真理は岩手県内の高校を卒業後、東京の大学に出て語学を学んだ。

 海外とのやりとりもある遠洋漁業を営む父の影響で英語だけは幼いことから関心があり、高校2年の夏休みを利用してイギリスに短期留学したこともあった。大学では中国語を専攻。3年時には半年間北京に留学し、将来は通訳か大使館での勤務を夢見ていた。しかし、留学の終了を間近に控えた2011年3月11日、東日本大震災が発生して考えは変わった。

 地震と共に引き起こされた津波は東北地方を襲い、真理の生まれ故郷の岩手県も波にのまれた。港町にある真理の実家は10メートル以上の津波が襲来し跡形もなく全壊した。両親は無事だったが、高齢者施設に入所していた祖母は避難途中に津波に巻き込まれた。中国にいた真理は、インターネットやテレビの限られた情報にかじりつき、不安な日々を過ごした。両親とは4日目に連絡が取れたが、祖母の訃報も同時に知らされた。精神的な緊張が続いていたことと、祖母の死を実感できないふわふわとした現実の中で3月末まで真理は寝込み、帰国は2週間先延ばしになった。ただ、彼女の中で将来思い描いていた夢や漠然としたあこがれが、砕けたような気持ちがしていた。

 帰国後、大学の友人たちはいよいよ始まる就職活動の話をしていた。語学を学んでいただけあり、国際機関や商社、外国語教師など自分の強みを生かそうと皆新しいスーツに身を包んで手帳を繰っていた。真理は帰国後の疲れを癒すことと、何より震災による故郷の被害を自分の目で確かめるため、少しの間岩手に帰ることにした。

 4月の東北はまだ寒い。沿岸部は内陸部と比べて比較的暖かいが、冷たい浜風が吹き続ける日には家の中でじっとしておくのが一番だった。ただ、今はその家もがれきと化していた。新幹線が復旧していなかったため、真理は夜行バスで東京から盛岡へ向かった。バスの中では眠れなかった。テレビで見た映像を思い出しながら、自宅のあった町並みを想像した。本当にあの集落がなくなったのだろうか。通っていた小学校の体育館が今は避難所になっているらしい。被害を免れた盛岡市内の親戚の家に身を寄せている両親の体調は…。福島、宮城、岩手とバスが北上するにつれて、その思いは大きくなっていった。

 朝7時過ぎ、バスはJR盛岡駅前のビルに到着した。浅い眠りから覚めた真理が荷物を受け取るために車外に出ると、驚くほど冷たい空気が頬を刺した。「これだ。この冷たさだ」と東北の寒さを思い出し、ようやく岩手に帰ってきた思いがした。車で駅まで迎えにきていた両親はすぐに見つかった。一見、あまり変わっていないように見えたが、理不尽なほどの大きな揺れと、経験したことのない津波を目の当たりにしながら、肉親と自宅を奪われた2人の目には疲労と緊張の色がこびりついていた。「おかえり」といつも通りの声をかけてくれた母の姿を見て真理は思わず涙があふれ、抱きついて肩を震わせた。父も後ろからぶ厚い手で真理の頭をなで、生きて再会できた喜びを噛み締めた。

 盛岡市郊外にある親戚宅には納骨を済ませていない祖母の遺骨があった。横にはこちらを見て微笑む祖母の顔写真が置かれていたが、死に目にも火葬にも立ち会っていない真理はあまり実感が持てなかった。ただ、遺影の前で手を合わせて目を閉じると、お菓子や果物を食べきれないほどくれて真理を喜ばそうとするやさしかった祖母の姿が思い浮かび、やはり涙を止めることはできなかった。震災、津波とはなぜこんなに無辜の人々を奪ってしまったのか。むなしさとやりきれない怒りがこみ上げた。真理は両親に、「明日は沿岸部に行って家のあった場所を見てみたい」と頼んだ。そのつもりだったのだろうと両親は黙ってうなずいたが、父親からは一言、「覚悟はしておいたほうがいい」と言われた。

 翌朝、3人は被災地で避難生活を続けている知人に物資を配るため、車にトイレットペーパーやウエットティッシュなどの生活用品を積み込み、父は漁師仲間に配るタバコを買い込んで出発した。盛岡市を抜けて国道を通って沿岸部に近づいていく。道中、ボランティアで駆けつけたであろう、県外ナンバーの車とよくすれ違った。

 昼前、ようやく真理たちが住んでいた街にたどり着いた。1キロあまり内陸部でも津波が到達したのか、砂埃が激しく舞っていた。海に近づくにつれ、原型をとどめない瓦礫が山となって積みあがり高さが増していった。木造の家は土台だけ残されて一軒も見当たらない。コンクリート造りの家はその場にとどまっているが、中身はからっぽの廃墟となっていた。あの家にも、この家にも人々の営みがあったのに。街一面が色を失い、褐色となっていた。がれきの上にぽつんと置かれていた泥だらけのクマのぬいぐるみがさびしそうにこっちを見ていた。

 真理の実家は、海からすぐ近くにあった。到着するまでに別の地域の町並みを見ていたため覚悟はしていたが、やはり家は基礎の土台部分だけ残して跡形もなくなっていた。風呂場のタイルが一部残っていたため間取りを思い出せたが、それがなければどこがどこだか検討もつかないほどきれいに流されていた。

 「何にもないね」と真理がつぶやくと「んだな」と父親が答えた。

 「これから、どうすっぺかな」

 ため息交じりにいった父親の言葉が浜風に流された。海を見ると、防波堤と船の係留場は残っていた。しかし、船は一隻もなかった。津波の圧倒的な力で陸に打ち上げられたものや、強烈な引き波で沖合に流されたもの、がれきや船同士でぶつかりあって大破したもの。いずれも自慢の商売道具が津波でやられてしまった。

 3人は真理の母校でもある小学校に向かい、体育館に避難している知り合いに物資を届けに行った。真理は幼いころからかわいがってくれた隣のおばさんやおじさんの疲れきった姿を見て心が痛んだ。あんなにやさしい笑顔を振りまいていたおばさんは1カ月もの避難所暮らしで血圧が上がり、体調が悪いとため息をついた。畳屋を営んでいたおじさんも機材がすべて流され、意気消沈していた。何より、自慢の跡取り長男が消防団として避難誘導していたときに波に飲まれたらしく、まだ見つかっていない。「どこかで生きてるんだべかな」と無表情につぶやく声に真理は何も言えずに黙ってうなずくしかなかった。

 真理が震災の影響を知るにはこの半日で十分だった。むしろ、まだどこかいくかと父親に問われ、もうこれ以上見ることはできないと思い、盛岡に戻ろうと告げた。同級生たち若い人たちは何人か地元に残っているが、誰かに会いに行っているのか避難所にはいなかった。皆の将来やこの街はこれからどうなるのだろうと帰りの車内で不安が渦巻いた。

 「お父さんはこれからどうするの?」と真理は尋ねた。まだいろいろと決められる状況ではないのはわかっていたが、聞いておかずにはいられなかった。

少しの沈黙があって、「あそこを離れるつもりはない」と芯のある声が車内に響いた。母親もそのつもりだったらしく、「そうね」と同調した。

 「また船をこさえて漁にでるさ」。帰省して初めて父親の笑顔を見た。

 「ところで真理の方はどうすんだ?」と返ってきた。

 中国で震災の映像を見て以降、漠然と思い続けていたことが脳裏に浮かんだ。

 「せっかく留学させてもらったし、大使館とか商社とか、海外に関する仕事をしたいなと思ってた。けど、震災があって少し気持ちが変わったの。いつ会えなくなるかわからない、大切な人たちの近くにいたいって…」

 今回の帰省でさらにその気持ちは強くなっていた。

 「私、岩手に戻ろうかな。というか、戻りたい」

 自分の気持ちの変化を口にしたのは初めてだった。就職活動の時間はあまり多く残っていなかった。微妙な沈黙が流れる。

 「真理がやりたいようにやったらいい。でも、感情的な部分に流されんように東京に帰ってもう一回考えてみなさい」

 ハンドルを握った父の横顔がまっすぐ前を見据えて言った。真理が「んだな」とつぶやくと、久しぶりの岩手弁が出てきたおかしさに車内は一転して明るい空気に変わった。

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