第36話
目の前に立っていたのは、かつての婚約者のカーティスだった。
サーラは呆然としたまま、彼を見つめる。
(こんなところまで、カーティス様が?)
リナン王国の国王陛下と王妃陛下が、彼が国を出ることを許すとは思えない。
だとしたらカーティスはサーラを追うために、王太子の地位はもちろん、王族であることさえも捨てて、この国まで来てしまったということだ。
「……ごめんなさい」
サーラの口から、謝罪の言葉が零れ出る。
たしかにカーティスから受けた仕打ちは理不尽なもので、とうてい許せるようなことではない。
でも思い出してみれば、何度も謝罪してくれた彼に、サーラは一度も向き直ったことはなかった。
ただカーティスを否定して、逃げただけだ。
そのせいで、彼はこんなところまで来てしまった。
「サーラ? どうして君が謝る必要がある?」
彼によって理不尽に運命を変えられてしまった。
でもサーラもまた、カーティスの運命を狂わせてしまったのかもしれない。
「すべてお話します。ですから、わたしの家まで来て頂けませんか?」
家にはルーフェスがいる。
今からする話は、とても路上で話せるような内容ではないし、彼に立ち会ってもらったほうが安心だった。
「家……」
カーティスは戸惑ったようにサーラを見る。
「君は、盗賊に攫われたのではなかったのか」
思っていたようにカーティスは、サーラが修道院から帰る途中に攫われたのだと思い、探していたのだろう。
実際は攫われたのではない。自分から逃げたのだ。
そのこともすべて、話さなくてはならない。
そう決意したサーラは、カーティスを連れて自分の家に帰った。
「ルーフェス、ただいま」
そう声を掛けると、奥の部屋からルーフェスが姿を現した。
「サーラ?」
彼はサーラがひとりではないことに気が付いて、不思議そうに声を掛けてきた。その姿を見たカーティスの顔が強張る。
「黒髪の男。お前が、サーラを」
「待ってください!」
カーティスが、腰に差していた剣に手をかける。それを見たサーラはルーフェスの前に立ち、全身で彼を庇うように両手を広げた。
「彼は……。ルーフェスはわたしの恩人なのです」
カーティスの態度から察するに、彼はサーラが行方不明になったときに一緒にいたルーフェスを、疑っていたようだ。
だが、今のサーラにとってルーフェスは、誰よりも大切な人だ。絶対に傷付けさせるわけにはいかない。
「……君が、そう言うのなら」
驚いたような顔をしていたカーティスは、やがて静かに剣から手を離した。
ほっとしたサーラだったが、背後にいたルーフェスに手を引かれ、気付いたら彼の背後に庇われていた。
「相手が誰であれ、敵意を持った人間の前に立ってはいけない」
「私には、サーラを害する気持ちはない」
剣から手を離したものの、ルーフェスに対する敵意を隠そうとしないカーティスに、サーラは狼狽える。ルーフェスもまた、サーラを庇ったまま動こうとしなかった。
「ルーフェス」
困り果てたサーラは、彼にそう声をかけた。
「町でカーティス様にお会いして、同行して頂いたの。きちんと話をしなくてはならないと思って。それには、ルーフェスが一緒にいた方が安心だったから」
「……わかった」
ルーフェスはサーラがカーティスを連れてきたこと、話し合いをしたいのだということを伝えると、すぐにサーラの意志を尊重してくれた。
カーティスは、サーラが彼に頼り切っている様子を見て、困惑したようにふたりの顔を交互に見つめていた。
「カーティス様。すべてお話いたします。どうぞ、部屋の中へ」
そう促して、先に立って歩く。
カーティスはまだルーフェスを警戒していたが、サーラの言葉に従ってくれた。
まだソファーとテーブルしかない応接間に通して、向かい合わせに座る。古びた家が物珍しいのか、カーティスは周囲を見渡していた。
ルーフェスは少し離れたところに立ち、静かに様子を見守ってくれている。
「カーティス様。わたしは、自分の意志であの国を出ました」
どこから話すべきか迷った挙句、サーラは最初にそう告げた。
「父から、あの国から。そして、カーティス様から逃げ出したかったのです」
「自分の意志で? だが、君の父であるエドリーナ公爵は、娘は盗賊に攫われてしまったのだと断言していた。一途に想っていた娘の気持ちを、どうか忘れないでほしいと……」
やはり父は、自分を利用してカーティスの廃嫡を狙っていたのだろう。
サーラは両手をきつく握りしめた。
カーティスが父の言葉を信じてしまったのは、サーラが何も言わずに彼を拒絶して、逃げてしまったからだ。
カーティスが理解してくれるまで、きちんと伝えるべきだった。それをしなかったせいで、彼は何もかも捨ててこんなところまで来てしまったのだ。
「あの国にいた頃、わたしはすべて父の言いなりでした。カーティス様との婚約も、修道院に入ったのも、すべて父の命令です。わたしがあなたをずっと想っていたということも、父の嘘でした」
その嘘に騙されて、すべてを捨ててしまったのだ。カーティスが激高しても無理はない。
そう思って、サーラは唇を噛みしめる。
「わたしが逃げ出したのも、父に命令されて、あなたと結婚して見張るように言われたからです。もうこれ以上、父の言いなりになるのは嫌でした」
エリーに嫌がらせをしていたと勘違いされていたあのときのように、怒鳴られると思っていた。
そのときの恐怖と絶望が蘇ってきて、握りしめていた手が細かく震える。
背後には、どんなときも味方になってくれるルーフェスがいる。
だから、耐えられた。
「……そうか」
でも予想に反して、カーティスは激高しなかった。
ただ、苦しそうな声でそう呟いただけだ。
「私はサーラに愛されていなかったのだな。……あれほどのことをしてしまったのだ。それが、当然か」
噛みしめるような言葉。
今まで信じてきたことが、すべて偽りだったのだ。
受け入れ難いことだろうに、カーティスはそれをすべて飲み込むように、固く目を閉じた。
以前のカーティスなら、間違いなく怒鳴り散らしていたところだ。
初めて、彼の謝罪が本物だったと信じることができた。
「リナン王国に戻るつもりは?」
「ありません。今のわたしは、あの国とも父とも関係のない人間です。定住許可証を申請して、発行してもらいました」
ここにいるのは、リナン王国の貴族でも、公爵令嬢でもない。
パン屋で働く、ただのサーラだ。
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