六 宙
楽之稀屋はあくまでも「頼みごとを聞く」、そして「迷っているものを案内する」ことがその役割だ。それが終われば、あとは他の役者たちに任せることになる。
だから僕はあの河が何処に流れてゆくのかも、どこからら流れてくるのかも知らない。知らないが、舟を漕ぐことだけはできるので、僕は指定された場所まで彼らを案内する役を担っている。
終点を知らないから、勿論この後お客様がどうなるかは僕は知らない。そのままどこかに消えるのか、生まれ変わるのか、はたまた違う何かなのか。
「どのような形でも、また来てくださいね」
別れ際に僕が言うと、お客様は小さく笑った。
「いけるかなあ。でも、是非。ご飯美味しかったです、とお兄さんに伝えてください」
そうして、舟に運ばれていくのを見送った。あとは、普段通りに僕と店長は二人で店に戻った。
甲高くヤカンが喚いて、僕は意識を引き戻した。
紅茶缶からバサバサと茶葉を出して、温めておいたティーポットに入れる。店員の一人が買ってきてきたその紅茶は、すっかり店長のお気に入りになっていた。冷蔵庫に冷えたケーキ群を見て、名前もわからないからふたつ適当に見繕うと、店長の分と自分の分とを居間へ運ぶ。
向かい合わせに腰掛けると、僕は真っ先に紅茶に口をつけた。熱い液体が喉を降りていく感覚。真っ白なケーキをフォークで掬って口に運べば、冷たい洋菓子が転がっていく感触。僕はこれが大好きなのだ。
「うん、美味しい」
店長もカップに口をつけて、嬉しそうに目を細めた。
「そうですか。よかった」
「君にも味がわかればいいのだけど」
「どうでしょう。あれば面白いとは思いますけど、それでも僕なりに美味しいとは感じてますから。温度とか、見た目とか、色々」
「温度がわかるようになったのはなによりだね」
「もっと色々とわかるようになりたいです」
「それは追々ね」
くすりと微笑んで、店長はケーキを口に運ぶ。気に入ったらしく、続けて三口で皿を空っぽにした。唇を舐めて、伺うようにこちらを見る。
「気になっていることがあるね」
店長は首を傾げた。
「もう慣れたものだろうに。ああいうお客様はたくさんいるのだから」
「慣れるだけ、気になるんです」
確かに、迷い客は山ほど来るのだが、迷う理由がわかりやすい例が多かった。恋しい人がいるだとか、死んでも死に切れない相手がいるだとか、そう言う相手の頼みごとを聞いて、叶えて、送ってきた。
その中で、迷う理由が分かりにくい人もいる。
「あの人はずっと、子供の頃の喧嘩のことを気にされてたんでしょうか。大きくなっても、ずっと?」
生きていく中で、もっとセンセーショナルな出来事や、悲しい思いもあったろう。普通に生きていても、後悔なんて大小あわせて山ほどあるものだ──というのは同じ楽之稀屋に勤める少女の言葉だが、友人との喧嘩別れ以外にも事件は大小あったはずだ。
それなのに、あの人の道を霧がからせたのは、小さな喧嘩だった。そして霧を晴らしたのも、またささやかな事なのだ。店長は小さく微笑んだ。
「店長にはわかりますか」
「さあね。でも、何が蟠りになるかはわからないものだよ。そしてそれを解くものがなにかだってわからない。それは本人にとってもね」
「そういうものですか」
「そういうものさ。忘れかけていた遠い傷かもしれないし、或いは直近の悔しさかもしれないし」
誰にもわからない。棘が刺さったまま歩く人もいる。小さな棘で動けなくなることもある。
僕は出来事を飲み込むようにもう一口紅茶を啜った。
店長は食べ足りなかったらしく、僕のケーキの皿を指差して、また首を傾げた。僕としては一口味わえば十分だったのでそっと差し出す。
「ありがとう」
「いえ、僕はそんなに量を食べられませんから」
「ここのケーキは美味しいね。また買ってこようか」
「“
店員の一人の名前を挙げれば、それがいいねと店長も頷いた。
「ついでに君も行っておいで。私と二人で店でぼんやりしているよりも、きっと楽しい。それに、七波くんの選ぶケーキは少し、独特だ」
君が選んでくれたら嬉しい、と言うので、
「わかりました」
素直に頷いた。僕としても彼女一人に買い出しを任せるのは気が引ける。
束の間のティータイムが終わって、食器を下げる頃に家のあちこちの扉が開く音が聞こえた。仕事をする者、仕込みをする者、遊びに来た者、様々だが一気に賑やかになる。あの扉の向こうは全て、流れる時間や景色が違う。そこに待つお客様もまた違う。
「休憩はおしまいだね。さ、宙。次の物語を手伝いに行こうか」
店長が腰を上げて、もう一度
「行こう」
と繰り返す。僕もすぐに後に続いた。
「そうしましょう」
次の話に向けて、僕たちは揃って部屋を出た。
(さよならゆうれい またいつか:了)
(次:きつねこんこん あめふらし)
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