第9話 出来損ないと愚か者。
クラーケン。
それは海を代表する凶暴な魔神だ。数十メートルにも及ぶ体躯は軟体動物特有の柔軟さで物理攻撃のほとんどを防ぐくせに、破壊力は抜群。さらに全身を特殊な粘液で覆っているせいで、魔法も、魔法より強力な精霊の力を借りた魔術でさえ弾いてしまう。
極めつけは、強力な魔法を使用してくることだ。
故に魔神であり、海の王者と名高い海龍と双璧をなす存在だ。
普段は深海に棲息しているため、遭遇する可能性は極端に低い。万が一遭遇しても、それは深海に潜る体力さえなくなった個体で、攻撃する体力も残っていない。
だが、今現実として目の当たりにしているクラーケンは、見るからに元気で好戦的だった。
「——誰が召喚してきたのかねぇ」
呆れながら言った瞬間、クラーケンが海上で暴れて大波が起こり、また船が大きく揺さぶられた。
フォウとハゼルは近くの壁にしがみつく。固定されてない調度品たちが次々と床を転がって無残な状態になっていく。
「はわわあっ!」
『ちょちょ、ちょっとどうすんのあれ!』
「精霊の力でどうにかならないのかい?」
『ならないよ! あいつ臭いから精霊たちも近寄ろうとしないんだよ!』
「そういう理由かい」
『そうだよ! だからあいつには精霊魔法が通用しないの!』
すがるようにハゼルが見つめてくるが、フォウの表情は渋い。
「悪いけど、あれに対抗できるだけの神はまだ使えないね」
「そんなっ……!」
「船が沈没したら、なんとかして泳いで逃げるしかないね。ま、クラーケンが見逃してくれるかどうかは知らないけど」
『絶望的な死亡フラグじゃないのそれっ!』
またまた大きく揺れる船の中で、フォウが気軽に言うと、精霊が泣きそうな声でツッコミを入れてきた。
「ご安心を。我が船に任せてください!」
堂々と入ってきたのは、アデルだった。揺れる船内だというのに、平然と歩いてくる。
「船って、何かあるのかい?」
「はい。こういう時の為に用意してありますから」
自信満々に頷いてから、アデルは壁に設置してあった伝令管の蓋を開けた。
「艦橋! リミッター解除を許可する! 全魔導エンジンをフル稼働させろ! つづいて艦尾砲門、一番から八番までフルオープン! 照準はクラーケン! 惜しむなよ、斉射で麻痺弾を全弾撃ち込め! その後、魔術煙幕展開! 全速で離脱だ!」
『『『承知しました!』』』
一斉に返事が戻ってきた。直後、船が慌ただしく動き出す。
(ははーん。なるほど? これは豪華客船に見せかけた軍艦かい)
廊下を行きかう軍服姿の兵士たちを見て、フォウは察する。
ウェイン共和国は第二大陸において、帝国と比肩する軍事力を誇っている。それくらいはするだろうと思えた。
「危ないですから、室内に待機してくださいね」
「は、はいっ」
笑顔になったアデルにビビりながら、ハゼルは何故か敬礼した。
◆ ◆ ◆
クラーケンが吠える。
凄まじいばかりの巨躯を海の上で躍らせ、次々と大波を立てて船を襲う。
いくら豪華客船といえど、沈没は免れないと思っていたが、持ち直すどころか周囲に次々と魔法陣を展開していく。
そればかりか、艦尾から砲門を展開し、次々と弾丸をクラーケンに浴びせていく。
その威力は、とても民間船が搭載するようなものではなかった。
「──ちっ、軍艦だったか、あれは」
遠巻きから双眼鏡で覗いていた覆面の男は、舌打ちをした。
砲弾は中々の――否、相当な威力だが、クラーケンの前では直接的な効果はない。
だが、弾丸には麻痺毒か何かが仕込まれているようで、クラーケンの動きが鈍った。そこを狙って船は船とは思えない加速で離脱をはじめ、さらに煙幕まで展開する。
実に鮮やかな対処だった。
恐ろしく慣れている。
普段から想定して訓練していなければ不可能な芸当だが――。
「考えすぎだな。さて、起きているか? アホ支部長」
船の傍ら、縄で縛られた男を呼びながら、覆面はその顔面を踏みつけた。ぐえ、と汚い悲鳴が上がった。
乱暴なやり方で起きているのを確認した覆面は、そのままさらに踏みにじる。
「起きているならすぐに返事しろ。このゴミめ。さて。改めて問い詰めるが、あの船には我らの最大の裏切り者、ベアトリーチェ・フォウが乗っているのは間違いないんだな?」
「は、ひゃい……目撃証言もありましゅ」
「そうか。だが、貴様の命を使って召喚したクラーケン、役に立たなかったぞ。ベアトリーチェ・フォウが出るまでもなかったようだ。無駄足だったな」
「しょ、しょんにゃあ……」
「情けない声を出すな。見苦しい。そもそもこうなったのは貴様のせいだろうが」
覆面の言葉は手厳しい。寒気さえするような冷たい目で睨まれるが、支部長は涙目で訴えてくる。
「た、たしゅけてくらはい……」
「命乞いは聞かないと言ったはずだ。長生きしたいのなら、しっかりと支部を統制しておくべきだったんだよ、お前は。私利私欲の限りを尽くしやがって」
そして正論だった。
「お前が悪行の限りを尽くしたせいで、事務職は全員退職し、
「も、もうちわけありましぇん」
「今更謝っても遅い。本部が尻拭いをしなければならないなど!」
腹が立ってきたのか、覆面はまた支部長の頭を踏みにじる。骨が軋む音がしたが、気にならなかった。
懐から黒い液体の入った瓶を取り出し、蓋を開ける。
「貴様は管理職失格だ。組織として、キッチリ落とし前をつける」
「ひ、ひいぅっ! い、いのち、いのちだけはっ!」
「知らん。それは貴様の生命力に訊くんだな」
ぼた、ぼたぼた。
粘り気のある重たい音を立てて、液体が支部長に降りかかる。
直後、黒い液体が不気味に光を放った。
「あっ、ああっ、がっ」
支部長の生命力を吸い上げ、液体は蒸発しながら何かを呼び出す。
蠢くように、海面が揺らいだ。
覆面と支部長を乗せる船の下を、黒い何かが通り抜ける。
「さぁ、誰が来る?」
ごぼり。
水面に、大きな水泡が生まれる。いくつも、いくつも。やがて海面が盛り上がり、黒いそれは姿を見せた。
放たれた禍々しいオーラに、覆面は笑いを殺しきれなかった。
「──……予想以上だ」
非常に満足していると、支部長の代償は大きかったらしい。情けないくらいの虫の息で、ひゅーひゅーと忙しない呼吸を繰り返している。
ここから生き残れるかどうかは、五分五分だ。
しかし、覆面に助けるつもりはない。いや、興味がなかった。
「だが、まだ完全には程遠いな。より穢れた魂を食らう必要があるか」
覆面は、遠くで荒れるクラーケンを見た。
「さぁ、アレを食ってこい。そして――あの船を沈めろ。貴様なら出来るだろう? 巨人の海神――エーギル」
指示されるなり、神は当然のようにクラーケンへ襲い掛かる。
クラーケンは抵抗を試みるが、一切無駄だった。
「くくくっ。次に会ったら全滅させる、だったか? だったらやってみるがいい。ベアトリーチェ・フォウ!」
◇ ◇ ◇
――夜。
海は落ち着きを取り戻していた。
甲板に出る許可も下りて、ハゼルは海の景色を楽しんでいた。
『海を見るの、そんなに楽しい?』
空から精霊がやってきて、ハゼルの肩に腰かけた。
「うん。たのしい。いままで海なんてみたことなかったから」
『そうなんだ』
「うん。うまれたときから、どれいだったから」
『あー、なるほどね』
ハゼルが苦笑すると、精霊は気まずそうにするしかなかった。
海の音がする。
満天の空を見上げて、ハゼルはまた息を吐いた。
『不安なのかい?』
「すこしだけ? でも、だいじょうぶ。おししょうさまがいるもん」
『本当に慕ってるんだねぇ、フォウのこと』
「うん。ぼくをどれいからたすけてくれたからね」
なるほど、と、精霊は納得した。
「ぼくはね、がんばって
『助ける?』
「うん。おししょうさまは世界一だから、きょうりょくな神はぜんぶおししょうさまがやっつけてたんだ」
『そうだね。ヘルメスをなんとかできるんだし、規格外よね』
「だから、ぼくもつよくなって、すこしでもたすけるんだ!」
目をキラキラさせながら言うハゼルに、精霊は微笑んだ。
『じゃあ頑張らないとね』
「うん! つよい神だってたおしてみせるよ!」
宣言した刹那だった。
急激に海が蠢き、渦を巻く。それは竜巻のようにせりあがり、余波として荒々しい波が発生した。
「うわああああっ!?」
いきなり激しい揺れに襲われ、ハゼルはデッキの柵に捕まる。
ぐらぐらと揺れる中、海の竜巻から一人の黒い何かが姿を見せた。
波を思わせる白い髭を蓄えた、浅黒い肌の老人。怪しく光るその目は深紅に染まっていた。
「あ、あれは……!?」
ビリビリと伝わってくる、恐ろしい感覚。
『穢れた、神だわ……それも、かなり強力だよ!』
精霊の言葉に、ハゼルは呆然と立ち尽くした。
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