第3話 まいど!大阪
エアカナダ1951便は、無事に関西国際空港に到着した。
日本の首都は東京ということは僕でも知っている。
大阪は第二都市らしいが、カナダから直行便があることに少し驚いたが、関西空港に向かうエアカナダの直行便は夏期限定なのだと陽子さんが教えてくれた。
バンクーバー国際空港から飛行機で約10時間、陽子さんと楽しいお喋りをしながら、映画を見たりしていたら、寝る暇もなく僕が留学する地、大阪に到着した。
僕はスムーズに入国手続きを終え、パスポートに入国のスタンプを押してもらい、そこで日本での在留カードを取得し、ベルトコンベアーから流れてくるスーツケースをピックアップし、税関を通過し、大きなスーツケース2個を乗せたカートを押しながら、大きなガラスドアの先に進むと、
「ベン!」
と、聞きなれた僕の名前を呼ぶ声が僕の耳に飛び込んできた。
声が聞こえた方向に視線を向けると、懐かしい顔、エリーが大きく手を振っている。
僕はエリーを見つけると、カートを駆け足で押しながらエリーに抱きついた。
「Hello Ellie, How are you? エリー、元気だったかい?」
バンクーバー国際空港で別れを惜しんだ時には、エリーも僕たちのハグに強く返してくれたのに、今日のエリーは嬉しいそうにしているけど、強く僕を抱きしめてはくれなかった。僕はエリーを強く抱擁しながら、エリーの横にいる大人の男性2人の存在に気がついた。
エリーは、僕に抱きしめられたことで少し乱れてしまった髪の毛を整えてから、英語で彼らを僕に紹介してくれた。
「ベン、こちらはこれからベンが入学する大阪朝陽丘学園高校の英語を担当している藤原先生」
「Welcome to Japan Mr. Rozek.」
英語教師だと言う藤原先生の英語の発音はイマイチだった。
「おおきに。僕の名前は勉です。宜しくお願いします。」
機内で習ったばかりの関西弁を使って、僕は挨拶をしたんだ。
エリーも藤原先生も、その横にいる知らないおじさんまでも僕の挨拶の何が面白かったのか、その時の僕には分からなかったが、彼らは大笑いを始めた。
「ベン、いきなり関西弁で挨拶するからびっくりするやんか」
とエリーは笑いを殺しながら、もう一人のおじさんを僕に紹介してくれた。
「こちらは、ベンのホストファーザーなんだって。美月さんと仰るそうよ」
僕は渡航前にホストファミリーのプロフィールを受け取っていたので、その男性の顔をよく見れば、プロフィールに貼られていた家族写真の中に写るパパさんだった。
「みちゅきさん。来てくれておおきに」
と言うと、またもや3人が大きな声を出して笑った。
エリーは
「みちゅきさんじゃなくて、みずきさん」
と何度も僕の日本語の発音をなおしてくれたが、ほんの一ヶ月前までは、僕たちアニメ研究会の4人がエリーの英語の発音を注意してきたのに、どうやら状況は全く逆の立場になってしまったことを到着日早々に僕は思い知らされた。
早々にエリーと藤原先生に別れを告げて、僕はみちゅきさんの車に乗って、みちゅきさんの家に向かうのだと、藤原先生が別れる前に僕に教えてくれた。
みちゅきさんは、簡単な文章なら英語で話してくれたが、その程度の英語力しかない様で、ほぼ日本語で僕に接してきた。
僕は、今までドラゴンボール、ポケンモン、デジモン、遊戯王、ワンピース、ナルト、を師として学んできた日本語のボキャボラリーを駆使し、必死に対話を続け様としたが、ルフィンやナルトの決め台詞は、みちゅきさんには全く通じなかった。
僕は、漫画を教材にして日本語を学んできたことに、ここに来て始めて後悔した。
パパさんの後を付いて、関西国際空港のビルを出たところで、僕は軽いめまいを起こした。そして気持ちが悪くなり、通路の端に行き、僕は少し吐いてしまった。
その理由は、関西国際空港内では冷房が聞いていたのだが、ビルを出た直後にむっとして今まで経験したことがない蒸し暑さが僕を襲ったのだ。
僕の背中をパパさんはさすりながら
「大丈夫かい?」
と何回も聞いてくれるのだが、180センチの身長を持つ見た目は大人の僕ではあったが、幼稚園児に戻ったかの様に、到着したばかりの異国の地で、僕は今にも泣き出しそうだった。
みちゅきさんの家は関西国際空港からとても遠かった。
カルガリーの家を出発してから空港での待ち時間も入れると丸一日経っていたので、くたびれていた僕は不覚にもみちゅきさんの車の中で爆睡してしまい、みちゅきさんの家に到着した僕は、パパさんに
「着いたよ、ベン君起きなさい」
と言われて、目が覚めたんだ。
みちゅきさんの家は一軒家だった。
中に入ると、ママさんと中学生のケイ君が僕を迎え入れてくれた。
僕には僕専用の部屋が与えられたが、僕のカナダの家は1エーカー(約1224坪)あり、家のサイズは5000スクエアフィート(約460平方メートル)ある家だったので、日本の一軒家はまるでドールハウス(人形の家)の様だった。
ママさんが、僕を歓迎してくれている様子はとても伝わるのだけれど、彼女の日本語は早口すぎて何を言っているか全く分からなかった。
僕はキッチンテーブルに座らされて、時計を見たら夜の8時になっていた。
どうやら到着早々に夕食らしい。
ママさんは、揚げたての盛り沢山の天ぷらに、サラダ、ミソスープ、白米、小さな小皿に入った、僕が見たこともない料理(おそらく日本食)が所狭しと、テーブルに並べられていた。
僕は疲れていたので、空腹感はなかったけれど、ママさんに申し訳なく思い、天ぷらを一口かじってみたら、今までカナダの日本食レストランで食べたことのある天ぷらと比較すると10倍美味しくて、僕は家族の誰よりも多くの量の天ぷらを食べたと思う。
カナダで白米を食べる機会は、寿司のシャリとして食べることぐらいだったので(僕の実家では、白米が食卓に並ぶことは滅多になかった。もちろん家に炊飯器はなかった)、茶椀一杯に盛られた白米をどうやって食べきったら良いのかと思いながら、必死に口に押し込んだ。
するとママさんは、何を勘違いしたのか、僕のボール(茶碗)を持って、また新しい白米を山盛り入れて持ってきたので愕然とした。
「もうお腹いっぱい。食べられません」
と、僕は涙目でママさんに訴えたら、やっと本意に気づいてもらえた様で、お皿をさげてくれたので助かった。
ぼくはホストファミリーたちがみせてくれる全ての親切に対して「おおきに」と答え続けていたら、中学生のケイも何かにつけて「おおきに」とリピートし、彼は普段からもそうしているのか、もしかしたら僕のマネをしているのかさえ、僕には分からなかった。
はたして陽子さんから教わった、このサンキューの日本語の使い方は正しいのだろうかと急に不安を感じ始めた。
食事を終えると、パパさんが、僕をバスルーム(お風呂)に連れてきた。
「疲れているだろうから、ゆっくりとお風呂に入りなさい」
と言われ、僕は既に違和感を覚え始めていたので、「おおきに」の言葉は口から出さない様に封印した。
僕は服を脱いで、パパさんの説明通りに、体を先に洗い、勧められるがまま湯船に体を浸からせてみた。僕はお風呂のお湯の熱さに飛び上がった。
僕の国カナダでは、家族の数だけお風呂が家に備わっている。家族の誰かとお風呂を共有することなどない。
そして、湯船に浸かることも滅多にない。僕の場合は、朝と夜にシャワーを浴びる。
僕はバスタブ(湯船)に水を足し、ちょうど良い温度に調整し、湯船に浸かりながら、長旅の疲れをとることにした。
漫画で見たことがある。
これが日本の温泉というものか(これが温泉でないことは後になって学ぶことになる)と思うと、この小さな温泉も感慨深いものを感じた。
さっぱりとした僕は、お風呂を出て、持ってきていた新しいTシャツに着替えて、キッチンに戻った。
僕は、麦茶という名の得体の知れない茶色い飲み物をママさんから渡され、色的に見て絶対美味しくないぞと疑りながら、ほんの少し啜ってみたら、甘くもなく炭酸の様にシュワシュワもしない飲み物を頑張って目を閉じて飲みきった。味のしない麦茶は不味くはないが決して美味しい飲み物でもなかった。
みちゅきさんの家で、僕はこの麦茶を毎日飲まされたのだが、帰国する頃には気づけば麦茶が大好きになっていた。
ママさんが、綺麗に三日月形に切ったウォーターメロンを「めしあがれ」と言って渡してくれた。
一口食べて、驚いた。
こんなに甘いウォーターメロンを食べたことがないので、思わず
「このフルーツの名前は何ですか?」
と尋ねると
「すいか」
と教えてくれた。
今回の留学のためにと両親が買ってくれたアイフォン(北米ではアイフォンは大人が使用する高級品で、高校生の多くが今でもガラケーを使用している)で、スイカと検索すると、英語でwatermelonと表示された。
やっぱり間違いなくウォーターメロンだった。見た目は僕が知っているウォーターメロンと同じだが、味は全く別物だった。
日本のスイカの美味しさに感動していると、
ケイが腰にタオルを巻きつけ「ギャーー」と叫びながら、キッチンに飛び込んできた。
「お風呂に入ろうと思ったら、お湯が入っていないよ、お父さん」
と叫んでいる。
無論、僕が聞き取れたのは3割程度だ。
ケイの後を付いて、パパさんがお風呂場に向かった。
僕は何かヘマでもしでかしたのだろうか、不安だった。
暫くして、パパさんが僕を呼び(どうやら僕は何かをしでかした様だった)、お風呂場に僕を連れて行き、僕に理解が出来る様にゆっくりと話し、日本語で僕にこう言ったんだ。
「ベン君、日本ではお風呂のお湯は家族全員が浸かるから、明日からはお風呂のお湯を流したらだめだよ」
と教えてくれた。
僕はやはり3割くらいしか意味が理解できず、ノートに全文字ひらがなで書いてもらった。
寝る前に自室に戻った僕は、パパさんに書いてもらったひらがなの文章をカナダから持ってきたマックのノートパソコンに打ち込み、翻訳検索にかけてみた。
まさに、たまげたとはこのことを言うのだ。
日本人は、溜めた一つの湯船に家族全員が浸かると翻訳されている。
この翻訳機は間違った英訳を表示したのではないかと疑ったが、エリーにフェイスタイム(フェイルスタイムとは、北米で利用されているLINEの様なもの)で連絡を取り、そして尋ねたら、日本人はバスタブのお湯を共有すると返事が来た。
「Oh No !」
僕はやっぱり、しでかしてしまったのだ。
しかし、大好きだった日本人の印象がほんの少しだが悪くなった。
北米の人間は、誰かが浸かった湯船(あんなに小さな湯船)に、その後同じ湯船に誰かが入ることなど決してしない。
簡単に言うと、「気持ち悪い」の一言だった。
僕のカナダの家には家族の数だけお風呂があると先述したが、僕の両親のマスターベッドルーム(主寝室)に完備されたお風呂はジェットバスだが、溜めた湯船にバブルソープを少量入れて、ジェットのボタンを押すと、湯船はたちまち泡だらけになり、泡風呂を楽しむことが出来る。
僕はカルガリー出身だ。
冬になると気温はマイナス20~30度になるので、時折ジェットバスで体の芯から温まることがあるが、家族5人(両親と、姉と僕と弟)が全員ジェットバスを使用する時でも必ず1回ずつ湯を新しく交換してから使用する。
最後にジェットバスを使用した人は、お湯を流した後に、お風呂にもう一度水を張ってジェット機を動かし、機械の中に残った泡を綺麗に洗い流す作業まで行う。
それがエチケットだと今日の今日まで信じて生きてきた。
僕は、明日からは、日本ではシャワーしか決して使わないことを心に誓ったんだ。
翌日は土曜日でパパさんはお仕事がお休みだった。
そして、パパさんは僕に
「僕が入学する大阪朝陽丘学園高校に行こう」
と誘ってくれた。
僕が入学する前に、幾つかの事務手続きが必要なのだとパパさんから説明を受けた。
僕が日本で住む街は、宝塚市と言う。
高校まで30分ほどと考えていたのは確かに僕の勝手な想像ではあったが、僕のカナダの高校では生徒全員が徒歩30分圏内に住んでいた。
教育委員会が手配する留学生のためのホームスティ先も徒歩30分圏内だった。
パパさんの後を着いていくだけの僕だったが、パパさんがメモを取る様にと言うので、鞄から取り出したメモには僕の汚い字で(もちろん英語で)、
阪急今津線の宝塚駅で乗車→
阪急西宮北口駅で下車→
阪急西宮駅から特急に乗換え梅田駅で下車→
徒歩10分で地下鉄谷町線の東梅田駅で乗車→
朝陽丘駅で下車→
学校までは駅から徒歩5分。
メモに目を通すだけで、一目瞭然これは遠いぞと思っていただけると思うが、僕がホームスティ先を出た時間から計算すると、登校するのに片道1時間30分を要した。
僕は、日本の高校に留学している期間、毎朝家を6時半に出なければいけなかった。
授業が8時30分から始まるので、クラスメートが登校してくる時間が8時だったからだ。この事をカナダの家族に話すと、両親は激怒した。
カナダ人の感覚では、大人の数だけ車を所持している家庭が多いから、通勤ならば片道1時間30分運転する人はいるかもしれないが、通学に片道1時間30分かかる(これに当てはまるのは大学くらいだ)場合は、考える余地などなくカナダ人なら大学寮に入寮するだろう。
僕は毎日往復3時間を電車の中で過ごす(宝塚駅が始発なので、毎朝電車の中では寝ていたが)日々が始まった。
ある日のことだ。
阪急沿線の梅田駅で神戸線に乗車し、運よく座れた僕は、早々に眠りに入ろうと準備を始めていると、
「あんた高校生やろ。若いねんから立ってなさい」
と知らないおばさんに起こされ、無理やり僕は席を譲らされた。
白人の僕に動じず大阪弁で席を譲れと言う、ヒョウ柄のド派手なシャツを着たそのおばさんの勇気に免じて、僕は素直に「すみません」と謝って席を譲った。
こんなにインパクトの強いおばさんをカナダでは見たことがない。
この話にはまだ続きがある。
それは、また別の日の出来事だった。
僕はその日、地下鉄の谷町線に乗車していた。
座っていた僕は足を組んでいたんだけれど、
目の前に立ったおばさんが、いきなり僕が組んでいた足を手で叩いてきた。
僕は
「え、何をするんですか?」
恐怖すら感じながら、そう言うと
「兄ちゃん、電車の中で足なんか組んだら迷惑やろ」
「すみません。でも叩かなくても良いじゃないですか」
「にいちゃん、どこの国から来たん? 大阪に来て良かったな。こんなこと東京やったら誰も教えてくれへんで」
と、見ず知らずの人の足を叩いた彼女の行為を正当化してきた。
そのおばさんを見上げると、やっぱりヒョウ柄のTシャツを着ていた。
大阪のヒョウ柄のシャツを着たおばさんは、相手が外国人であろうが、動じることなど決してないのだ。
この話をママさんに話すと
「谷町線は分かるけれど、阪急沿線にそんな下品なおばさんがいるわけがない」
と豪語するのだけれど、実話なのだから仕方がない。
僕は、大阪の街でヒョウ柄のシャツを着ているおばさんが視界に入ると、背筋がピンと伸び、いちゃもんを付けられない様にと緊張してしまう。
エリーも大阪に住み続けたら、いつかヒョウ柄のシャツを着る様になるのだろうか。
とても想像が出来なかった。
それでも後ろ向きになってなどいられない。僕が望んで僕が決めた日本留学なのだ。
通学時間を知った僕は多少の打撃を受けてはいたが、パパさんに連れられて学校に始めて行くことにワクワクしていた。
学校に到着し早々に次なる衝撃が僕を襲った。今日は土曜日なのに、生徒たちが沢山学校にいるではないか。
パパさんに理由を聞くと、
「今日はまだ夏休みだから、彼らはクラブ活動で来ているんだろうけど、ここは私立高校だから、土曜日でも午前中だけ授業があるんだよ」
と教えてくれた。
「エ-----」
僕はこれから週6日登校することになるらしい。
カナダでは公立も私立も小学校から当然週休2日制だ。
頭がクラクラしたが、なんとか冷静を保ち、学校の職員が案内してくれた応接室で、パパさんと一緒にソファーに座り待っていると、英語の藤原先生と校長先生と呼ばれる田中先生が応接室に入ってきた。
「ロゼック君、昨日はゆっくりと眠れたかい?」
昨日、空港に迎えに来てくれた英語の下手な英語教員の藤原先生が、話かけてくれた。
決して上手な英語ではなかったけれど、藤原先生がいなければ、その場にいた4人の会話が成り立たなかったことは事実だった。
田中校長先生は、
「あとは藤原先生の指導をしっかり聞いて、楽しい留学生活を送って下さい」
と言って応接室から出ていった。
僕は夏休み明けから、この高校に来年の7月末まで通うことになる。
藤原先生は、大きなダンボール箱を応接室に持ってきた。
ダンボール箱を開けると、中には男子生徒の制服が数枚入っていた。
「これらの制服は卒業生たちからの寄付なので新品ではないですが、留学生に使ってもらっているので、サイズが合いそうな物を2セット選んで下さい」
と言われた。
僕はダンボール箱の中身をあさって、上着を羽織って、ズボンは股下の長さを確認して、僕のサイズに合いそうな上下の制服を2枚選んだ。
藤原先生は話を続けた。
「制服のブレザーの下には当校のロゴが刺繍された白いシャツとブルーのストライプのネクタイを着用し、当校の刺繍入り靴下と黒の革靴を履いてもらう必要があるので、夏用と冬用のシャツをそれぞれ2枚と靴下2セット、黒靴と体操着は購入してもらう必要があるので、登校初日までに準備をしておくから、お金(現金)を登校初日に持ってきて下さい」
と言われ、請求書を受け取った。
「現金払いって!」
と僕は少し驚いた。
北米では、現金をあまり持ち歩かない。
学校に支払う遠足代や教材費など、現金を子供に持たせる保護者はあまりいないだろう。
請求額が例え数百円であっても、小切手を作成し子供に持たせるのが普通だ。
スーパーでの食材の支払いにも小切手を使用する主婦は多いし、小切手を使用しない主婦はデビットカードを使用し支払いをするのが普通のことだ。
僕の父親は40代だが、財布に現金は常に20ドル(約2000円)くらいしか入っていない。
父は
「現金はチップの支払い以外にいつ必要だと言うんだ。チップ代なら20ドルあれば十分だ」
と言っているくらいだ。
日本ではチップを払う習慣がないので、日本に僕の父親が住んでいたら、現金は全く持たずに暮らしていることだろう。
北米人の大人の財布には、小切手、クレジットカード、デビットカード、0現金が普通のことなのだ。
僕は渡されたユーズド(お下がり)の制服が入った紙袋を片手に、藤原先生の後を付いて校内を見学した。
僕はここでも大きなショックを受けた。
大阪朝陽丘学園高校は、僕が通っていた高校の1/5ほどのサイズの高校だった。
僕が通っていた小学校よりも小さいかもしれない。
それでも色々な所から賑やかな若い声が聞こえ、ここは高校なのだと認識することが出来た。
その日は生徒手帳と学割証の発行などを受け、そろそろ学校を出ようとした時に、藤原先生から
「そうだ、まだロゼック君に話していなかったね。新学期の始まりの日には、全校生徒が集まる朝礼があるから、そこで新入生の紹介があります。ロゼック君には英語でスピーチをしてもらうので、準備をしておいて下さい」
と言われた。
「えっ? 僕がスピーチをするんですか? 何分のスピーチを考えればいいのですか?」
「そんなに難しく考えなくてもいいよ。自己紹介程度でいいから、みんな留学生が転校してくることを楽しみにしているからね」
と藤原先生は、初めて僕に笑顔を見せてくれた。
僕とパパさんは、大阪朝陽丘学園高校から一時間半かけて帰宅するのだが、梅田で定期を購入し、定期は学割料金でも阪急線と地下鉄の両方を合わせると8,000円近くしたので、カナダ人の僕にとって定期代金の80ドルは高額だった。
パパさんが「お昼を食べて帰ろう」と言って、パパさんに連れられて来たのはマルビルという円形型のビルだった。その名の通り丸いビルを見て僕は驚き、僕はその場に立ち止まり、写真を沢山撮影した。
今日のSNSの写真はこれで決まりだ!
マルビルに到着すると、7Fのリオという鉄板焼レストランに入り、
「神戸ビーフをご馳走するよ」
とパパさんが言うので、カナダ人の僕でも聞いたことがある神戸ビーフは、一度食してみたい食材ではあった。
僕の目の前で、シェフが鉄板でお肉を焼き、僕の前には神戸ビーフが盛り付けられたお皿と白米、味噌汁が並べられた。
始めて食べる神戸ビーフはとろける様に美味かった。
きっと高額に違いないと思い、パパさんに「自分の分は払います」
と言うと、
「高くないんだよ、一人1000円だから気にしなくて良い」
と言われた。
神戸ビーフのランチがたったの10ドルとは、どういうことなのか?
その後僕は知ることになる。僕が留学したここ大阪は、くいだおれの街と呼ばれ、1000円もあれば美味しいランチが食べられる店が山程にあった。
僕は翌日の日曜日を使って、登校日にスピーチする原稿を考えた。
英語でのスピーチだから僕にとっては簡単なことだけど、それでは面白くない。
僕は頑張って英語の後に日本語でもスピーチしようと考えたんだ。
その日の夕食の後に、パパさんとママさんとケイの前で僕はスピーチを披露してみせた。
「大阪朝陽丘学園高校の皆さん、はじめまして。僕の名前は、ロゼック・ベンジャミンと言います。僕はカナダのカルガリーという街から来ました。僕はカナダの高校で日本の漫画クラブに入っています。そして大阪朝陽丘学園高校から僕の高校に留学にきた学生さんと仲良くなり、今度は僕がこの高校に留学することになりました。僕はカナダの友達からはベンと呼ばれています。漢字もあります。勉強の勉と書いてベンと言います。僕は皆さんと早く友達になりたいです。どうぞ宜しくお願いします」
パパさんもママさんも、ケイも拍手をしてくれた。
「ベン、すごいじゃないか。とても上手に日本語を話せていると思うよ。これでばっちりだね」
と言ってくれたので、僕は安心してベッドに入ることが出来た。
本当のことを打ち明けると、この挨拶文は先に僕が英語で作成し、ネットで日本語訳し、日本語訳をエリーにメール送信し、正しい日本語になおしてもらったわけだ。
日本に来てわずか2日目で、僕の体は全く時差など感じていない。
ベッドに入った途端に、僕は深い眠りに落ちた。
さあ、いよいよ大阪での高校生活が始まる。
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