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真理は結局、大学を卒業して岩手に戻ることに決めた。
得意の語学を生かせると考え、地元の国際交流協会への就職を目指した。大学の就職活動支援センターには、東京に本社を置く商社や国際機関など語学を生かした仕事を望む学生が多く出入りしていた。真理はかつて夢見ていたそれらの仕事にはあえて触れず、東北地方の業者が集う東京での就職説明会や、時には盛岡や仙台まで高速バスで帰って説明会に足を運んだ。なるべく家族と会う時間を作ろうと、岩手に戻る機会があれば、両親に連絡して盛岡まで車で迎えに来てもらうか、JRを使って沿岸部まで行き、両親と同じ仮設住宅に寝泊まりした。両親は盛岡の親戚宅を4月末に出て地元の小学校の体育館に設置された避難所に移った。そして、震災から半年後には仮設住宅に入居していた。
帰省ついでに食べる母親の手料理は温かく、6畳の狭い居間の中央に置かれたこたつ机を3人で囲み、就職活動の話や学校での様子を語る時間は何にも変えられない貴重な時間だと感じた。ただ、ふとんを敷いても床の薄さからか底冷えがひどく、湯たんぽでふとんを温めてからしか寝られなかった。こんなにも大変な状況で両親や被災地の人たちは懸命に暮らしているのかと真理はふとんに横になり、暗闇を見つめて考えた。
真理は懸命な就職活動のおかげで、国際交流協会から無事内定をもらうことができた。東日本大震災以降、東北の田舎町でも海外からの支援へのお礼として直接世界各国とつながる機会が増え、協会はその窓口役の一つとして機能していた。中国語、英語が堪能な真理は貴重な即戦力の人材だということで採用された。
大学を優秀な成績で卒業した真理は2013年、晴れて岩手に戻って社会人生活をスタートさせた。海外から訪れる団体とのやりとり、地元首長が物産展をかねて海外に向かう際の通訳兼アテンダントとして活躍した。真理は就職してから内陸部の盛岡市に暮らしていたが、月に1回は車で沿岸部にドライブがてら通い、両親と顔を合わせた。
父は地元漁師と共同で漁船を購入し、仕事を再開していた。母も当初は壁の薄い仮設暮らしに戸惑っていたが、父の懸命に働く姿と生き生きとした表情が戻ってきたことに元気をもらい、少しずつ平穏を取り戻していた。元々の近所同士が同じ仮設住宅の団地に住み、今まで以上に日頃から声を掛け合う機会が増えた。その点でも両親の気持ちは落ち着きつつあるように見えた。
地元の街並みは、がれきが撤去されたが、その分ただの更地になって寂しい光景が広がっていた。震災から1年以上が経っても夜中や早朝に携帯電話やテレビの緊急地震速報が鳴り響き、震度5前後の余震が数カ月に一度は発生した。そのたびに真理は両親に電話したが、沿岸部に暮らす人は意外に落ち着いていて、「津波注意報が出ていないから大丈夫だろう」とか、「今回は揺れがゆっくり長かったから念のため高台の避難所に来た」という答えが返ってきた。同じ県内にいながらも、内陸部に住んでいると、少しずつ感覚は違ってくる。気持ちは被災地を思っていても、気付かないところで震災の影響は薄らいでいるのかもしれないと思った。一人暮らしの寂しさもあったが、真理は岩手に帰ることを決めたきっかけでもある「家族を大切にする」、「家族と一緒に過ごせる時間を少しでも大切にする」という思いは、常に頭の片隅に置くように意識しようと思った。
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