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「今日はハンカチいらないかと思ってたのにな」とはにかみながら竜一は胸ポケットから白いハンカチを抜いて真理に渡した。
「ホントに」と言いながら真理は目尻を拭い、白い歯を見せた。「ごめんなさい」と言って、ふっと息をついた。竜一は、香水の匂いに包まれてろうそくの灯に照らされ、瞳を潤ませる真理の姿に美しさとはかなさを感じ、優しく抱きしめたいと思った。
竜一は椅子に座っている真理の横で片膝を着いて目を見つめ、「一つだけ願い事があるんだけど」と言った。真理が「なに?」と聞き返すと、竜一は少し言い淀んで、「抱きしめたい」と告げた。ハンカチを握りしめたままの真理は「うん」とうなずき、椅子から降りて竜一の胸に顔を埋めた。
飛び込んできた真理の背中を、竜一は強く抱きしめた。胸に感じる真理の息づかいと、吐息の温かさで2人の距離の近さを感じた。手のひらで頭を上から下になでると、香水とは違ったほのかなシャンプーの香りを感じた。竜一はもう一度、真理の背中を優しく抱きしめた。
オークランドでは、ハリネズミ公園でも、流れ星を見た時も、抱きしめ合ったことはなかった。それは真理の倫理観と、一線を越えなかった竜一の一種の礼儀から暗黙のタブーとなっていた。しかし、竜一は始めて全身で真理のぬくもりや肌の柔らかさを感じ、幸せとはこういうことなのかと思った。愛している人と少しの距離も置かずに触れ合える。これが最初で最後だとわかっていたとしても、竜一はこの喜びを一生忘れ得ないと思った。
1分ほど強く抱き合った後、竜一は「体勢がつらいからベッドに座ろうか」と言って一度真理から離れた。真理は地面に落ちたストールを拾って、三つ折りにたたんで椅子に置き、ベッドに腰掛けた。竜一も横に座ると、真理が竜一の方を見た。
「願い事があります」
「何でしょう」
「キスしていいですか?」
「真理さんはいいの?」
「いいの」
「じゃあ」
竜一が真理の肩に手を置き、体を寄せると、真理は少し顔を上げて目を閉じた。竜一は無垢な顔を一瞬見つめ、唇を重ねた。小ぶりな真理の唇は弾力があり、柔らかかった。竜一も目を閉じ、少し強く唇を押しつけた。真理のかすかな鼻息が竜一の顔をくすぐる。真理がつけている香水が鼻を刺激した。30秒ほどして唇を離し、見つめ合い、「願いが叶った」と真理は微笑んだ。竜一は「僕も」と言って強く体を抱き寄せた。
2人にとって今この瞬間、互いの瞳に写る相手の姿がこの世界の全てだった。
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