三 宙

 楽之稀屋たのまれやが助けを求める誰かに呼ばれるにはいくつもの条件がある。僕自身、多すぎる条件たちは覚えていないのだが、条件が満たされると表にお客様が現れるようになっている。


 今回のお客様はかつての僕に近い存在だった。

 要するに迷子。純粋に道がわからなくなっている者、或いは誰かに迷わされている者等々、迷子の魂は意外と多いものだ。生きていても、死んでいても。僕らは呼ばれた以上、彼らを案内するだけである。

 楽之稀屋のモットーは死者には死者のもてなしを。人には人の、鬼には鬼の、目の前に現れた相手に合わせてもてなして、絡まった糸を解いて、店から送り出すことだ。

 二人で始めて、いつのまにか増えた店員たちも、様々な種類いる。全員が、彼らを送るために奔走している。

 閑話休題、今は目の前のお客様のことを考えよう。



 お客様は不安そうにしていたのも最初だけ、すっかり脱力したようにカウンターに寄りかかっていた。冷めた麦茶に、幽霊の彼の姿は映らない。空っぽの水面を揺らしている。

「君たちは……楽之稀屋さんっていうのは、どんな願いでも叶えるんです? なんでも」

「なんでもできる、というのは言いすぎですね。それでもできうる限りのことはいたします」

「そうですか……」

そう言って息を吐く。考えるようにして、目を閉じたまま天井を仰いだ。続けてこぼれたのは質問、というよりは自問というのに近い。

「過去に戻ることはできるだろうか」

「過去に?」

「過去に。別に宝くじの当選番号を調べて行って金持ちになろうとか、預言者になろうとか、そういうものじゃないですよ。私には身に余る」

別になんにも言ってないのに……とは思ったものの、それを飲み込んで、「そうですか」とだけ返した。

「では、なんのために?」


 お客様はその問いには少しばかり悩んでみせた。答えに、というよりは口に出すのに躊躇いがあるように。長い思考の旅に出てしまったのかもしれない。

 これはもう一皿必要かな、と奥に意識を向けた僕の肩に、そっと店長の手がのせられる。要するに待てステイの指示である。

 暫くして、

「昔、仲の良い人と大喧嘩をしたことがあります。それを思い出して」

お客様はそう呟いた。

「とても些細なことで喧嘩でした。その、なんだ、互いに言いすぎましてね。お前なんか大嫌いだ、とか、なんとか……ね、本当に不思議とその光景だけが記憶の奥底に焼きついてるんですよ」

「お互いにしこりになってるんですね」

「相手はどうかなあ、あいつには忘れていてほしい。私自身、もう相手の顔もわからないくらいだけど、あの空気だけが喉の奥に焼きついてるんです。言い過ぎたとその時も思いました。でも、互いに引けなくなって、言っちゃいけないことを言って、売り言葉に買い言葉、次第に相手を傷つけりゃあ勝った気分になって……いや、衝動的に互いの信頼を壊すには十分でしたね」

自嘲気味に一息に喋ると、ゆっくりと頭を振った。僕は首を傾げた。

「やり直したいんですか?」

「やり直せるのですか?」

「僕らにはできません」

僕は首を振った。無理だ、過去は変えられない。変えられるのは先のことだけだ。お客様も「そうですよね」と苦笑した。

「ああ……やり直せるとは思ってませんよ、さしもの私も。結局、時間が経って仲直りはしたんですよ。ただ、時間が経ちすぎていた。昔の通りにとはいかなかった。なんで相手も悪いのに、そもそも最初にあいつがあんなことを言わなきゃ…………そんなつまらない思いで何も言えなかったんです。多分あいつも同じ気持ちで、それで、段々と疎遠になって」

お客様はさっと顔を覆った。

 言葉を紡ぐたびに、段々と子供の姿になっていく。心に刺さった、小さな棘。

 それは人の世に縛り付けるにはささやかすぎる棘だが、じくじくと痛んで、迷子にさせるには十分だったようだ。それでも、きっと目を背けて歩き続ければいつかは終点を見つけられるのだろうが。

「ずっと心の端にそいつがいる。喧嘩した時の自分もいる……よくある話です」


 たしかによくある話だ。

 幽霊や妖はより頼まれ屋を呼びやすいところにいる。道案内だけなら慣れたものだった。楽之稀屋の“宙”になってからというもの、大体はそういう依頼人と当たってきた。

 吐ききって、長く息を吐いたお客様に、

「それなら、会ってみますか」

と店長は静かに続けた。

「あなたは何も触れられません。話したいといってもその言葉は届かない。過去に起きてしまったことは何も変えられません」

「見るだけですか」

「見るだけです」

「謝ることもできないと」

「できませんよ。それでもよろしければ、少し、記憶を辿る散歩にお連れいたしましょう」

「散歩……ですか。ここにきた時みたいに、また迷わないかなあ」

「大丈夫、私たちがいる限り、あなたが道に迷うことはありませんよ。……ね、宙」

呼ばれて、僕はそっとお客様に手を差し出した。

「舟を出します。裏にどうぞ」

迷った様子ではあったが、すぐに歩き出す。

 僕は先導して居間を抜けて、扉がいくつも並ぶ廊下の奥、いっとう古い扉の錠を外し、力一杯押し開けた。


 扉の向こうには霧がかった景色。目の前に横たわる静かな河と、そこに伸びる桟橋に小舟が一艘括り付けられていた。

「これは一体……町中に? こんな大きな河が」

お客様が振り返るが、霧に覆われて楽之稀屋の建物いがいは見えないはずだ。彼方と此方とでは境界線がハッキリと分かれている。この河に自在に来られるのは僕と店長くらいなものだから、普段は目にすることもない。

 店長が船に乗り、その後にお客様、最後に僕が続いた。留めてある縄を解いて、ゆっくりと漕ぎ出す。流れに沿えば、終点へ。しかし今回は少し遡って辿る旅だ。

 落ち着かない様子のお客様に店長は優しく促した。

「舟からは身を乗り出さないように──さあ、参りましょうか」


 舟が岸から離れて、河を上り始める。

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