第118話 VSバモット1
上級悪魔が悠然とこちらへと近付いてくる。
「くっ……陛下! お逃げください!」
兵士たちの悲愴な声が響く。
だが紅華は動くことができなかった。
手が震えている。
足も震えていた。
幾つかの流派を奥伝まで修めているというのに、基本の型すらもままならない。
「ああ、いいですねぇ、その顔。美しい顔が恐怖で歪む様は、きっとこれから何度見ても飽きないことでしょう」
紅華は目の前の圧倒的な力を持つ悪魔に怯えていた。
まさに蛇に睨まれた蛙だ。
逃げることも許されないのかと、己の弱さを痛感させられる。
「どっせぇぇぇぇいっ!!!!」
そのとき怒声を上げて悪魔に躍り掛かったのは、あの自称Sランク冒険者の男だった。
男が繰り出した斬撃は、この国の剣術とはまったく異なる理念から成っていた。
だが紅華から見ても惚れ惚れするような素晴らしいものだった。
たとえあの悪魔だろうと、まともに受ければタダで済まないはず--
しかし悪魔に刃が届く寸前で、急に彼の動きが鈍くなってしまったように見えた。
そのせいか、素手であっさりと受け流されてしまう。
「勇猛さだけは評価に値しますが、奈落で呆気なく敗北を喫したことをもうお忘れですか?」
「っ!」
男の顔面に、悪魔の拳が叩き込まれようとする。
だが男は寸前で首を捻り、それを回避。
「ほう、躱しますか。ですが」
「がっ!?」
悪魔は間髪入れずに蹴りを放っていた。
腰を強かに打ち据えられ、男が盛大に顔を歪める。その際、嫌な音が鳴った。あれは肋骨の一、二本は確実に折れただろう。
それでも男は「んの野郎ッ!」と歯を食い縛って剣を振るう。
悪魔はしゃがみ込んで避け、すかさず追撃。
長い腕から繰り出された拳が男の下顎を打ち抜いた。
そこからはほとんど一方的な展開だった。
紅華では目で追うことすらできない速さの拳や蹴りが、次々と必死に防御に徹する男を打ち据えていく。その度に痛々しい殴打音が響き、男の顔から折れた歯や血が飛んだ。
それでも男は倒れることなく、悪魔の攻撃を浴び続けている。
「に……げ、ろ……」
「っ……」
すでに意識は朦朧としているだろうに、男は悪魔を引き付けることで紅華を逃がそうとしているのだ。
そうと知った紅華は、恐怖で硬直していた自分の足に拳を叩きつける。
その痛みが怖気を振り払い、一国を治める者としての矜持を思い出させてくれた。
悪魔を睨み据え、彼女は宣言する。
「わらわは剣の国として名を馳せるジェパール皇国女皇である! 相手が悪魔であろうと、侵略者を前にして逃げる気など毛頭ない!」
さらに愛刀を手にして構えた。
「……おっと、失礼。つい楽しくなってしまいまして」
悪魔はボロ雑巾のようになった男を放り捨てると、おかしそうに口端を吊り上げた。
「それにしても、思いのほか威勢の良い雌で結構です。これは調教のし甲斐がありそうですねぇ」
「黙れっ! わらわは貴様ごときに屈しはせぬ!」
紅華は叫び、上級悪魔に躍り掛かろうとする。
だがそれを阻む者たちがいた。
「おんしら……っ!?」
本来なら紅華を護る立場にあるはずの近衛兵たちだった。
「か、身体がっ……」
「くっ……なぜ……!」
その行動に反して、彼らは苦悶の表情を浮かべていた。
まさか悪魔に身体を操られてしまっているのかと、紅華は奥歯を強く噛み締める。
悪魔には黒魔法を使える個体が多いと聞いたことがあった。
先ほどあの大男の動きがいきなり鈍くなったのも、そのせいかもしれない。
「早くっ……お逃げをっ!」
「わ、わらわは逃げぬ!」
意地を貫こうとする紅華だが、無論、近衛兵たちを攻撃する訳にもいかない。
逡巡している間に、周囲を彼らによって取り囲まれてしまっていた。
そして刀を奪われ、彼らに手足を拘束されてしまう。
「っ!? くっ、何を……っ!」
しかも着物を脱がされていく。
「ち、違うのです、陛下! 身体が勝手にっ……」
「やめろっ! 陛下にこんな不忠を働くなど、いっそ死なせてくれ……っ!」
近衛兵たちは泣きながら叫ぶが、抗うことができないらしい。紅華も抵抗するが虚しく、徐々にその美しい肌が露わになっていく。
「ははははは! ですがアレは正直なようですねぇ? 美しい主を前に、普段から欲情されていたのではないですか?」
「そんな馬鹿なことをっ……」
「悪魔め!」
「その通り、わたくしは悪魔でございますので」
これほどの屈辱があるだろうかと、顔を紅潮させながら紅華は悪魔を睨む。
ついには肌襦袢まで剥ぎ取られようとしたそのときだった。
「ッ!?」
突然、悪魔がその場から飛び退いた。
数メートル先に着地すると、その顔に初めて驚きの表情が浮かんでいた。
見ると、背中がバッサリと切り裂かれている。
「完璧な隠密からの完全な不意打ちだったんだがな……。さすがは上級悪魔ってとこか」
誰もいない空間から声が聞こえてきた。
かと思うと、徐々にその青年が姿を現す。
「レイジ殿っ!?」
◇ ◇ ◇
「……何者ですか?」
上級悪魔が警戒した様子でそう誰何してくる。
「俺はレイジ。Sランクの冒険者だ」
律儀に応えてやりつつ、俺は思案する。
この上級悪魔、〈隠密+10〉を持つ俺が完璧な奇襲を仕掛けたというのに、寸前で察して躱しやがった。本当なら身体を両断してやるつもりだったのだが。
〈気配察知+10〉スキルを持っているせいだろう。
バモット
種族:悪魔族(上級)
レベル:104
スキル:〈体技+10〉〈拳技+10〉〈蹴技+10〉〈黒魔法+10〉〈闇魔法+10〉〈召喚魔法+8〉〈氷魔法+5〉〈無詠唱+8〉〈物攻耐性+9〉〈毒耐性+6〉〈痛覚軽減+8〉〈炎熱耐性+6〉〈寒冷耐性+6〉〈魔法耐性+7〉〈自然治癒力+8〉〈気配察知+10〉〈闘気+8〉〈統率+6〉〈限界突破+2〉
称号:元男爵
って、レベル104!?
おおっ、よく見たら〈限界突破〉スキル持ってるじゃないか!
道理でレベルが100越えてるわけだ。
……欲しいな。
是が非でも〈死者簒奪〉で奪いたいところだ。
問題は倒せるかどうかだが……Sランクのサルードのおっさんですらボコボコにやられたみたいだしな。
部屋の隅っこにボロ雑巾のように転がっているが、生命値はまだ残っているので生きているだろう。
「わたくしの背後を取った上に、ここまでの傷を負わせる人間がいるとは思いませんでしたよ」
「その割にまったく痛がってないな」
〈痛覚軽減+8〉を持っているからだろう。〈自然治癒力+8〉もあって徐々に傷が癒えつつあるが、それでもあの深手なら動きは幾らか鈍るはずだ。
「くっ、おんしら、やめよ……っ!」
と、そこで女王が今まさに近衛兵たちによって裸に剥かれようとしているところだったことを思い出す。あの悪魔の黒魔法で強制的に動かされているのだろう。
俺も黒魔法を使い、兵士たちの支配権を強引に奪おうとする。
うーん、どうにか少し動きは鈍くなったが、上書きすることはできないか。
俺は前にリッチから〈死者簒奪〉で〈黒魔法+10〉を奪ったが、この悪魔も〈黒魔法+10〉だからな。スキルは+10でカンストなのだ。
「っ!? わたくしの黒魔法に干渉してきている……?」
上級悪魔は驚いてくれたようだが。
兵士たちの動作が鈍くなったお陰で、紅華女王は自力で彼らの拘束を振り解いた。
「レイジよ、おんしのお陰か……っ?」
「ええ、今のうちに逃げてください」
「恩に着る! だが、わらわは逃げるわけにはいかぬ」
いや逃げてくれよ。
さすがに俺も、女王を庇いながらこいつを倒せるかどうかは分からない。
「せっかくのお楽しみを逃がすわけにはいきませんよ」
そう言って嗤う悪魔の足元から影が伸び、瞬く間に部屋中に広がっていく。
壁や天井すらも覆い尽くし、気が付けば俺たちは真っ暗な闇の中に捕らわれていた。
これは……超級の闇魔法、暗黒領域(シャドウワールド)か。
物理的に逃げ出すことは不可能。さらにこの空間にいると魔法が封じられてしまうため、転移魔法を発動できない。
脱出するには術者を倒す以外になさそうだ。
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