大好きな先生

 夕立ゆうだちのふる外。そのいきおいは、部屋の中まで届いていた。しかし、楚愛そあは、夕立の音でさえ気にならなかった。それよりも、彼女の胸の中に広がる、わずらわしい黒いもやが気になってしかたがなかった。透明とうめいの水の球体をじっとみつめていた。そこには彼がいる。それまで意中いちゅうの相手だった義洋ぎよう。でも、あの出来事のおかげで、一気にそれがなくなった。それまでずっと、彼に対してこいほのおがメラメラとさかっていたのが、うそのようだった。その炎は、マジックにかけられたかのように、パッと消滅しょうめつした。そして、むしろ、彼のことがきらいになった気がする。私にこんな思いをさせた彼がにくい。憎くて憎くてしかたがない。

 映画や小説などの物語では、恋愛関係の二人の間に、なにか問題がおこっても、それでも、相手のことが好きだという気持ちは完全に消えせることはない。

 それなのに、私はそれらとはちがった。完全に消え失せてしまった。もう、彼のことが嫌いで、憎い。

 なぜなら彼は、私の大好きな先生を侮辱ぶじょくした。楽しそうな笑顔で、悪口を言っていた。それが本心ではなくとも、いや、本心でなくて言ったことが、より一層いっそうはらたしかった。

 楚愛と義洋の担任たんにん棚橋たなはし先生は、嫌な人ではない。正義せいぎ感があって、すじがとおっていて、優しい人だ。

 それは、昔からそうだ。棚橋先生。下の名前は、みどりという。楚愛たちの家族からは“みどちゃん”とばれていた。彼女は、楚愛の母親のみっつ下の妹で、楚愛の叔母おばにあたる。今でこそ、結婚けっこんをして苗字みょうじも変わっているが、彼女が結婚する前は、よく家をたずねてきて、楚愛の相手をしてくれた。宿題のわからないところを教えてくれた。とても優しく、楚愛は彼女が大好きだ。

 そして、楚愛は高校生になり、初めての担任の先生が、同じく新しくはいった棚橋先生となった。それを知ったとき、楚愛は大きな衝撃しょうげきをうけた。まさか、みどちゃんが、私の担任の先生になるなんて。教師きょうしとしては、長い方だから、彼女が教師の仕事をしていることは、楚愛も、もちろん知っている。しかし、自分の担任になるとは全く思っていなかった。どんな風にせっすればよいのだろうか。家にいるときのようにしたしく接してもよいか、それとも先生として、しっかりとわきまえ、あらたまる必要があるか。

 楚愛の気持ちとしては、前者ぜんしゃがよかった。親しい間柄あいだがらである自分と叔母のあいだに、巨大きょだいあつかべができてしまうような気がして、いやだった。

 先生が、教室をあとにしたとき、楚愛はそれをった。

 彼女を呼び止めようとするも、ためらった。どう呼べばいい? いつもどおりのみどちゃんか、それとも棚橋先生か。

「……みどちゃん」

 まよったすえ、みどちゃんと呼んでみた。り向いた先生は、困って苦々しく笑った。

「……淡辺さん、ここは学校ですよ。私は教師の立場であり、あなたは生徒の立場だから、そこはちゃんとわきまえてね」

 先生は、楚愛をたしなめた。予想づいていたことだが、やっぱり悲しかった。彼女は、公私こうしをしっかりと区別くべつし、わきまえるところは徹底てってい的にわきまえる人だ。それだけ教師きょうし仕事しごと責任せきにん感を持っているのだ。そこも、楚愛にとって彼女へ尊敬そんけいする要素ようそのひとつでもある。

 しかし、これで完全に楚愛と先生との間に巨大な厚い壁が誕生した。みどちゃんは、棚橋先生になってしまった。楚愛は悲しかった。

「楚愛さん」

 うつむく楚愛に、先生は優しく声をかけた。

「一年間よろしく。がんばりましょうね」

 先生と生徒という、距離きょりはなれた間柄の関係においても、彼女が優しいのは変わりない。楚愛の悲しみが、ほんのりとやわらいだ。


 そうだ。先生は、優しい人だ。どうして悪口なんて、言うすじいがあるのだろうか。でも、彼女は優しい反面はんめん、自分を強く持っている。大半は他の人のことを尊重そんちょうするが、たまに自分の意思いし価値観かちかんなどをしつけてしまうこともあった。それは、彼女のしんの強さからのもので、楚愛はあまり悪くは思わない。むしろ、ちょっとカッコよく思った。少なくとも他人によって、態度たいどや意思などをころころと変える人よりも、ずっといい。

 楚愛は、そう思うとハッとした。

 それって、私では。

 楚愛が最低さいていだと思う、他人によって、態度や意思などをころころと変える人というのは、楚愛自身がてはまるのではないか。

 彼を好きだと思うのならば、それをころっと変えてしまうのは、芯が強いとは言えない。彼は素敵な人だ。カッコいい人だ。優れた人だ。楚愛はそこにかれ、世界の中心になったんだ。彼を中心に世界は回っている。とまで思うくらい、楚愛は彼に夢中むちゅうになった。

 それが、些細ささいなきっかけでくずれ落ちたのか。あれは、大したことのない、些細なことである。楚愛は、義洋のことを過剰かじょうに信じすぎたのだ。だれにだって、良いところがあれば、悪いところもある。それが人間。あれは、彼の悪いところである。それもふくめて彼という人間である。そこだけをみて、幻滅げんめつしていては、人と長い時をともにすごすなど、できるはずもない。そんなことで、こんなにもくよくよすることはない。

 球体の中をのぞきながら、楚愛は頭がぐるぐるした。

 

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