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2月が過ぎ、3月に近づくと夏もそろそろ終盤に差し掛かっていた。
真理は、竜一からニュージーランドの北島東部にあるタウランガという観光地に、仕事で知り合った現地人の夫妻がいるから一緒に遊びに行こうと誘われた。タウランガの街の近くには南太平洋を一望できる岬があり、その近くには砂浜を掘れば温泉が湧いてくる変わったビーチもあるらしい。4月から日本の支社へ戻ることが内々に決まっていた竜一が、最後の思い出旅行にと真理を誘ってきたのだ。
竜一からは「タウランガのおもしろい親父に真理のことを紹介したら、是非会いたい。たらふく酒を飲ませてやると言われている」と説明を受けた。竜一と泊まりに行くことに気乗りしていなかった真理だったが、夫妻と娘もいるから2人きりではないと割り切り、行ってみることにした。真理はニュージーランドでホームステイするのは初めてだった。
車で3時間ほどかかるタウランガには、竜一が借りたレンタカーで向かった。道中、ニュージーランドに来たからには一度は見ておいた方がいいと言われる「グロウワーム」を見学することにした。グロウワームは洞窟の中に寄生する蛾の幼虫で、暗い場所で青白く光って見える。それが真っ暗な洞窟の内部に無数にいるため、まるで星空のような光景が見られるらしい。蛾の幼虫と聞いて嫌がったのは竜一の方で、真理が絶対に見たいと頼み込んでしぶしぶ了承してくれた。
ワイトモというオークランドからタウランガに向かう途中の地域に、切り立った石切場のような丘があり、洞窟はその一角にある。受付で20ドルを払って予約を済ませると、15分後にガイドが案内をするから時間に合わせて来いと言われた。時間になって行ってみると、何組かの観光客がいて、ガイドらしき陽気な男性がニコニコとこちらに近づいてきた。どこから来たのか聞かれ、日本だと答えると、「クール!」と返ってきた。隣の夫婦はオーストラリアだと言うので、隣の国かと思っていると、「オーストリア、ウィーンだ」と言った。ガイドはその夫婦にも「クール!」と言って握手した。もう一組のアメリカから来たバックパッカーのような2人組の青年にはなぜか「クール!」は出なかった。
1組に1つずつランタンが配られ、グロウワームの説明を受けて洞窟の中に入った。入り口からは肌寒い風が緩やかに吹いていて、真理は竜一の陰に隠れて風を防いだ。洞窟内には木製の歩道が設けられ、手すりも付いていた。ただ、階段が多く、足下を照らすのはランタンだけで、竜一も真理もおっかなびっくり洞窟内を移動した。行き止まりには広い階段の踊り場のようなエリアがあり、そこでガイドから説明を受けた。どうやってエサを取っているかなど、最初は懸命に理解しようとしたが、途中から英語の説明が早くてついていけず、聞き流していた。
いよいよランタンを消してくれという声が聞こえたので、一行が持っていたランタンを消すと、洞窟の天井部分に無数の青白い光が浮かび上がった。ガイドは「満天の星空のようでしょう」と自慢げにいい、何やら説明を続けている。竜一と真理はオマペレやピハの海岸で星を見上げたように顔を上に向け、しばらく何もしゃべらずに見入っていた。時間が経つにつれて目が暗闇に慣れたのか、光がよりはっきりと見えるようになった。
竜一が「2人で星空を見るのは3回目だね」というと、真理は「でも、ピハの方がきれいでしたね」と答えた。「それを言っちゃあおしまいよ」と竜一は突っ込んだが、「でも確かにそうだね」と同意した。グロウワームも確かにきれいだったが、色とりどりの、しかも無数にきらきらと瞬くあの星空は2人がこの先二度と出合う機会のない最高の光景だったことを再認識した。
洞窟観光を終えた2人は、タウランガに向かい、午後3時ごろ到着した。グラエムとジェイドの夫妻は日本好きで、竜一の会社が取り持った日本の観光ツアーに参加したことがきっかけで竜一と知り合いになったらしい。昼からすでに酔っているような陽気な笑顔で迎えてくれた旦那のグラエムは竜一を熱い抱擁で歓迎した。ジェイドも優しい笑顔で2人を迎えてくれて、真理は緊張が少し解けた。玄関の奥から顔だけを出してこっちを見ている女の子は2人の一人娘のジェシーだ。7歳になるというジェシーはほっぺたが赤く、明らかにグラエムに似たお調子者の顔だが、初対面の日本人2人が来てさすがに人見知りしているようだった。竜一と真理が「こんにちは」と声をかけると、恥ずかしそうに「こんにちは」と答え、ジェイドの背中に抱きついて隠れた。
2人の自宅は2階建ての大きな一軒家で、スモモの樹が生えた大きな庭と、プールまで付いていた。プールに感激していると、グラエムが「入るかい?」と言ったので、竜一は「いいの?」と言ってすぐに服を脱ぎだした。砂浜の温泉用に真理も水着は持っていたが、さすがに遠慮してジェイドとプールサイドから眺めることにした。グラエムと竜一、それにプールと聞いて飛び出してきたジェシーも加わって水浴び大会が始まり、子どものように飛び込んだり、ビールを飲みながら顔だけ出して泳いだりして、3人は大はしゃぎしていた。その姿を見て真理も楽しくなった。
ジェイドが用意してくれた軽めの夕食を食べ、午後7時ごろから酒盛りが始まった。真理が竜一と用意した大吟醸の日本酒をグラエムに渡すと、飛び上がって喜んでくれた。一方のグラエムも赤白のワインを5本ずつ用意し、準備は万端だった。つまみはジェイドが作ったピクルスやスナック菓子。スモークサーモンは日本酒にもよく合った。
「ところで2人はいつ結婚するんだ?」とほろ酔いのグラエムが質問してきて真理は面食らったが、竜一が「来年には」と返したので、慌てて訂正した。「何だ付き合っていないのか」とグラエムはがっかりした様子だったが、真理が日本酒を注ぐと、ニコニコした顔を浮かべて「まあ幸せにな」とよくわからないエールを送ってくれた。
日本酒が終わり、ワインも3本目になって酔いが回ったころ、グラエムは自分の仕事の自動車整備の話をし始めた。真理が日本でマニュアル車の免許を取るときにクラッチを踏む動作がどうしても苦労したと言ったら、「クラッチ?」と言ってグラエムはゲラゲラ笑い出した。最初はなぜ笑っているか理解できなかったが、よくよく聞くと、クラッチの「ラ」の発音が「LU」か「RO」で意味が変わってくるらしい。車のクラッチは「L」だが、真理は「R」の発音をしていたらしく、それでは「股間」という意味になるそうだ。一生懸命「股間」を踏んでたのかとグラエムは50歳を超えたいい年なのに中学生のように笑った。それにつられて竜一も笑い、真理は恥ずかしい思いをしたが、発音の大切さを身をもって認識することができた愉快な経験になった。
翌日、二日酔い気味の竜一をたたき起こして、グラエムと一緒に太平洋が見える岬へ行き、その後、竜一と2人で温泉が出るという砂浜に行った。大きなスコップで30分ほど掘ってみたが、全く湯が出る気配はない。泥だらけになってしまい、早く湯につかりたかったが、いくら掘っても出てこなかったのであきらめることにした。グラエムの家でシャワーを借りて汗を流して、「温泉が出なかった」と言ったら、ジェイドが「あれは少し寒い時期にならないと出ないはずだ」と言われた。「なら行く前に言ってよ」と真理は思ったが、「またその季節に来ます」と言った。目的の半分は達成できなかったが、2人の親切な夫婦に出会い、美しい岬の風景を楽しめたことは満足だった。ただ、オークランドの自宅に帰ると、ハウスメートから「なんでそんなに泥だらけなんだ」と怒られた。懸命に砂浜の土を掘ったことが原因だったため素直に、「温泉を掘ってたの」と答えると、ハウスメートのハヌルは「温泉?」と言ってぽかんとした顔で真理を見つめた。
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