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竜一はレセプションパーティーが終わった後、慌てて女性の姿を捜したが、一行は足早にバスに乗り込み、市街地のホテルへと戻っていった。
名刺に連絡先は書いたものの、あの反応なら向こうから連絡してくることはないだろうと思った。
「ああ惜しいことをした」
竜一は帰りの車で独りごちた。運転はマイクに任せていたため、漆黒の闇となった海と、遠ざかるホテルの明かりをミラー越しにとらえながらあの女性のことを考えていた。マイクは珍しくため息をつく竜一を見て「何かあったの?」と問いかけたが、竜一は聞こえたような、聞こえていないような素振りで「いや」と小さく声を出した。マイクは、もしやパーティー会場で何か仕事のミスを犯したのかと心配したが、支店長も満足そうに帰っていったからそんなことはないと考え直し、口をつぐんだ。
マイクもパーティーに出席したが、ハンドルキーパーだったため酒は飲まず、ニュージーランドの郷土料理も飽きていたため日本の郷土料理として出された寿司をたらふくほおばっていた。寿司のネタはニュージーランドで獲れたものなので目新しいものはなかったが、竜一はマイクにカツオの刺身にゆずを少し搾ってしょうゆをかけて食べるという食べ方を教えた。半信半疑のマイクがチャレンジすると、「柑橘系の独特の酸味が口の中に広がり、意外といける」と喜んだ。「今度両親にも教えてあげる」と気に入ってくれた様子だった。
会社に近づいても竜一は黙り込んでいたので、もう一度マイクは「どうしたんだい、兄弟?」と問いかけてきた。
「いやね、すっごくかわいい日本人がパーティーにいて、話しかけて名刺まで渡したんだけど、向こうの名刺をもらいそびれてさあ。名前も聞きそびれたし」
「何だそんなことか」
「そんなこと、じゃないよ!」
竜一は珍しく大きな声を出した。
「てっきり仕事でミスしたのかと心配して」
「心配してくれてありがとう。でも、ある意味仕事のミス以上にショックは大きいかな」
竜一はしおれた草のように言葉少なに語った。
「でも」とマイクは続け、「竜一は日本に彼女がいたんじゃなかったっけ?」と聴いた。
「そうなんだよ。もちろん彼女のことが好きなんだけど、何というかそれとこれとは別というか、この人いいなって人いるでしょ?男女関係なく。理屈抜きで好きというか…。第一印象がそういう人だったんだよなあ」と竜一は遠い目をした。
竜一には付き合って2年になる彼女がいた。長崎での勤務時代、旅行の添乗員として案内した、地元で医療事務として働いていた亜希子という女性だ。長崎にいたころは週2、3回会い、たまに彼女が竜一の家に泊まりにも来ていたが、竜一がニュージーランドに転勤してからは一度も帰国していないため、まだ会っていない。ただ、基本的には毎日連絡を取り合うし、ネットを使って太平洋を隔てていながら会話も楽しめていた。時差も4時間程度と比較的小さいため、全く生活リズムが合わないということもなかった。
亜希子は竜一より3歳年下で、おとなしい性格だった。もの静かすぎるところが竜一にはもの足りない気がしたが、おっとりしていながらも、根はしっかりものの長崎らしい女性で、竜一以上にお酒は強かった。
出会いはハワイへの旅行の添乗員として竜一が付き添った時、亜希子は病院の慰安旅行で25人の団体客の一人として参加していた。院長である医師を筆頭に、看護師や放射線技師など病院の面々が参加した。亜希子は15万円の参加費に一瞬たじろいだが、友達に相談すると、「15万じゃいけないコースだから絶対に院長か誰かが負担してる。この機会を逃したらダメだ」と背中を押されて医療事務スタッフとしては一人だけ参加することに決めた。院長は奥さんも連れてきていた。2人はハワイに行きなれているようで、現地のショップ店員やレストランにも顔見知りがいるほどだった。亜希子たちハワイ新参者は院長たちに金魚のフンのようについて行くのがやっとだったが、海でのダイビングやマウナケア登山、パンケーキのおいしい店にと、あっという間に5泊6日が過ぎた。
竜一とは2日目の夜と最終日の夜に団体全員で食事を一緒にした。院長と竜一がハワイに行くのは2回目で、院長の旅行の相談は竜一が請け負っていた。はつらつとしたところと、地元の名門高校の同窓生ということもあってすぐに竜一は気に入ってもらった。院長は竜一を食事に呼び、一番若かった亜希子を竜一の隣に座らせてディナーを楽しんだ。赤ワインを味わい、いつのまにか2本空いていた。院長も竜一もだいぶ目が座ってきたが、亜希子は少し酔ったかなというくらいだった。院長は奥さんにほどほどにしておきなさいと釘を刺されたので、「じゃあもう一本だけこの2人のために!」と言い訳のような一言を添えて注文し、自分も一杯だけ飲んだ。
物怖じしない竜一は亜希子にあれこれ質問した。地元は長崎のどこ?病院で働き出したきっかけは?旅行はほかにどこに行くの?長崎で好きなお店は?好きなタイプは?彼氏はいるの?酔いに任せて会話は止めどなく流れ、いつもはあまり話さない亜希子もほほを赤らめて饒舌になっていた。
最終日の夜にも院長は竜一を招き、旅行企画への感謝と無事に帰り着くことへの祈願、そして亜希子と竜一をくっつけようという画策が見え見えの席順でささやかな食事会が始まった。もうハワイを満喫して満足した亜希子は思い残すことはなく、参加に背中を押してくれた友人に心から感謝していた。
竜一が「ハワイで何が一番よかった?」と聞くと、亜希子は昼からビール飲めたことですねと、とんちんかんな答えが返ってきた。「ハワイじゃなくても飲めるでしょ」と院長が突っ込むと、「いやいや、この開放的な空気感のなかで飲むのが最高じゃないですか!」と特徴的な八重歯を見せて笑った。それは確かにそうだと皆が妙に納得した。
「しかし、亜希子さんがこんなに楽しそうにお酒を飲むのは初めてみた。こっちも楽しくなるよ」と院長がご満悦だった。院長はよっぱらいついでに「竜一くん、どうだ、うちの亜希子さんはいい女性でしょう」と水を向けると、竜一は「そりゃもう!」と言ってビールを飲み干した。竜一がちらっと亜希子を見ると目があったが、亜希子は照れくさそうに目線をそらした。付き合い出したのは帰国後ほどなくしてデートを重ね、2カ月が過ぎたころからだった。
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