さよならゆうれい またいつか

一 ???

「さようなら」


 ハッと意識を覚醒させた。あまりの暑さにぼんやりとしていたらしい。

 気がついたとき、私は知らない道にいた。いつの間に迷い込んだのかすらわからない。


 じりじりと日差しが照りつけて、アスファルトに反射する。手で庇を作って空を見上げた。燻んだ青空に、ソフトクリームの雲がたくさん浮いている。空には電線が這い回り、見覚えのないビラが無数に貼られている。

 携帯電話を開くと、圏外であることが表示されて、ガックリと肩を落とした。しかし、このまま立ち止まっていても夏の太陽に焼かれるだけだ。重たい足をどうにか前へ前へと運び始めた。


 真昼間、なのに辺りに人はいなかった。

 遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえて、影が見え隠れして、それだけだ。通りに面した家の門は硬く閉じられていて、何人たりとも通さないように静かに佇んでいる。いやに生活臭のない町だ。人のいない町だなんて、まるでSFかホラーの舞台のようじゃないか。どうしてこんな町に来たんだろう、早く帰らねば────。

 いくつ角を曲がったか、坂を登って下ってまた登って、古ぼけた橋を渡ったところで、鼻先をくすぐるものがあった。真正面の家に、灯りがついている。暖簾が風に揺れていて、どうやら飲食店であるらしい。ほっと一気に気が緩んだ。


(なんだ、無人の町じゃないのか)


 そういえば、ずっと昔にこういう駄菓子屋が近所にあったような気がする。色褪せた記憶を漁れば、辛うじて誰かに連れられてトボトボと歩いていた景色が蘇る。あれは誰だったか、なぜあんなに肩を落としていたのか。とにかく、その時にこういう場所に寄ったのだ。


 懐かしさに近づくとなんともいい匂いがして、ようやく自分が空腹であることに気がついた。思えば暫く何も口にしていない。盛大に腹の虫が鳴いている。

 門前に紙が貼られている。「萬頼まれごとおうけいたし〼」……いたずらだろうか。看板に書かれた屋号は『楽之稀屋』──読み方は分からない。

 首を伸ばして中を覗いてみると、駄菓子屋のようなスペースの奥に、カウンターテーブルが見えた。駄菓子居酒屋……のようなものを想像した。


 奥に掲げられた黒板の文字を追えば、だし巻き卵、野菜のきんぴら、季節の煮物、冷やし焼き茄子、焼き浸し、鯵南蛮にエトセトラ、エトセトラ。米を炊く香り、出汁の香りも鼻先をくすぐって、もう一度腹が鳴った。


 入ろうかどうか迷っていると、

「こんにちは」

不意に背後から声をかけられた。慌てて振り返る。バツが悪そうに会釈をする少年と目があった。

「ごめんなさい、驚かせるつもりは……」

口に出しては失礼だが、平凡な少年、或いは青年なのだろう。屋号入りの前掛けを身につけて、格好は店員のようだった。

 身長は平均的で、肌は青白いが、真ん中分けの黒髪に、人の良さそうな垂れ目がちな黒目。黒縁メガネも相まって、ひどく真面目そうに見える。眉尻を下げて微笑む彼に、私は咄嗟に頭を振った。

「私こそすみません、ぼんやりしてたんで」

「ああ、暑いですもんね。よかったらウチで涼んで行かれませんか。ここの店なんですけど」

愛想のよい少年に、すっかりと警戒心は解かれてしまった。

「道に迷われたんですか」

「どうしてわかったんですか。いや、ちょうど道に迷って……」

「迷子の方もよくこられるんです。この辺りは入り組んでいますから……。よかったら、中、涼しいですよ」

「ああ、ちょうど一休みしたかったんです。それじゃあお邪魔しようかな」

「どうぞ」

少年はサッと引き戸を引いた。冷えた風が奥から吹き抜ける。促されるまま中へと踏み込めば、空調がよく効いているらしい。背中でカラカラと戸が閉められれば、暑かった世界は何処ぞへかと消えてしまった。


 少年は駄菓子屋を通り過ぎて奥のカウンターテーブルに案内してくれた。熱いおしぼりと麦茶をもらいながら、辺りを見渡す。ほかに人はいないが、小綺麗な店内だった。

「店名はなんと読むんですか」

「たのまれや、です。普通読めませんよね、あれ。僕も店長にそう言ったんですけど。ひらがなにしません? って」

彼は楽しそうに笑う。

「店長に言わせれば、楽しい、珍しい、頼まれごとをなんでもこなす──だから頼まれ屋で、楽之稀屋ですって。あはは……こうやって口だけで言うと段々訳わからなくなってくるんですけどね」

「頼まれごとを……なんでも……」

私の独り言には応えずに、彼は曖昧に微笑んだ。世の中には変な商売があるが、ここもそういう類だろうか。しかし、居酒屋にしか見えないが。


 とにもかくにも、私はこの店に入った目的を思い出して、渡された紙メニューから一二品の冷菜と、冷酒を頼むことにした。一瞬だけ迷ったのだが、この後予定はなかったはずだ。昼間から飲んでも問題あるまい。

 奥で人の動く気配と声がする。この少年以外にもそれなりに店員はいるらしい。表に出てくる気配はまるでないが、活気はあるようだった。

 奥から呼ばれて、少年が受け取りに走って、料理の小皿を前に並べてくれた。私の心が跳ね上がる。

「はあ、こいつは美味しそうだ」

「でしょう。“兄貴”の料理は絶品なんですよ」

真面目そうで大人しそうな彼から出てきた言葉に口元を緩めた。家族でやっているのだろうか。彼はその“兄貴”によく懐いているらしいのが伝わってくる。


 しかし、なるほど。「美味い」とそう言うだけあって、確かに美味い。大根のそぼろ餡掛けはゆずの風味が効いていて、ひんやりと喉の通りがよろしい。冷やしトマトも出汁がよく沁みているのか、添えてある茗荷も良いアクセントで酒が進む。ちびりちびりと呑んでいたつもりが、気がつけば一本空にしていた。

 もう一本頼もうか、しかし何処とも知れない町で……と悩んだところで、人が増えていることに気がついた。少年と、自分と、カウンター越しにもう一人。

「お口に合いましたか」

こちらを見つめる視線に驚いてしまった。いつからそこにいたんだ、この人は!

「は、はあ……」

うまく応えられずにもごもごと口籠った。彼が、少年の“兄貴”? あんまりにも似ていない! それが顔に出ていたのだろう。店長はくすくすと笑うと

「どうも、“店長”です」

胸に手を当てて軽くお辞儀をしてみせた。

 動きに合わせて揺れるゆるく束ねた金髪、青空のような碧眼、のっぽな背丈に変な服装センス、そしてこの仕草──まるで海外の役者だ。或いはクオリティに命を賭けるタイプのコスプレイヤーか。日本語が達者だから、こちらのほうが近いかも知れない。


 どちらにせよ、私とはほど遠い存在だった。

「どうも……」

「そう畏まらないでください。取って食ったりなどしませんから」

「はあ……」

困惑しながらも胸元を見れば、確かに名札らしきものが留められていて、“店長”と書いてある。少年のほうには“宙”の一文字。

 こちらの視線に気がついたらしい少年はよく見えるようにこちらに名札を示した。

「こう書いてちゅうと読むんです」

宙少年は和かに言った。ソラとかヒロではなく、チュウ。変わった名前だ。

「本名ですか?」

失礼かな、とも思ったが聞けば、彼ははにかんだ。

「いいえ。偽名というか、あだ名というか。そういうルールなんです。店長も偽名です」

それはそうだろう、むしろ“店長”が本名の方が驚く。

「えっと……偽名?」

源氏名とかそういうものだろうか。とすると、ここはホストクラブとか、そういう──? ふわりとそんな不安が過ぎる。

「ご心配なく。我々はあくまでも頼まれ屋ですから、我々の名前など不要でしょう? さて」

店長は優雅に微笑んだ。

「お客様の頼みごとはなんでしょうか」

ごくん、と大きな塊でトマトを飲み込む。


 私はどうやら、胡乱な店に迷い込んでしまったらしい。



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