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気が付くと、時計は10時近くを指していた。
真理は起き上がって服の皺を伸ばしてから炭酸水をコップに注ぎ、ごくっと一気に飲み干した。竜一も「一杯ちょうだい」というので、飲み終えたグラスに炭酸水を注いで手渡した。
部屋の窓を開けると、すでに雨音はなく、冷たい空気が室内に入り込んだ。真理は真っ暗になったクライストチャーチの街を見ながら「聖スウィジンズデイって知ってる?」と尋ねた。竜一が「何それ?」と聞き返すと、「だから初めてキスしたの」と振り返って答えた。竜一は解せない表情であいまいな微笑みを返してきた。
7月15日は、イギリスでは聖スウィジンズデイと呼ばれている。言い伝えによると、1000年もの昔、教会の前に埋められた聖スウィジンという司教の遺体を教会の内部に移すために墓を掘り起こそうとすると、40日間も大雨が降り続き、作業にならなかった。それ以降、神父の命日の7月15日は彼の名にちなみ、聖スウィジンズデイと言われ、その日に雨が降ると40日間雨が降り続き、逆に晴れた場合には40日間晴天が続くという言い伝えが残った。
高校時代、イギリスに短期留学していた真理は、現地のホストファミリーからこの故事を聞いていた。農家に居候させてもらっていたため、大雨は困ると笑いながら大柄な主人が言っていた。日本にはてるてる坊主という天気に関するおまじないがあるとティッシュを使って作ってあげると、一家は好奇なまなざしでてるてる坊主を見ていた。末っ子の男の子は楽しそうに庭先に持って行って天にかざしたが、てるてる坊主の効力も期待しなくていいほどに星が輝いて見えていた。実際、その年の7月15日は晴れたが、3日後には雨が降った。まあ言い伝えとはこんなものだろうと真理は思ったが、聖スウィジンズデイという聞き慣れない言葉は耳の奥に残っていた。
7月15日という日は、真理にとっては「お盆」という印象が強かった。8月にお盆を迎える家が多いが、真理の実家は地元でも珍しく7月のお盆を伝統としていた。先祖を思い、墓参りして合掌する。暑くなり始めた7月の夏空の下、群青色に光る海を望む霊園の光景が真理は好きだった。真理が大学1年のころ祖父が亡くなり、初盆を迎えた時は自宅をきれいに飾って親族と墓参りに出かけた。祖母は気丈にふるまっていたが、簡単な宴が済んで静かになった夜、一人で仏壇に飾ってある祖父の写真をじっと見つめながら背中が震えていた。真理はたまらず祖母の背中をさすると、「ありがとな」と涙声で感謝された。祖母は彼岸や盆に限らず、こまめに祖父が眠る墓を訪ねて花を供えたり墓石を磨いたりした。ただ、その霊園も今は地震と津波で墓石が倒壊し、再建もままならない状態だった。
7月15日に2人がクライストチャーチで再会できたのは偶然だったが、真理は何かに背中を押される思いがしていた。イギリスでも、日本でも、この日は魂が巡る。過去の悲しみも将来への希望も交錯する。竜一に初めて抱きしめられたのも、キスをしたのも、聖スウィジンズデイというどこか不思議な巡り合わせを思ってのことだった。
「今日は雨だったけど、今はもう空に雲はないでしょ。竜一さんとの関係がこれからも晴れるといいなと思って」と真理は説明を付け加えた。竜一は真剣な表情で聞いてくれて、「なんだかロマンチックだね。そういうの好きだよ」と言った。そして、「じゃあその魔法はあと2時間も続かないってことじゃない?」と時計を見て言い、窓際の真理の背中を抱いて首筋を唇で吸った。2人はもう一度ベッドに倒れ込んだ。
真理は明日、竜一が帰国してしまうことを寂しく思った。互いにもう二度とこんな機会はないとわかっていただけに、今までの思い出を反芻し、この瞬間を永遠に感じながら時を忘れて2人は愛し合った。
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