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 竜一は、真理と別れて自宅に帰り着くと、ベッドにへたり込んだ。

 実は朝から体調が悪く、38度を超える熱があった。重要な会議があったので会社にも行った。そして、念願の真理との食事の機会を逃しては後悔すると思い、気合いで乗り切ろうと思った。風邪による変な汗と、トムヤムクンの辛さによる汗も混じって真理には気持ち悪がられたかもしれないと思った。そして何よりも婚約していたことには驚かされた。彼氏がいてもおかしくはないと思ったが、左手の薬指に指輪もはめている。普通の人の一目惚れならフィアンセがいるとわかった瞬間に断念するだろうし、竜一もそうすると思った。しかし、どうしてもここで引いてしまっては後悔するという思いが消えず、タイ料理の熱にも浮かされ、とりあえず今後も遊びに行くという言質をとった。彼氏にはならないと念を押されたが。それでも竜一はようやくスタートラインに立てたというか、ここからが自分の本領発揮だと思った。

 真理からカイの話を聞いて、優しそうで知的で、人間的な魅力がある青年だと感じた。もちろん、毎日連絡しているらしい。竜一がこの間に割って入ることはほぼ困難だと思ったが、せっかく真理が近くにいるのだから、ニュージーランドのいろいろな場所に連れて行って寂しさをまぎらわして楽しんでもらおうと思った。

 翌日はさらに高熱が出て会社を休んだが、次の日は体調が回復した。何日かしてニュージーランド暮らしが長い職場の日本人の同僚にどこかデートで使える場所はないかと聞くと、ビクトリアの丘という街中から少し離れた港近くに小高い丘があって、そこからの景色は昼も夜もきれいだと教えてくれた。自分の車を持っていない竜一は、会社の同僚たちとバーベキューパーティーを計画し、荷物を運ぶためにレンタカーを手配することにした。そして、そこに真理たちも誘うことにした。真理にそのことを伝えると、シェアハウスメートも誘っていいか聞かれたので、もちろんと答えると了承してくれた。一つ下の会社の後輩、彰に全ての計画を話して仕掛け人として手伝ってもらった。決行は2週間後に決まった。

 オークランド中心部から車で30分ほどの場所にビクトリアの丘はある。丘のふもとはコーラルブルーの海が広がるきれいな湾で、夏場は多くの海水浴客で賑わう。竜一たちのグループは海沿いの公園でバーベキューの準備をし、昼間から総勢15人の宴会が始まった。真理もルームメイトの2人と、その友人2人を加えた計5人で参加した。お互いに英語は完璧ではないが、ともにワイワイと肉を焼いて酒を酌み交わせば初対面にもかかわらず仲は急速に近づいた。

 イベント好きな竜一は、一人一芸なにか演し物をしようと唐突に言い出し、自分はトップバッターとして大学時代に覚えた高知のよさこい踊りを披露して喝采を浴びた。続いて彰はラガーマン特有の自慢の身体を生かした筋肉を披露し、女性陣から歓声が飛んだ。竜一は真理が何を披露するだろうと想像して注目していたが、いっこうに真理は焦る様子がない。いよいよ真理の出番になって皆の前に出ると、くるりときれいなバック転を披露し、皆の度肝を抜いた。真理の話では、幼いころは器械体操を習っていて今でもその名残でバック転ができるらしい。アンコールを求められて2回連続でくるくると回ると、酔いのせいか2回目の着地が乱れ、背中から「ドスン」と倒れてしまった。それでも軽い身のこなしで起き上がり、服の砂を払って笑顔で演技を終えたフィギュアスケーターのような優雅なお辞儀をして皆から拍手を受けた。

 竜一は真理の身軽さを見て、「よさこいに誘おう」と思い立った。日本文化を紹介するオークランドの一大イベント「ジャパンデイ」が年明けに予定されていて、竜一は大きな公園のステージでよさこいを披露することになっていた。しかし、よさこいを踊ったことのある人はほとんどおらず、皆から敬遠されていた。「彼女ならきれいに踊れるはずだ」と一人納得し、はしゃぎながらルームメイトの歓声の輪に戻る真理の横顔を見た。

 バーベキューを終え、竜一は真理に声をかけ、海が見渡せる丘へ登ろうと誘った。ビーチから歩いて5分ほどの場所で、散歩がてら真理もついてきた。丘を登った海沿いには、原住民マオリ族を称える石碑が建っていて、観光客らしき一行が記念写真を撮っていた。海から離れた方向には大きな牧場のような広場があり、一面に芝が生えている。だいぶ向こう側に、ここの管理人の待機部屋らしき赤い屋根の建物が見えた。

 竜一は空き地の真ん中ほどまで来て、ごろりと寝転んだ。晴れていたが、強すぎない日差しが心地よかった。真理を呼ぶと、「気持ちよさそう」と近くに寝転んで、深呼吸する声が聞こえた。芝生の上に寝転ぶと、草の香りに包まれ、外の喧噪が全く耳に入らない。まるで真理と2人だけの世界にいるような感覚になった。

 真理を見ると、気持ちよさそうに目をつぶっていた。真理の寝顔を初めて竜一はスマホに収めようとしたが、途中で気付かれ、「こらっ」と怒られてしまった。

 竜一は「ここはカクリヨの丘だね」と言うと、真理は「カクリヨ?」と聞き返した。

 「寝転ぶと、音が聞こえなくなる世界から隔離された丘。だから隔離世の丘」

 「確かに、カクリヨだ」と真理も妙に納得してくれた。

 10分ほどして真理が戻りましょうと声をかけてくるまで、竜一はうたた寝をしていた。目を開けると、太陽のまぶしさに目をしかめながらも、真理がこちらをのぞき込んで、手を伸ばしていた。思わず竜一は真理の腕をつかんで引き寄せようと力を込めたが、真理は器用に手をふりほどいて、今日二度目の、さっきよりも強い「こらっ」が出た。

 「置いていきますからねー」と一人ですたすたとビーチに戻って行く後ろ姿を見て、「髪に草が付いてるよ」と言いながら、竜一は急いで後を追った。

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