四 宙

 揺蕩う河の流れは、基本的にはひどくゆっくりだ。場所によってはかなりの激流になって、そうなると店長でなければ舟を御せなくなる。穏やかな水面は何も映さない。

 最初の方は、濃霧と色褪せた岸辺が広がるばかりだった。時折行き交う舟もあるが、乗っている人はわからないほどに遠い。水飛沫を上げないようにと気をつけて、ゆっくりと河を遡るほどに周りの舟は減り、次第に霧が晴れてきた。


 広がった景色はどこかの団地らしい。蝉が大合唱する中、駆け回る小さな影がいくつも見える。

「あっ」

お客様が身を乗り出したのを、店長がゆっくりと押し留めた。

「河に落ちますよ」

「ま、待ってくれ、あれは一体、なんなんです」

「過去ですよ。あなたの記憶、物語」

「私の……物語、ですか」

そう言っている間に、霧がふたたび立ち込めてぐるりと混ざり、再び晴れた時にはまた違う景色が広がっていた。それを眺めて、舟はゆっくりと遡上する。


 絵巻物のような誰かの記憶を辿る時間、僕はこの時間が好きだ。舟に気をつけながら、僕はその光景を追う。

「平凡でしょう」

お客様は目を細めて呟いた。

「ああ、思い出した。そうだ、あれは子供の頃の……彼方は中学生の頃かな。……いや、待ってくれ!」

かと思えば、カッと目を見開いて、手をブンブンと振り回す。

「この後確か私は告白をして振ら……あの、無茶振りですが見ないでくれますか!」

「それでは彼方を向いていることにしましょう。宙も」

「……はい」

僕は少しだけがっかりして、けれどもそういうシーンは胸に秘めたいのもわかる気がして、そっと顔を背けた。対岸は遠く、霧深く、何も見えない。


 暫くは誰も喋らなかった。

 ゆらゆらと、舟は少しだけ揺れながらもスムーズに進んでいる。たまにここで暴れ出すとか、何かに襲われるとか、そういうこともあるにはあるのだが、今回は実に平和だった。

 お客様が「もう大丈夫です」と言って、僕はまた岸に目を向けた。小さな人影が向かい合っているシーンだった。

「宙、近くにつけてくれるかな」

店長の言葉に頷いて、舟を岸に近づけていく。少し進んだところに、おあつらえ向きの桟橋が現れて、僕は静かに舟を止めた。

「えっと……ここが終点ですか。近いんですね」

 お客様はゆっくりと瞬きをして、店長に促されるままに桟橋に上がった。

「いいえ」

店長は振り返りもせずに歩き出す。

「それじゃあ」

「近くに行きましょう。あの日のあなたに会いに」

「……あの日の、私に」

「散歩はもう少しだけ続きますよ」

ふらふらと歩くうちに、柔らかな川縁の土が硬い感触になり、次第に周囲の霧が晴れ、一陣の風が吹き抜けて景色が一気に変わった。


 僕らがいたのはどこかの学校の校庭だった。

 周りには誰もいない。足元に散乱する鞄の中身。翳ってその表情は見えはしないが、肩で息をついているのはよくわかる。二人は耳障りな音で互いを罵っていた。

 弾かれるようにお客様が動き出すのと、片方が叫んだのはほとんど同時だった。

「大っ嫌い! 大っ嫌い! 大っ嫌い! あんたなんか消えちゃえばいいのに! どっかいけ!」

雄叫びを受けるなり、もう片方の影は夕陽に溶けるようにして消えて行った。

「あれが……私です」

「そのようですね」

「はは……恥ずかしいな。ひどいもんでしょう」

「あの手の失敗はしてしまわないことも、してしまったならその後も大切ですから。お互いに、謝りはしたんでしょう」

「それは、まあ……誤りはしましたよ」

自重気味に笑って、

「ねえ、きみ」

お客様が影に声をかけた。影はじっと足元を見つめていた。

「聞こえないか」

やはり答えない。少しして、影は踵を返すと、家とは真逆の方向に駆け出した。


 友人が溶けたあとの水たまりが、ゆらりと揺れて、景色がまた切り替わる。今度はどこかの公園にかわる。あれから季節がいくらか巡ったことは、僕の目でもわかった。

 ブランコに腰掛ける二つの影。菓子パンを齧りながら、どこか遠慮がちに言葉を紡ぐ。授業がどうとか、流行りのあれがどうとか、ウチの母さんがどうとか。

 どちらにも先ほどの苛烈さはなく、ただ、お互いに相手の出方を伺っているようだった。親しげにしようとしつつ、ぎくしゃくと世間話をする二人の距離が遠い。

「本当はすごく仲良しだったんです」

 静かな声が落ちる。

「でも、謝ろう謝ろうとして、時間が経って、どうやって話していたか思い出せなかった。それでもなんとか仲直りはできたんですけどね、元には戻らなかった」

影はほどなくして二手に別れた。どちらも一度も振り返らない。

「喧嘩とか、隔たった時間とか、そういうものが関係ない人たちがいるでしょう。本とかでありません? 喧嘩してたのにケロリと仲良くなったりとか。十年も離れていたのに、昨日のように話が盛り上がるとか。それなりに長い仲だったんで、私たちもそうなるかなと思ったりもしたんですけどね」

無理だったんです、そう笑うお客様はその声色とは裏腹に微笑んでいた。遠い過去を愛しむように、二人が消えた方を見つめている。


 空間がまた揺らぐ。

 駆けて行った影は夕焼けに溶けて、また景色が混ざり合う。ぐるぐると景色が変わる。店長が一人で歩き出して、僕はお客様を後に続くように促した。

「店長さんはどこへ行くんです」

お客様は首を傾げた。

「あのころの私に、短いですが確かに会えましたよ。ありがとう」

「ええ、そうですね」

「その、そうなると終点ですか。あの世、天国、地獄、黄泉の国……なんというのが合ってるかは、知らないけど」

「いいえ、まだ違いますよ」

店長は悠然と首を振る。困ったようにお客様がこちらをみてくるが、僕としても困る。店長は些か言葉が足りない。

 とはいえ、僕も店長のすべてを知っているわけではないから、わかる範囲で補足するしかないのだ。

「もう少しだけ付き合ってくださいますか。店長があなたを連れて行きたいところがあるみたいなんで」

「はあ……それは、どこに」

「きっと、あなたの心残りに」

僕はそれだけ言って、続ける言葉を悩んだ。どこに向かうか僕自身わからないのに、言えるわけがない。お客様も黙りこくって、河の流れる音が遠くに聞こえるばかりになる。


 店長がおもむろに立ち止まる。手に何かを持って、振り下ろすと、空間に裂け目が生まれていた。まるで紙細工であるかのようにそれを押し広げて、店長はようやく振り返った。

「さあ、こちらにどうぞ。無理やり作った入り口ですから、落ちないように……そう、足元にお気をつけて」

踏み込むと、生ぬるい風が吹きつけてきた。

 暗いトンネルになったそこを三人で通り抜ける。

 歩くたびに次第に風に匂いが生まれて、鮮やかにくっきりと景色が浮かび上がってくる。生きた世界。

 外に出ると、カッとふり注ぐ夏の日差しに目が眩んだ。むわっと立ち昇る空気、そこかしこから聞こえる賑やかな音。喧騒が聞こえてくる。

「戻ってきたのか」

お客様が言ったのに、

「ほら、あそこに」

店長はちゃんと返事はせずに、前を見るように促した。


「ばかばかばーか! もう知らない!」

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