真理が中国から帰国した後、学内の帰国報告会でカイという中国人の留学生と知り合った。

 カイは真理がいた北京出身で、地元の大学を卒業し、大学院に進んだ。現在は日本の芸術大に留学して日本語と芸術、特に浮世絵の分野を専門に学んでいるらしい。真理が中国で学んだことを学内の教授やゼミ生の前で報告した後、学生食堂での立食パーティーが開かれた。カイは日本で知り合った真理と同じ大学の留学生から今回のパーティーの件を聞き、友人を増やしたいと思い、参加していた。

 パーティーの輪の中心にいた真理をカイは少し離れたところから眺めていた。きれいな北京語を使うなという印象と、落ち着いた知的な顔立ちが、言って見ればタイプだった。視線を投げかけてくるカイの気配に真理も気づき、少しほほえんだ。

カイは頃合いを見て真理に声をかけた。

 「はじめまして。中国から留学しているカイと申します。私も北京出身なので、街の様子を聞いていると懐かしく思いました」

 「日本語お上手ですね。敬語を使いこなせるなんてすごいじゃないですか」

 真理は率直にカイの語学力を褒めた。「真理さんこそ北京語お上手ですよ」とカイも微笑み返した。双方、中国と日本を行き来した境遇であること、真理が北京で下宿していた地区がカイの高校の近くだったことで気持ちはぐっと近づいた。

 「また北京のことや東京のことをお話しましょう」とパーティーの終盤でカイが言うと、「ええぜひお願いします」と真理は北京語で応えた。連絡先を交換し、カイは会場を去って家路についた。十条にある自宅に帰ってからも真理との会話を反芻し、日本に来て一番楽しい夜だった、と心が満たされる思いがした。

 真理も発表が終わり、緊張感から解放されたためか、いつもより少ないお酒で酔いが回っていた。いろいろと北京でのプライベートの話を聞きたがる同級生の女友達の誘いを断ってこの日は帰宅した。風呂上がりに携帯電話を見ると、カイからメッセージが届いていた。

 「今度、時間があれば上野美術館に行きましょう」

 中国語で書かれていた文章に、真理は「楽しみにしています」と今度は日本語で返信し、部屋の電気を消して眠りについた。


 真理とカイがつきあい始めたのは、出会ってから2カ月後、3回目のデートでミュージカルを見に行った帰りだった。劇団四季のオペラ座の怪人をどうしてもみたいというカイの誘いに応じ、2人で見に行った。真理もライオンキングやサウンドオブミュージックは見たことがあったが、オペラ座の怪人は初めてだった。圧倒的な声量と聞きなじみのあるテーマ曲が流れると鳥肌が立ち、3時間の終了までがあっという間に感じた。カイも映画では見たことがあったと話していたが、生の観劇は初めてとあって興奮が冷めない様子で、終わった後もうれしそうにテーマソングを口ずさんでいた。

 カイの行きつけの新大久保のコリアンタウンで夕食の焼き肉をほおばった二人は、午後8時ということもあり、新宿に出て一杯だけ飲み直すことにした。カイはきょう誘った時点で告白することを決めていた。真理もカイから好意を抱かれていることを薄々気付いていた。

 新宿ではたまたま見つけたバーに入ってカウンターに隣り合って座り、真理はジントニックを、カイはウイスキーの水割りを頼んだ。2人はこれまで何度か会った時に、中国と日本でのそれぞれの体験を話し合っていたが、具体的な話、たとえば家族の話題にまでは及んでいなかった。

 ふと、カイが自分には両親はいるが、弟が幼いころに交通事故で亡くなったと打ち明けた。湿っぽい話をすることはこれまでなく、カイが初めて見せた弱い部分だと真理は感じた。6歳年下の弟とはケンカもせず、仲が良かった。優秀なカイよりもさらに頭の回転が速く、成績はもちろん、気の利き方もすばらしい、周囲を明るくできる自慢の弟だった。しかし、カイが14歳のころ、家族で買い物中、弟は道路に飛び出して車にはねられた。衝撃で15メートルも飛ばされ、頭を打って死んだ。

 両親には言っていなかったが、父と母2人が家族おそろいのTシャツを選んでいる間、カイと弟は店内で追いかけっこをしていた。6歳差だからカイは手加減しながら追いかけていたが、弟は必死に逃げた。カイが店の入り口まで追い詰めてタッチしようとすると、弟はするりと身をかわし、開いていたドアから店の外に出た。勢い余った小さな体が道路に飛び出て、通りかかったトラックにはねられた。カイの目の前で起こったことだが、両親には事実とは違う説明をしていた。弟を捜していたところ、外が騒がしくなり、行って見ると車と衝突していたと言った。ウソをついている後ろめたさと、大好きだった弟を失った喪失感で、半年あまりは両親よりカイが落ち込んだ。年を重ねるごとに悲しい思いは次第に薄らぎ、通常の生活を取り戻していったが、心の底にはいまも白状できていない真実を抱えていて、月命日には北京の方角を向いて寝る前に手を合わせているという。

 両親にも打ち明けていない秘密を告白された真理は、軽々と言葉を返すことはできなかった。けれど、それだけカイから信頼されていると思い、心の距離がまた一つ近づいた感じがした。カイが話し終えて少し沈黙が続いた。「なんだかごめん」とカイが謝ったが、真理は首を振って「話してくれてありがとう」と言った。次は真理が自分の祖母が震災の津波に巻き込まれた話を始めた。

 祖母は三陸の港町で漁業を営む家に生まれ、船の乗組員で同じ町に住む祖父と結婚した。祖父はその後独立して自分の船を持ち、祖母は父親たちきょうだい4人を育てながら夫を支えた。浜が最も活気づくサンマ漁の時期には喫水線ギリギリまで魚を獲り、大漁旗を掲げた船が戻ってくるのを今か今かと岸壁で待ち続けた。同僚の船が火災で沈没し、4人が犠牲になった事故ではいち早く機関長の自宅に行って家族を励まし、炊き出しをして捜索の知らせを家族とともに待った。

 献身的で他人に優しく、笑顔がすてきな少しふっくらした女性だった。もちろん、孫の真理にも驚くほどやさしかった。けれど、一度だけ白飯とさんまの刺身を飽きたと言って食べ残した時だけは「まんまを粗末にしたらダメだ」とひどく怒られた。以来、真理は出された食事はごはん一粒も残さずに食べるように気をつけるようになった。中国留学の際は、宴会で食べきれないほどの量を提供するため最初は全部食べようとしておなかがはち切れそうになったが、後で残してもいい文化だと聞いて無理に食べることはなくなった。けれど、もったいないという思いは抜けず、総菜コーナーのようにタッパーに詰めて持ち帰って現地であきれられた。だが、すぐに真理らしいという好意的な評判に落ちついた。

 そんな祖母の話をカイは楽しそうに聞いていたが、震災の津波に飲まれて亡くなったと真理が打ち明けると、一気に表情がこわばった。父親から聞いた、施設から避難している最中に津波に巻き込まれたこと、遺体は数日後に見つかったこと、中国から帰国して帰省した際、遺影に手を合わせたことを訥々と語った。いまも目を閉じると祖母の優しい顔が思い浮かぶというと、カイもその気持ちはよくわかると真剣な目で答えた。死んでしまっても、周囲の人の心の中に故人は生き続けている。カイと共通の思いがあることに真理は心が温かくなった。

 カイは「人はいつ亡くなるかわからない。だからこそ、今いる家族を大切にしたいんだ」と続けた。真理が震災後、ずっと思っていたことと同じだった。そして、その思いは自分の将来の進路をも変えようとしている。「本当にそうだよね」と真理は深くうなずいた。

 結局、バーでは4杯ずつ飲み、話に夢中になって時間は終電間際になっていた。駅に向かう途中、カイは真理の腕を引き、2人は向かい合った。

 「真理さん、僕と付き合ってください」

 通行人がせわしなく横を通り過ぎるなか、二人は時が止まったように見つめ合った。

 真理は笑顔で「はい。よろしくお願いします」とうなずき、握手した。

 カイもやさしく両手で握り返した。真理はふと見えたカイの時計に目をやり、「いけない、電車が来ちゃう」と駅に走りだし、急いでバイバイと手を振ってから終電に飛び乗った。電車のつり革につかまりながら、真理は今日交わした会話を振り返った。カイの弟の話、祖母の話。何よりも家族を大事にするという価値観の一致が、2人を近づけたのだなと再認識した。

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