二 ???

 しん、と一瞬だけ静寂が落ちる、にこにこと愛想のいい宙少年、いるだけで落ち着きをなくさせる店長、そして迷い込んだ私。最後のひとかけらを飲み込んで、手でばつ印を作った。

「お、おあいそで」

降参だ。こう言う時は逃げるに限る。

「お会計は不要ですよ。お財布、ないでしょう」

しかし店長がにこやかに告げて、ようやく私は鞄を持っていないことに気がついた。鞄どころじゃない、身一つだ。


 慌てて席を立って、ズボンの尻ポケットを探る。ない。そういえばジャケットもない。盗られた云々ではなく、店に入る前から持っていなかったのだ。

 恥ずかしいやら気まずいやらで目を白黒させる。こんなの、無銭飲食じゃないか!

「し、しまった……! すみません、まさか、こんな」

しどろもどろに言い訳をするが、店長は慈しむように目を細めるだけだった。責めるでもなく、じっと目線を合わせてくる。


 負けだ、先に目を逸らした。目の前の湯呑みに熱い麦茶が注がれて、水面が揺れる。揺れる水面に写った景色は、どこか現実離れしていた。天井のランプ、ファン、壁の展示。誰もいない水面を覗き込んで、溜め息を重ねた。

「いや、本当にすみません。財布を忘れるとは情けない話です。ツケにできますかね」

「構いませんよ、お客様。支払いは結構です」

「そうですか、そいつは結構結構、支払いは──なんだって?」

「金は要りません。ご飯の提供は私の趣味の延長ですから……まあ、最近は料理は任せきりですが。本題の方は、話を聞かせていただければ、それでと言うことにしてます」

店長はゆったりと皿を片付けながら、入口の方に視線をやる。自然と、私の視線もそれに倣った。


 駄菓子屋と、居酒屋と。そういえば奥にさらにスペースがあるらしいから、表から察するよりも相当大きな家なのだろう。

「えっと本題とは……居酒屋ではなく?」

「ええ。でもこちらの方が、生きてる方もそうでない方も入りやすいでしょう? 胡散臭い男の営む、よくわからないことを謳う、よくわからない屋号の店に入ろうと思う人はそう多くはありません。そうでしょう」

なんと、この店長は胡乱な店である自覚があるらしい。私は思わず息を吐いた。脱力。


 店長と宙少年の言葉を思い返す。続いて、店先の紙。

「萬頼まれごとをおうけします……たのまれや」

口に出してみれば、意外にもすとんと落ちてくるものがあった。そうか、私はここを探していたのかも知れない──そうとすら思えてきた。湯呑みの中の空っぽの水面をちびちびと飲む。強い空調ですっかり温度はなくなっていた。なくなると、すぐに宙少年が注ぎ足してくる。その度に、何かが満たされていく。

 私は眉を顰めて、湯呑みを掲げた。

「……これはなんなんです?」

「麦茶ですよ。なんの変哲もない」

「ふうん」

「在るべき土地のものを食らうのが一番なんですよ。思い出してもらうには」

「在るべき? 思い出すって、一体何を」

「さあ」

わかるようでわからない。


 こういう謎かけめいた会話は苦手だった。それが店長の悪い癖だと宙少年も思っているらしく、やや強引に割って入ってきた。

「すみません。お客様、あなたのお名前をお聞きしてもいいでしょうか? 偽名でも、あだ名でも」

「ああ、名前くらい良いですよ。私の名前は……」

愛想よく返してから、はたと動きを止めた。何も思いつかない。何故か簡単なことがわからない。眉根を寄せる。

「その、私は……、名前……は、たしか……、えっと」


 強い衝撃のようなものを感じて、思わずよろけた。その身を宙少年が支えてくれる。見た目に反して、力はかなりあるらしい。その細腕で、大人一人軽々と支えてみせた。

 私はぐるぐると回転する思考の渦に目を回す。忘れていること、忘れていたこと、やるべきこと、やりたいこと。目まぐるしく頭の中の景色が巡って、通り過ぎていく。

(ああ──)

肩に触れられて、すっと波が引いていくのを感じた。

 動悸はない。しかし、抜け落ちていた確信がある。

「大丈夫ですか」

「いや、うん」

「……お客様、思い出されましたか」

「ああ。私は──」

言い淀んで、飲み込む。しかしそれで現実は変わらない。何度も唇を湿らせて、呼吸を整えて、呟いた。


「私は、死んでいるんだ。そうなんですね」


 あっさりと少年は頷いた。悲しみの色はそこになく、むしろ嬉しそうにも見える。私が答えに行き着いて、自覚したことを喜んでいるようだった。

「この店は、一体全体なんなんです」

「楽之稀屋ですよ、お客さん」

言葉を引き継いだ店長は、いつのまにかカウンターの向こう側からこちらに来ていた。見るにつけ、やはり役者のような男だった。

「私みたいな死人のための店ですか」

「ええ。私たちは頼まれればなんでもやります」

「なんでも? 例えば誰かを祟ってやりたいとかも?」

「望まれるなら」

店長が目を細めた。鋭い眼光に怯んで、冗談です、と口走る。彼は笑った。

「頼みごとはお聞きしますが、私たちは所詮ちっぽけな存在です。何かを大きく変えることはできません。絡んだ糸を少しほぐすくらいはさせていただきましょう。迷う人を案内することは、必ず」

「迷う……か」


 独りごちて、私は頭を振った。

 私を振り返るとするならば、平々凡々な人生であった。大きな成功はないが、乗り越えられないほどの困難もなくほどほどの──きっと幸せな部類の道だったと思う。晴らせぬ恨み辛みも、死後縋りつきたいほどの執念を持つ何かもない。

「私がこんなところにいる理由がわからないんだ」

息を吐いた。

「確かにあちこちに心残りはあるが……いやいや、店長さん。そんなことを言えばこの世は大渋滞になるでしょう」

「ええ、だから今も昔も迷子が多い。だから私たちのような者がいるんです」

店長は美しく微笑んだ。

「抜けない棘、絡まった糸、あなたの中にもあるでしょう。すっかり忘れていても、それがつかえて動けなくなることは、ままありますから」

 

 記憶の奥底に絡まって丸まった糸を手繰り寄せて、私は溜め息をついた。すまない、と呟く。

「しかし、わからないんです。どの道を歩いてきたのか」

「ならばご一緒しましょう」

「どこへ行けばいいかもわかりません」

「僕たちがわかりますよ」

人懐っこく、宙少年は胸に手を置いて凛々しい表情を作った。それがあまりに芝居じみていて私も吹き出す。

「そうか、それなら安心しましたよ」

思い出した、と私は宙少年と店長を見た。




***








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