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 岩手に帰った真理は、仕事の合間にニュージーランドで過ごした5日間を思い出す日々が続いていた。

 留学していた中国から帰って来て初めての海外で、やはりビジネスだとしても外国はいいなと再認識していた。帰国してから1週間経ったが、連絡先を交換した竜一から音沙汰はなかった。ここ数日、カイとの電話でニュージーランドの話ばかりしていて、カイは「よっぽど楽しかったんだね」と言って喜んでくれた。一番印象に残っていることを聞かれ、思い返してみると、なぜかとっさに竜一の顔が思い浮かんだ。印象的な出会いなのは間違いなかったが、男性として意識することはなかった。浮気や、隠すという気持ちはなかったが、電話口では竜一のことではなく、「クライストチャーチの被災地の光景が印象に残っている」と答えていた。「真理らしいね」とやさしい声をかけられ、真理の良心がチクリと痛んだが、青い海と空、北の方角に太陽が昇る不思議な感覚を味わった経験を話すうちにその思いも薄れていった。

 真理は大学の同級生と交わした昔の会話で、「一度行った国に惚れて、その国をもっと知って多くの場所を訪れたくなる」と話したことを思い出していた。景色か、食べ物か、被災地という共通項か、ニュージーランドのどこが琴線に触れたのか自分でもよくわかっていなかったが、いずれにしても真理はニュージーランドのことが帰国後も猛烈に気になっていた。帰国したばかりなのにガイドブックを買ってみたり、ニュージーランドの満天の星空や雄大な自然が載った写真集を買ってみたりして、ここも行ってみたいと想像を膨らませていた。

 帰国からしばらくしたある日、帰宅してみると真理のPCに竜一からメールが届いていた。

 「――先日はありがとうございました。ニュージーランドは気に入ってもらえましたか?今度来る時もいい旅を案内しますのでお声がけください」と簡単な内容だった。ニュージーランドへの思いが最高潮に達していたころだったこともあり、真理はすぐに返信した。

 「――こちらこそありがとうございました。とってもニュージーランドが好きになりました。写真集まで買ってしまいました。また必ず行きます」

 竜一からの返事はその日のうちに返ってきた。

 「――すっかりニュージーランドのとりこですね!気候もいいし、住みやすいところです。ワーキングホリデーで来ている友人も何人かいるから、短期間でもよければ考えてみては?」

 そのメールを見て、真理の心は動揺した。震災を中国で迎え、家族の近くにいたいという思いで岩手での就職を決めた。海外での仕事はあきらめた…。そのはずだった思いが、揺れ動きだしたように感じた。

 (本心ではやっぱり海外で働きたいんじゃないの?)

 (短期間ならいいんじゃない?)

 (カイも応援してくれるはず…)

 いろいろな思いがこみ上げてきた。気持ちの整理がつかず、竜一へは「また行く時は連絡させてください」とだけ返信した。

 仕事で海外に行って気持ちがのぼせたのか、それともこの気持ちが浮かんできたのは自然なことなのか。いずれにしてもカイや家族に相談してから考えよう、そもそもワーキングホリデーとはどんな制度なのか、いろいろと調べてある程度時間を置いてから決めようと思った。

 その週の日曜日、日帰りで被災地に住む両親に会いに行った。両親にもニュージーランドのことは折に触れて話していたため、思いは伝わっていたようだった。

 「オークランドっていうところはね、ここみたいに海が近くて魚介類がとってもおいしかったの」

 「クライストチャーチの復興は進みつつあるようだったけど、まだぽつぽつと町中に更地が点在してた」

 現地で見て感じたことをありのままに伝える顔には真剣さと、親としては久しぶりに見る生き生きとした感情が透けて見えたようだった。

 「仕事だったけど、久しぶりの海外を楽しめてよかったじゃない」と母が声をかけると、真理はコクッとうなずいた。早朝の漁から戻り、仮眠を取っていた父も起き出して真理の話には耳を傾けてくれていた。父は真理の気持ちを見透かしたのか、「海外で仕事をしたくなったんじゃないか?」と笑顔で真理に聞いてきた。

 真理は一瞬、心臓の鼓動が早くなったが、その言葉を言われたいがために自分は両親に会いにきたのかもしれないと、素直に気持ちを打ち明けた。

 「実は帰国してからずっとそのことを考えてるの…。でも、就職する時に岩手に戻って家族の近くにいると決めた気持ちは今も変わっていない」

 葛藤のさなかにいる真理の気持ちを父は優しく受け止めてくれた。

 「焦って何かを決めることはないと思うよ。真理の人生はこれからも長く続く。けど人生は一度きりだ。震災で犠牲になった人は突然、思い描いていた夢を奪われた。やりたいことをやる。それも大事な判断基準だと思う」

 一言ずつかみしめるように父は言葉をつないだ。母もいつものように優しい瞳でこちらを見つめて黙ってうなずいてくれた。

 「ありがとう」と真理は応えて、もう少し考えてみると続けた。そして、ちょっと海を見てくると言って車のキーを持って玄関を出た。幼いころから悩みごとや気持ちを静めたい時に真理は海を見に行った。車で5分ほど行くと海水浴場があったが、震災で地盤沈下したせいか、砂浜部分が少なくなっていまは使われていない。真理は堤防の脇に車を停め、何を考えるでもなく誰もいない海を見つめた。ザザーッと波が寄せては返す音が心地よく聞こえる。磯の香りが一層強くなった。堤防に腰掛けて目を閉じると、9月の心地よく涼しい浜風が髪をなびかせた。

 「やりたいことをやる。それも大事な判断基準」

 父はいつも自分の背中を押してくれていたなと子どものころからの思い出がよみがえった。東京の大学へ進学する時、中国へ留学する時、岩手に帰って就職する時。自分の決断を尊重してくれた。「期間を決めて海外に行ってみるのもいいかな」と真理の心は傾きつつあった。それには結婚を申し込まれているカイの意見も聞かないと決められないと思った。車に戻って携帯電話を取りだし、海を見ながらカイに電話した。

 4コール目で通話になったが、仕事場にいるらしく、「ちょっと待って」と言ってオフィスの外に歩く音が電話越しに聞こえてきた。

 「真理、どうした?」

カイの優しい声を聞くと、真理はなぜか胸が締め付けられ、涙がこみ上げそうになった。

 「ごめん、仕事中だった?」

 「ちょっと片付けたい仕事が残ってて、休みだけど出てきちゃった」

 簡単なやりとりの時はメールやメッセージで済ませていたが、電話の時は直接声を届けたい、もしくは聞きたいという時だった。

 「電話、どうしたの?」

 「いま実家に戻ってるの」

 「お父さんとお母さんは元気かな?」

 「元気だよ」

 「そっちはもうすぐ寒くなるね」

 たわいもない会話が続いたあと、真理は続けた。

 「お父さんにね、ニュージーランドが楽しかったって話したの。そしたら、気持ちを見透かしたんだろうね、海外で働くのもいいんじゃないかって言われた…」

 カイは黙って聞いてくれた。

 「自分の中でもちょっとだけそんな気持ちが出てあったんだけど、改めてそう言われるとやっぱり気持ちが揺れるっていうか。岩手に戻るためにいろいろと就職の時に決めたのに」

 自分の気持ちをカイに吐露した。ずっと聞き役に回っていたカイは、真理が言い終えるのを待って、「僕も真理の気持ちを応援したい」と言った。

 真理は「でも結婚の話もあるし…」と心配そうな声で言うと、「真理は真理の気持ちに従った方がいいと思う。ずっと後悔してこの先をともにするのも悲しいし」とカイは答えた。

 真理が「期間を決めて行くっていうことも考えてるの」というと、「いい考えだと思う。僕は真理のことを応援してるよ」と言ってくれた。

 遠くの海で、小型船が白波を作って海を横切っていった。

 「海外で学んだことを戻ってきて生かせば、もっと輝いた真理になれる気がするな」

 カイの言葉が心にしみこんでいく。

 「…ありがとう。少し気持ちが落ち着いた。近いうちに東京に行くから、その時にまた話させてね」

 真理がいうと、「待ってるよ」と温かい声が返ってきた。

 真理は電話を切って車に戻る前、振り返ってもう一度海を見つめた。淡く穏やかな光を反射させたいつもの海がこちらを見守ってくれているように感じた。すーっと深く潮風を吸い込み、体の中に故郷の空気を満たしてから帰路に就いた。

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