第33話 その心に

 しん、と静寂が戻ってくる。

 時間さえ止まったかのように思える中、それを破ったのはフォウだった。


「うっ」


 限界を迎えたように、フォウが倒れ込む。

 ハゼルが慌てて駆けつけてキャッチした。頭から岩礁に倒れたらケガでは済まされない。

 なんとか支えられて、ハゼルはほっと一息つく。


「おししょうさま!」

「ああ、悪いね。ちょっと眩暈がしたんだ」

「おししょう、さま?」


 返ってきた弱弱しい声に、ハゼルは目を泳がせた。

 背中から頭の芯まで、イヤな何かが貫通した。フォウから、どんどんと生気が消えていく。


「限界が来たようだね、どうやら」


 フォウは困ったように笑いながらハゼルを見た。

 そっと、細くなった気がする手で頬に触れてくる。冷たい。

 思わず手を取ると、フォウはまた微笑んだ。


「悪いね、ハゼル」

「おししょうさま?」

神具女かごめとしての全部を教えるつもりだったんだけどね。どうも叶わないみたいなんだ、ごめんね」


 その笑顔は、とても申し訳なさそうだった。


「なにを、おししょうさま?」

「ごめんね。わっちは、残っていた寿命の全部を使い果たして、ここにきたんだ。そうじゃないと、倒せなかったから」

「おし、しょう、さま……?」

「まぁ実際は将来崩神ハーメルンは倒してもらったんだけどね。いやー、調子乗るんじゃなかったよ。思ったよりも手強くてねぇ。そんなダメな師匠の尻拭いをキッチリする出来の良い弟子がいて本当に良かった」


 フォウはもったいぶるように、大事に大事にハゼルの頭を撫でる。

 ぼろぼろと、ハゼルの目から涙がこぼれた。


「いやだ、おししょうさま!」

「泣かないでおくれ。わっちだって寂しいよ。ハゼルの成長を見届けたかったからさ。ああ、わっちの可愛い弟子なのにね」

「ぼく、ぼくは、ぼくはまだ、おししょうさま!」

「別れはいずれ誰にでもやってくる。それが少し早くなっただけさ。大丈夫。神具女かごめとしての心得は教えた。技術はまだまだ未熟だけど、イリスがいるから問題ないね。彼女に教えてもらいな」

「おししょうさま!」

「問題ないよ。あの子は強い。十分にね。だから――」


 フォウの手から、力が抜けていく。

 ハゼルはたまらなくなった。涙が止まらない。何か言いたいのに、いっぱい言いたいことがありすぎて言葉にならない。


「後は、任せたよ」

「おししょうさまっ!」


 フォウがゆっくりと目を閉じていく。

 ハゼルはなんども首を振って、ぼろぼろと涙を落とす。何粒も、何粒もフォウの頬に落ちた。


「おししょう、さまぁ……っ! いやだよ、いやだよ、もどってきてよ……!」


 まだ半年と少しだ。

 フォウと出会って、心の傷を癒して、まだ半年だ。

 まだまだ足りない。まだまだ、一緒にいたい。


「おししょうさまっ!」


 その思いが、叫びになる。


『――ならばその願い、叶えてしんぜよう』


 どこからともなく声がやってくる。

 はっとなって見上げると、そこには光があった。


 太陽のように眩しいのに、目をあけていられる。


 不思議で、温かい。

 どこか魂が洗われるような感覚だった。


「あなた、は……」

『我が名はテュール。先ほど、その娘によって解放され、浄化された神だ』

「……!」

『さぁ、願いを叶えてしんぜよう。悪いが我もそこまで長い時間、維持できるわけではないのでな』



 ◇ ◇ ◇



 気が付くと、そこは草原だった。

 どこか墨汁の匂いがして、セピアな草原だ。風もないし、気温も感じない。見上げると、グレースケールの空が広がっていて、雲は少しも動く様子がない。


 (なるほど、ここは黄泉の世界か)


 ぼやけた感覚で見当を付けつつ、フォウは歩いていく。

 しゃなりしゃなりとした、色気のある歩き方ではなかった。微妙に違う、それでもどこか懐かしい感覚にフォウは首を傾げ、近くの池に顔を伸ばす。

 一切揺れることのない水面は、キレイにフォウの姿を映し出した。


「あら……」


 そこに移っていたのは、素朴な少女だった。

 山の里の民らしく、ベージュ色の強い生地で出来た衣服に身を纏い、黒髪は後ろでしばってある。派手なところはどこにもない、本当に普通の少女だった。


「わっち……か」


 もうすっかり記憶の奥にしかなかったものだ。

 思わず笑みがこぼれる。

 久々な自分の本当の身体を楽しんだ後、道なりに進む。草原を抜けた先には、大きい河があった。向こう岸は霧がかっていて見えない。


「俗にいう三途の川ってやつ?」

「その通りだよ」


 声は後ろからした。

 振り替えると、そこにはフォウがいた。否。


「お師さま」


 フォウの師だった。

 かつて将来崩神ハーメルンによって命だけを奪われ、肉体をフォウに授けた人物だ。化粧も髪の色も違うが、やはりフォウからすれば、今の彼女のほうがしっくりとくる。


「久しぶりだね。フォウ」

「お久しぶりです」

「その恰好、似合ってるよ」


 近寄ってきた師は、とても良い香りがした。

 そして、頭をゆっくりと撫でられる。


「ずいぶんと頑張ったみたいだね」

「はい。ちょっと早いけど、こっちに来ちゃいました」


 フォウは相好を崩しつつ、口調も本来の自分に戻っていた。

 気取らないことが、なんと楽なのだろう。

 にかっ、と歯を見せて笑うと、師はあたたかく抱きしめてくれた。


「まったく。無茶しちゃってもう。ボロボロじゃないか」

「無茶した自覚はあります。でも、そうしないと守れなくて」

「いろんな大事なものを抱え込んでたんだね。偉いよ。よくやった」


 ぽんぽん。

 背中を優しく撫でるようにたたかれた。まるであやすかのように。

 ふと、フォウの両目から涙があふれる。


 ああ、そうだ。


 いつもはハゼルにしてやっていた。

 でも本当は、自分もしてほしかった。

 師との別れはあまりに早すぎて、学ぶべきことも学べなくて、それまでも、そしてそれからも修羅のような人生で。少しも心を休めることはなかった。


 いつか、近いうちにやってくる寿命。


 それまでに何が出来るのか。何が残せるのか。

 そんな焦燥感にかられる毎日だった。そんな日々から、ようやく脱却できるのだ。


「お師さまっ……!」

「よしよし。大変だったね。これからはゆっくりと穏やかに過ごすんだよ……って言いたいんだけどね」

「え?」


 そっと、師がフォウから離れる。寂しそうな苦笑を浮かべていた。


「わっちがここに来たのはね、あんたを迎えるためじゃないんだよ」

「え? え?」

「フォウ。あんたにはまだここは早い。現世うつしよでやることがあるんだから、とっとと戻りな」


 とん、と、指先で肩から突き放された。

 たたら踏んでからも、フォウは戸惑いを見せる。


「え、いや、でも……」

「戻れるっていうか、戻されるんだよ。これからな。ということさね」


 言葉の通り、フォウは後ろから何かに引っ張られ始めた。

 抗おうにも抗えない。そんな何かを感じ取った。


「で、わっちがここに来た理由はたぶん、こっちが正解」


 笑顔のまま、師はぐしゃ、と何かを踏みしめた。

 そこにいたのは、フェイスと将来崩神ハーメルンだった。二人とも完全にノビている。


「これからこいつら連れて地獄見学ツアーいってくるわ。たぶんも何も、こいつらやってることがやってることだからフルコース確定だろうし」

「ええ……?」

「ちょーっと長旅になるだろうけど、大丈夫だろ。こっちに戻ってくる頃、ちょうおどあんたを迎えられるんじゃないかな。その時はちゃんと三文渡してあの世に行くし、そこで酒でも飲みかわそうや」

「お師さま……」

「ツマミは、あんたの英雄譚でいいよ。どうだい?」


 不敵な笑顔を向けられてはかなわない。

 なし崩し的に、フォウは笑顔を浮かべた。


「……わかりました。じゃあ、その時まで」

「ああ、その時まで」


 どちらからともなく手が伸びて、ほんの少しだけ触れて。


 世界が、一変する。


 ——


 ————


 ————————


 そう。


 目覚める。


「う……」


 目覚める直前特有の気持ち悪さを覚えつつ、フォウはゆっくりと目を開けた。

 眩しい。情報量の多い景色をぼんやりと眺めていると、誰かが顔を覗き込んできた。ハゼルだ。


「おししょうさまっ!!」


 それはもう耳を貫く勢いで叫びながら、ハゼルは抱き着いてきた。

 小さい体躯とは思えない力強さに痛みを覚え、フォウはたまらず苦笑する。ああ、かえってきたのだな、と。

 あの世との境目だろうあそこは、全部の感覚にフィルターがかかっているかのようだったから、ここまでハッキリすると少し驚きもした。


「ハゼル」


 優しく名を呼ぶと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったハゼルが顔を上げる。


「ただいま」


 できるだけ柔らかく言うと、またハゼルはぼろぼろと涙を溢れまくらせた。

 そこから泣き止むのに、一〇分は必要だった。



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