裏切り

辰己たつみ義洋ぎよう。彼は尊敬そんけいする人だ。まさにどころがないような、完璧かんぺきな人間。顔立かおだちが美しいだけでなく、人間面でも、スポーツ面でも、学業面でも、彼にまさる者は見当みあたらない。楚愛そあの世界では、彼が一番すぐれた人。世界の中心のじくであり、彼をまんなかにしてこの世界はまわっているのだ。と、四六しろく時中じちゅうずっと頭の中にその思いは染みこんでいた。そして、熱い。彼を想うとき、彼との思い出を読みかえしていると、楚愛の心のおくえるほのおは、凛々りりしきとらけるように、強くはげしくさかる。

 駆ける虎は、けっして足をとめないと思っていた。燃え盛る炎の虎は、決して消えうせることなどないと思っていた。

 そう、この時までは。


 それは、全ての授業が終わり、それぞれの活動へと移っていくときだ。楚愛が便所から出るとき、外から何人かの男子の声が聞こえてきた。その大半たいはんが彼のものだ。ひょっこりと楚愛は顔を出した。そこには、義洋を中心とした男子たちの集団があった。彼らと楚愛の他にはだれもいない。からっぽのこの空間を彼らが占領せんりょうしていた。

 義洋の口から出てきたのは、学級の担任たんにん棚橋たなはし先生の名前だ。楚愛は、ハッとした。義洋の担任であり、楚愛の担任でもある棚橋先生は、楚愛の叔母おばであり、おさないころなんかはとく面倒めんどうをみてもらった。先生と生徒の関係となった今でも、楚愛は叔母が大好きだ。

 ところが、義洋の口から出てくるものは、耳をふさぎたくなる内容ないようだった。しかし、ふさいだところで意味はなく、ふさいだうえからつきさる。グサッ。義洋が放った冷酷れいこくのナイフは、楚愛の心臓しんぞう串刺くしざしにした。ジンジンと痛みが走る。その痛みとショックで、頭がくらっとした。そして、楚愛は義洋をにらんだ。大ケガをおった心臓の奥で燃えていた炎は、ぐつぐつとえたぎるいかり──それをこえて憎悪ぞうおになりかける。ゆるさない! よくも悪く言ったな!!! 私の大好きな叔母を!!!

 感情にまかせて、便所からとびだし、水の球体をうみだし、彼に向かってげつける。投げられた球体は、豪速球となり義洋にぶつかる。義洋は、バケツに入った水をかぶったかのようにびちょびちょになった。他の仲間たちも状況じょうきょう判断はんだんすることができず、あわてふためく。楚愛は、そんな彼らのさまを見届けることもなく、すきをついてこの場から立ち去った。

 

 さっさと校舎から出た楚愛は、いつものコンクリートの海岸にこしをおろし、球体にうつる、前までのやさしい義洋をみつめていた。

 むなしかった。かなしかった。憎悪ぞうおあらしがすぎ去ると、のこるのは虚しさと悲しみだけだった。原因げんいんは、大好きな叔母を悪く言われただけではなかった。大好きな彼が、心の底から尊敬した彼が、この世界の中心だった彼が、人の悪口を言った。そんなことを言う人だなんて、みじんもうたがわなかった。信じていたのだ。なのに、裏切うらぎられたような気分だった。実際じっさいに彼には言っていないけれど、約束やくそくだって結んでいないけれど、勝手かってに自分の中で、自分でも知らないうちに信じていて、裏切られた。

 変だなぁ、勝手に信じて、勝手に裏切られて、それでにくんでにらんで。変なの。さっき、彼は笑顔だった。楽しそうだった。笑顔で楽しそうに、勝手に私をころすんだね。そんな人だったんだ。気づかなかった。世界一優しい人だと思っていた。そんな私がバカだった。

 ……

「楚愛ちゃん」

 背後はいごから声がした。それは、凛瀬りんせだった。しかし、楚愛には振り向く余裕よゆうはなかった。

 凛瀬は、楚愛のとなりにすわった。

「楚愛ちゃん、どうしたの?」

 凛瀬は、優しく楚愛にたずねた。うつむく楚愛はいていた。

 もう一つあらたに球体をうみだし、凛瀬にわたした。そこには、笑いながら何かを言っている義洋の姿があった。

「先生の……私の担任の先生の……悪口いっててさ。先生は、私の叔母で」

「ほぉ、……なるほどね。あの先生、ボクは好きだよ」

「……ちょっと、気が強くて、ハキハキとした感じだけど、優しくて、いい人だから、大好きなんだけど……」

 彼は気にいらなかった? だとしてもだ。

「そーねー、アイツは軽率けいそつだからな。たぶん、その場をりあげとして言ってるんだと思うよ。それは、昔からそう。集団を盛りあげるためには、本心でなくとも、なんでも平気で人の悪口を率先そっせんして言う」

「……そうなんだ」

「そこだけだな。アイツの唯一ゆいいつの問題点。それ以外はいいんだよ。普段ふだんは、ボクにもめっちゃ親切だし、スポーツもできるし、頭もいいしえてる。ただ唯一だな」

 ただ、唯一。その唯一が目覚めただけで、一回見ただけで、こんなにも私のほのおが打ちくだかれるとは。


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