。いずれにしても、所長は今、忙しく――」


 そんな少々噛み合わないやり取りをしていたときだった。


「随分と騒がしいけど、何かあったの?」


 白銀の髪を持つ犬人族の女性――フィナが、事務室の奥にあった扉から出てくる。そこが所長室に繋がっているのだ。


「あっ、所長! 実は、変な男が所長に会いたいと――」

「おお、フィナ! 久しぶりじゃねぇか!」

「っ! まさか、サルード……?」


 フィナが目を剥く。

 知り合いだったのかと職員たちが驚く中、感動の再会とばかりにサルードは両腕を広げて彼女に駆け寄り――



「――何で十年も顔を見せないのよこの馬鹿男ぉぉぉぉぉっ!」



「ぐおおおっ!?」


 フィナが剣を抜いて容赦なく繰り出した一撃を、サルードは寸でのところで真剣白刃取り。

 所長の斬撃を止めた!? と職員たちが驚愕する。


「いきなり何するんだ!?」

「それはこっちの台詞よ! 顔どころか便りも寄こさないから、さすがに今度ばかりは死んだかと――って、臭っ! 何よその汚い身体は!? ちょっとこっち来なさい!」

「いででででっ!?」


 フィナに耳を引っ張られ、サルードが無理やり連れて行かれたのは、剣闘士たちが利用している大浴場だった。

 そこで裸に剥かれたサルードは、フィナに蹴り飛ばされてタイル敷きの洗い場の床に引っくり返る。


 フィナはサルードに浴槽に溜まっていた水をぶっかけると、ボディソープを豪快に振りかけ、そして掃除道具入れから持ってきたモノでゴシゴシとその筋骨隆々の身体を洗い始めた。


「痛い痛い痛い! それブラシじゃねぇか!?」

「そんなに汚い身体、普通のタオルで洗えるわけないでしょうが!」


 浴室のタイルの上を真っ黒い水が流れていく。


 やがてフィナの懸命の洗浄によって、どうにか汚れと悪臭が取れる。

 すると今度はハサミを持ち出してきて、じゃきじゃきとサルードの伸び切った頭髪を切り始めた。

 そればかりか、続いてカミソリで髭や胸毛も剃っていく。


「うおっ、手つきが乱暴すぎだろ!? って、血が出たじゃねぇか!」

「それくらい我慢しなさいよ! あとで適当にポーションかけてあげるから! にしても、なんて硬い毛してんのよ、あんた!」


 カミソリの刃がすぐに欠けてしまう。

 フィナは何度も新しい刃に取り換えつつ、もじゃもじゃの毛を遠慮なく剃り進めていった。


「いってぇぇぇっ!?」

「暴れんな! 大人しくしてないとあんたのちんちん剃るわよ!」

「いやいやいや、今、乳首っ! 乳首ブシュって!?」


 三十分ほどかけて、ようやくフィナは手を止めて大きく息を吐いた。


「ま、こんなとこかしらね」

「ぶえっくしょおおおい! ……うぁ~、なんか毛が減ると急に寒くなった気がすんなぁ……?」


 盛大にくしゃみをぶっ放すサルードだが、一応はちゃんとした人間に見えるようになっていた。


「服も着替えなさいよ。持ってくるから」

「ふぇ~い」


 そしてまともな服装を身に付けたサルードが再び事務室に戻ると、職員たちが「……誰?」という顔になった。


「紹介するわ。彼はサルード。一応、Sランクの冒険者よ」

「「「え、Sランク!?」」」


 フィナの言葉に職員は耳を疑う。

 当然だろう。

 Sランク冒険者というのは、世界にたった四人しかいない最強の冒険者たちだ。


 この国のトップであるレオ=バダルジャン。

 そして新たにSランクに昇格したレイジという青年が繰り広げた戦いを、職員の中には間近で見た者もいた。


 あの別次元の超人たちと、さっきまではどう見ても不審者にしか思えなかった男が肩を並べる存在だとは俄かには信じられなかった。


 だがそれ以上に衝撃的だったのは、続くフィナの言葉だった。



「ついでに言うと、あたしの旦那でもあるわ。籍を入れては無いけど」



「「「えええええええええっ!?」」」


 驚愕の声が上がった。

 フィナに子供がいることを知ってはいても、その父親が誰かまでは知らなかったのだ。


 当時、十九歳にして養成所の看板剣闘士だったフィナが身籠ったという話は、瞬く間にバラン王国中に広がった。

 フィナのファンたちが怒り狂い、彼女を孕ませた張本人を突き止めて八つ裂きにしようという物騒な運動まで巻き起こったほどだ。

 結局、誰も特定することはできなかったのだが……。


「こいつがこの街に来たときに偶然、出会ったのよ。あれはまだ、あたしが十四のときだったと思うわ。あたしの世界は当時、養成所と闘技場だけだったから、すでにAランクの冒険者で世界中を旅して回っていたこの人の話が珍しくて、楽しくてね」


 バランに来るのはせいぜい数年に一度。

 それでも何度か会う内に、いつしか互いに惹かれ合うようになり――


「がっはっは! あのときはオレも若かったからなぁ! 奴隷に手を出すなんて危険なマネ、今なら絶対にしねぇだろうな!」

「もし今でもしてたら、あたしがその無駄にデカい股間のモノを斬り落としてやるわ」

「……」


 サルードは股間を抑え、蒼い顔で後ずさった。

 そして誤魔化すように、


「そ、それよりお前、もう剣闘士は引退しちまったのか?」

「一度は、ね」

「一度は……?」


 首を傾げるサルードに、フィナは言う。


「そうだわ。あんた、ちょうど良いところに来たから手伝いなさいよ。あたしのに向けたトレーニングに」

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