五 宙

 叫んだ声に弾かれるように顔を向けると、道端で一人の少年が泣いていた。

 お客様の目が開かれる。しかしすぐに頭を振った。

「よく似てるけど……あいつじゃない。あいつのわけないよ。うんと歳をとってなきゃ」

「でしょうね」

店長は静かに少年を見つめていた。

 泣いている、というのは語弊があるかもしれない。必死に唇を噛み締めて、眉を寄せて、顔を皺くちゃにして、泣くことを堪えているようだった。少年は脇目も振らずにせかせかと足を動かしていた。まだ新しい黒いランドセルをぎゅっと握りしめて、地面を睨みつけている。

 閑静な住宅街。

 何かを思い詰めた少年は周りを見ずに道路にさしかかる。

「危ない!」

叫んで、誰よりも先に駆け出したのは、お客様だった。ビクッと肩を揺らして立ち止まった少年の鼻先を、自転車が走り抜ける。「前見て歩け!」と怒号を残して去って行った自転車を見て、今更に周囲を見渡していた。

 少年がこちらを見て、首を傾げた。

「……私が見えるの? 聞こえる?」

「えっと……」

期待に目を輝かせるお客様に、少年は困ったように眉尻を下げて、ボソボソと声を出す。

「は、ハロー、ニーハオ、ボンジュール? コンニチハ」

「こんにちはでいいよ」

「ごめん、……えっと、何? 君が何言ってるかわかんない。この辺に住んでるの? 旅行中?」

「私は……」

「だめだ、わかんない」

どうやら、そこに人がいるとは認識しているらしい。けれど、声は届いていない様子だった。

 すっかり同世代の姿に落ち着いたお客様相手に、少年の警戒心はない様子で、しかし言葉の通じない相手にどう接すればいいのかを考えあぐねているらしい。さっきまでの泣き顔は驚きでどこかへ掻き消えていた。気の優しそうな少年があーだこーだと語りかけて、お客様が一言二言返して、また少年が首を捻って。


 僕が傍の店長を見上げれば、「まあ、たまたま見える人もいるでしょうね」と肩をすくめただけだった。

 お客様が何かを言おうとして、少年に手を伸ばしたところで、

「シュウくん!」

同じくランドセルを背負った少女が走ってきた。手にブザーを構えて、今にも引っこ抜かんばかりである。

 やってきた彼女は肩で息をしながら、キョロキョロと辺りを見た。その目には何も映らないようで、困惑の色が濃くなる。

「あれ……?」

「ユカちゃん、…………怒って帰ったんじゃなかったの」

「……だ、だって、変なのに連れていかれそうだったから……気のせいだったけど……」

もごもごと言いながら、

「ここ、なんか気味悪い。行こ」

少女は少年の手を握り引き摺るように大通りの方へと大股で歩き出した。少年はおろおろとしながらも素直に引き摺られていく。少年はお客様に手を振った。

「あ、君、さよなら! またね」

「シュウくん!」

少女はビクビクと周囲を見ながら、歩く速度をあげていく。


 離れていく小さな背中に、僕たちは置いていかれる。ランドセルカバーに書かれた名前がだんだんと小さくなっていく。ささやにあう声が風に乗って届く。

「だれもいないよ」

「いたよ、ちっちゃい子」

「…………ねえ、変なのについていったら、変なとこに連れていかれちゃうんだよ。そーいうのは見たらだめなんだよ」

「普通の子だよ。外国の。……それよりさ、ユカちゃんはもう怒ってないの?」

「シュウ君が変なこと言うから怒ったんじゃん」

「ユカちゃんだってひどいこと言ったじゃん」

「シュウ君だって先にバカって言った。三回も」

「……それは、だって」

「…………ごめん、嫌だったから、言いすぎたかも」

「僕もごめん、ふざけすぎたかも」

「カモって何さ」

「ユカちゃんこそ」

手を繋いで、二つの影は坂を下って、遠くに消えていく。最後に聞こえたのは、母親の得意料理の話だった。遊びに行く約束をしながら、二人は角を曲がって消えた。


 幻のように、嵐のように二人は去った。

 呆然と見守っていたお客様が、勢いよく振り返って僕の肩を掴んだ。僕はすっかり低くなったその目線に合わせるように、そっと身を屈める。

「あの子、あの子の名前! 見た?」

僕が頷いて、それを読み上げれば、あいつの名前だと嬉しそうに声を跳ねさせた。あいつの苗字に、あいつに似た顔、性格はうんと優しいみたいだけど、きっとそうだろう? と店長にも視線を向ける。店長はゆっくりと頷きで返した。

「小さな棘になって、ずっと心に引っかかっていたのでしょう。遠い昔に離れたご友人のことが」

「うん。あいつは……あいつは、幸せになったんだね。幸せに生きてるんだ」

「ええ、きっと」

「よかった……」

ひどく安堵した様子で、明るい笑い声を上げた。僕は思わず瞬きを繰り返す。


 僕にはまだ、理解ができない話だ。それでも、お客様がふわりと軽くなったことは感じとれた。

「私がアイツを幸せにしたとか、あの日の喧嘩が許されたとか、そんなことはないのはわかってます。それでも、身勝手ですけど、よかった。すっかり疎遠になって、あいつが不幸になっていたら嫌だなってのは、ずっとどこかで思ってたんです。でも、あいつには棘になってないのかあ」

あいつらしいや、と笑って、「しかし悔しいな、私ばっかり気にして」とまた笑う。

「よかった、なんだか胸の内の霧が晴れたみたいだ」

 お客様は安心し切ったように空を仰いだ。僕も空を見上げて、微笑んだ。

 抜けるような青空、かかる雲はない。




***



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