楽之稀屋御伽草子

井田いづ

 りんりん、ころころ、からから、虫が鳴いている。

 実に様々な虫たちが合唱していた。ここに季節などはないから、あれらはすべてまやかしだろう。

 はじまりは、小さな舟の上からだった。

 水面に合わせてゆらゆらと舟が揺れる。酔うことはない。竿を握るのは“店長”で、この頃の“僕”はまだ舟を漕げない頃だったから、ただ座っているだけだった。


 唐突に店長がこちらを見て、のんびりと口を開いた。

「どうせなら一緒に旅をしましょうか」

どうです、と聞く彼に僕はすぐに頷く。

「いいですね」

かなり素敵な提案に思えた。なにしろ、ここの夜は気が遠くなるほどに永い。僕たちが眠るにはまだまだ時間がかかる。

「どんな旅にしますか」

「物語を織るのはどうです」

「物語を……? 織ってどうするんですか」

「どうにもこうにもしませんよ。私たちが道案内する役であることは変わりませんし」

「それはそうですけど」

「楽しみがあった方が張り合いも出るでしょう。色々な人の話を集めて、布みたいに織り集めれば、きっと素敵な色になるんじゃないかな。君も色々と知見を広げられるでしょう」


 店長は悠然と微笑んで、舟を漕ぐのを止めた。岸に伸びた桟橋に舟をつける。ここを三途の川、忘却の河、なんと呼ぶかはわからない。僕らは長いことこの河にいた。

 この河の渡守である店長と、その見習いである僕。

 僕らは小さな家屋を見つけて、そこに店を構えることにした。彼は“店長”を名乗り、僕は“宙”と名乗ることに決めて、頼まれごとをなんでも請け負う珍妙な商いを始めたのである。


 号して『楽之稀屋たのまれや』──人間や幽霊、あるいは妖怪、それが何者であれ、訪れたお客様の物語を糸として、織り上げる為の店。

「それでは、始めましょうか」

店長が言って、僕が暖簾をかける。


 ──楽之稀屋、開店。

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