36話 丸本③
「長年自分を縛っていた父親から解放されて、大学生の一人暮らし。生活費は自分のアルバイトで賄わなければなりませんでしたが、学費も家賃も親が面倒見てくれる。毎日キツいプレッシャーを感じていた高校時代を思えば天国のような環境になりました。……間違いなくそうだったはずなのですが、私の大学生活は上手くいきませんでした」
「何でだよ?最高の状況になったんじゃないのかよ?」
俺は大学というものに行ったことがないのでよく分からないが、大学とはそんなに面倒臭い場所なのだろうか?大学生なんて遊ぶために生きている人種じゃないのか?
「何故でしょうね?突如降って湧いた自由を持て余してしまった、ということでしょうかね……とにかく大学生活に馴染めなかったのです。医大を目指して勉強に追われていた頃に比べればあまりに簡単過ぎる授業内容、赤や金に髪を染め大声でバカ話に興じるクラスメイト、自主性に任せられた大学のシステム……そのどれもにとても戸惑いを覚えました」
「それは丸本君のような人間にとっては、環境が変わりすぎて馴染めないかもねぇ。……僕も同じように大学を遊びに来る場所だと思って通っていた口だから、そいつらを責めることは出来ないけどね」
同情的な言葉を掛けたのは言うまでもなく謙太だった。
「いや、確かに彼らの存在は奇異に感じたし最初は少し怖くもありました。でも彼らは別に悪い奴らじゃない、ということもすぐに分かりました。時々うるさくして授業に迷惑を掛けることくらいはありましたけど、小中時代のいじめっ子みたいに勉強している人間をバカにしたり妨害するわけでもない。それどころか時々向こうの方から私に対してコミュニケーションを取ろうとしてくることもありました。……一体彼らはこんな陰気な人間のどこに興味を持ったのでしょうね、くくく」
またしても笑えない丸本の自虐笑いが炸裂した。
「まあ、そんな絶好のきっかけがあったにも関わらず私は大学で友人と呼べる人間が一人も出来ませんでした。ただ、アルバイト先では多少話せる人たちが出来ました。それが救いになっていた部分はあるでしょうね」
「ほー、何のバイトをしてたんだい?」
丸本がそれだけどこにも馴染めないガリ勉だったならば、逆にバイト先で上手くやっていけたというのは少し不思議な気がした。
「主に深夜の倉庫のピッキング作業というやつです。私はある程度生活費を自分で賄わなければなりませんでしたし、作業を覚えてしまえばほとんどコミュニケーションを取る必要もない、このアルバイトが自分の性に合っていました。同世代の人間は少なくて20代、30代のフリーターが多かったのですが、それが却って落ち着きましたね」
「ちょっと意外だな。いい歳したフリーターの連中なんてエリートだったアンタが最も嫌いそうな人間たちかと思っていたよ」
俺の言葉に丸本は慌てて手を振って否定した。相変わらず顔の表情は一切変わっていなかった。彼は顔よりも手の方が表情豊かな人間のようだ。
「エリートなんてとんでもないです。自分は落ちこぼれですし、同世代の人間ともまともにコミュニケーションを取れないという意味では最下層の人間です。……今もですが、当時もそんな劣等感を強く抱えていました」
丸本は少し言葉を切ってまた話し始めた。その口調の改まり具合から、どうやら彼の物語の本題に入ることが予想された。
「そうですね、ちょうど大学に入って最初の年の夏休みの頃です。その頃もそんな劣等感の気持ちがピークに達していました。その気持ちを一言で表すとするならば『変われない自分への絶望』といったところでしょうか。……大学に入って5か月ほどが経っていたにも関わらず、大学ではただの一人も話す相手が出来ていませんでした。前期の試験はある程度パス出来ましたが、その頃には授業にもあまり出ていませんでした。深夜のバイトが多かったことも原因でしょうが、どう考えても大学生活が自分には合わないような気持ちは強くなっていました。……もちろん親から学費等の援助を受けていることに感謝もしていましたが、どちらかというと後ろめたさの方が強くなっていました」
「まあ、若い内は精神的に不安定だよね。でも自分で生活費稼いでちゃんと単位も取れたんでしょ?なんだかんだ言っても立派だと思うよ。僕なんか大学で勉強なんてほとんどしなかったもの!」
謙太が取りなすように言ったが、丸本はそれに対して肯定も否定もせず自らの話を続けた。
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