第3話 秋の雨男
私には戦うべきものがある。
日々安穏と過ごすことができたなら、戦わずともすむが、通常そうはいかない。
皆何かと戦って生きている。何かと戦わずにはいられない。
問題は何と戦うかだ。己の尊厳のため、愛する者のため、自己の出世欲のため、生活のため、芸術のため。理由には事欠かない。
私は自分に厳しい性格だ。40を超えた今も、高まり続ける向上心を持て余している。
私は雨男だ。私の名誉のためこの事実を隠し通さなければならない。
私は雨男だ。私には愛すべき家族がある。彼らを災害から守らなければならない。
彼らの幸せを守ることは私の至上の幸せだ。
だから、私は戦う。しかし戦うべきものの何と多いことであろうか?
日々が闘いだ。
忍耐強く、しかしながら、きわめて戦略的に、そして着実に、日々戦いに勝利を収めていく。
時々私は闘いの日々に疲れ、癒しを求め、現実から逃避する。
しかし、私は戦う。また立ち上がり、歩を止めない。
私には戦うべきものがある。
現在私は、雨男監理官という職業をしている。あまり聞きなれない職業であると思われる。
雨男監理官の仕事は多岐にわたるが、主に2つの業務をこなしている。まずは雨男認定業務である。雨男の可能性の高い男性を調査し、雨男であることを認定する。そしてどの程度の雨男能力、すなわち、雨男指数(単位無)、を有しているかを最終的に判断することである。
時代とともに技術も進歩し、ほぼ自動的に雨男を特定し、その雨男の雨男指数(単位無)は推定できるようになった。しかし、雨男指数を直接測定することは出来ず、あくまでも統計的に決定していくしかないのが現状である。また、雨男発動条件を満たさない限りにおいて、雨男は発動しない。そのため、常に統計的な判断をするのに必要なサンプル数が足りない。雨男監理官は実験的に雨男発動条件を満たす機会を作る。そして、最後の判断は固有技術に基づいて、つまり雨男監理官の感と経験に基づいて判断を行う。これらの雨男特定とその雨男指数の測定方法については条例で定められ、附則でそのガイドラインが示されている。
もう一つの重要な業務は雨男の行動制御である。雨男発動後であっても、個々人の雨男指数はたいしたことはない。地域限定の異常気象をもたらすためには最低でも面積当たりの雨男指数26,000km-2が必要とされているが、単独で異常気象をもたらす閾値を超える雨男指数を持つケースはまれである。しかし、雨男が複数集まることにより、ある一定範囲内の雨男指数は加算的に高まり(雨男加算則)、災害を引き起こす。昨今よく聞かれるゲリラ豪雨等は、雨男が、本人達は意図せず、それぞれの理由で狭い地域に集まることによって発生する。雨男監理官は、これら雨男の行動を制御し、一時期に彼らが集結しないようにする。
雨男監理官は、また国家公務員である。しかし公に可能なあらゆる方法で調べて見たとして、そのような役職を見つけることは出来ないだろう。内部的な呼称で有り、内閣府の管理する「減災・防災研究所」、通称「雨男管理局」に所属する特別公務員の一種である。雨男監理官があたかもCIAのような秘密性を有するのにはいくつかの理由がある。一つは雨男特定の過程において、個人のプライバシーが完全に無視されてしまうことにある。通常の光学監視カメラに加えてサーモグラフィーを用いた体温変化、携帯電話からのデータの収集などあらゆる方法で個々人の行動パターンと体温変化、SNS等のやり取りから推定さされる感情の変化を関数化し、降水、日照、気圧、風速、気温などの様々な気象変化との関連性から雨男を特定していく。
雨男の行動制御のためには手段は問わない。もちろんジェームズ・ボンドのように殺しのライセンスが付与されているわけではないので、罪を犯せば捕まる。しかし、超法規的な措置により、多くの場合は社会的なそれまでの地位の放棄を前提に釈放される。つまり、新しい名前、経歴を与えられ、新たな場所で、再び雨男監理官の業務をこなすことになる。これを我々は転勤と呼んでいる。何事も限度はある。雨男行動制御の目的のために殺人やきわめて重大な障害を残すような傷害を起こすことは許されていない。あまりにも転勤を繰り返すと、雨男監理官としての能力が足りていないと判断され、転属となる。秘密保持の観点から減災・防災研究所のサポートスタッフや、管理職となる場合がほとんどであるが、中にはその足取りを追うことができなくなるケースもあると聞く。我々の知らないさらなる超法規的な処置が存在する可能性があると私は考えている。
このような超法規的な活動が許される背景には、近年特に激しさを増すゲリラ豪雨や洪水被害の増加による人的、経済的な甚大な被害の増加がある。都市部への人口流入 、交通機関の発達にともない移動が容易になり、雨男の偏在にともなう局地的なゲリラ豪雨が多発している。地球温暖化の所為にされつつある未曾有の天候不順も、世界人口の増加がもたらした、絶対数としての雨男の増加と偏在によるものである。この人災に対応すべく安倍第二次内閣において、密かに内閣府に設置されたのが「減災・防災研究所」通称「雨男管理局」である。
町がまどろみから目覚める。秋が深まり、日の出の時間が遅くなってきているので、この時間でもまだ薄暗い。
私は岡山駅前のホテルの一室で目覚めた。岡山在住の私が岡山駅前のホテルに宿泊することは、少し奇異なことと思われるかもしれない。飲み過ぎ、帰る手段をなくした諸氏が夜露をしのぐためにこのようなホテルを利用することがあるが、私はそのような類ではない。業務である。予測される予定では、私はホテルをわざわざ取る必要はない。ただ何が起こるかわからない。ただでさえ精神的負担の大きな業務である。そのような不安で精神体力を消耗し、判定を誤るわけにはいかない。今日はシステムが抽出した疑雨男(雨男であることが疑われている男性)の最終判断を行わなければならない。この判断によって、ターゲットの人生は大きく変わる。雨男として特定されてしまえば、一生国家の監視管理対象となってしまうのである。慎重にも慎重な判断が必要であり、私はその最終判断を任されているのである。しかし、それ以上に私にとって重要な理由がある。私にとって、「いつもと同じ」ということが重要なのである。私のわずかな心の乱れは、観察系に大きなノイズを加えてしまう。雨男の特定業務は、通常は出張をして行う業務であり、ホテルを利用するのはルーチーンとしてとても重要な要素である。
ベッドから抜け出し、手早く身支度を整える。荷物をまとめ、ロビー脇の簡素な食堂でホテルの朝食をいただく。全国チェーンのこのホテルは無料の朝食が付いてくる。シティーホテルの朝食バイキングほどの種類とクオリティーは望めるものではないが、和食系、洋食系と一応いくつかの選択肢はあり、体を目覚めさせるのに必要なエネルギーを摂取するには十分である。国民の皆様の血税をもとに働く公務員にとってコスパは重要である。
このシチュエーションは洋食であろうと、備え付けのトースターでスライスした食パンパンを軽くトーストする。クロワッサンも捨てがたい。サラダとスクランブルエッグを皿にとりわけ、席に着く。コーヒーをサーバーから注ぐ。完璧である。トースターにはマーガリン派とジャム派がある。読者諸君はどちらであろうか?私はジャム派である。しかし、このようなホテルのジャムはゼラチンの含有量が多い。これは残念ながら私の基準ではジャムではない。仕方がないので、何もつけずに食べる。悪くはない。少しバター多めの小ぶりなパンはトーストすることで、サクサク感が増し、何もつけなくてもほんのり甘い。一気に食べてしまった。
もう一枚食べたいという誘惑を振り切り、サラダとスクランブルエッグに取り組む。こちらはいたって期待通りであり、是も非もない。手早く片づける。最後にクロワッサンを食する。少ししっとり感が強く、バター感が強すぎる。ちょっと残念である。
食後のコーヒーを片手に研究所のシステムを使って本日の詳細な気象条件を確認する。岡山地方は終日曇りの予想。ターゲットの出張予定となる大阪地方も同様の予報である。予報によれば、低気圧は日本海側を通り、京都府北部を通過する予定であり、山陽地方が降雨となる可能性は低い。気象庁の出す降水確率も30%前後である。判断にはよい気象条件である。
本日の大阪地方の累積雨男指数は23,000から25,000km-2と予測されている。くだんの疑雨男の平常状態での推定雨男指数は500であり、疑雨男が加わったところで、累積雨男指数は雨を降らすレベルに到達はしない。しかし、低気圧の通るルートを変えたり、雨を降らしたりすることになれば、雨男指数1000以上のA級雨男として監視管理すべき対象にはなる。
追跡システムにアクセスし、ターゲットの行動をチェックする。予定通り自宅を出発したことを確認する。不測の事態に備えて、張り込みをしているエージェントがターゲット出立を伝えるメッセージを送ってきた。律儀なことである。礼のメッセージを送る。
ホテルをチェックアウトする。
ターゲットの家から、岡山駅までバスを使って約30分。ハッキングしたスマホの履歴から7:19発のぞみ112号を利用する可能性が高いことを確認している。大阪行きの自由席チケットは昨日帰宅の際購入していることを確認されている。バスの到着予定時刻は6:45分であるから、30分以上余裕がある計算になる。また、ターゲットは大阪駅近くのホテルで10時から行われる業界の研修会に参加する予定である。通常であれば1時間半も時間を持て余してしまう。当日何があったとしても、慌てることのないようにということのようだ。しっかりとした計画、十分に余裕のある行動、これは残念ながら雨男の特徴の一つである。
ターゲットの名前は、白石 匠。34歳。地元で義務教育、高校、大学時代を過ごし、市内の中堅建設会社で経理として働く。内気な性格で、これまで燃え上がるような恋に恵まれず、独身である。天性の性としての内向性なのか、雨男としてのこれまでの経験が彼を内気にさせたのかわからない。往々にして、雨男は控えめで内向的な性格を持つ男性が多い。多くの雨男は自分が雨男であることを薄々自覚しており、行事の度に雨が降るのは自分のせいだと考えている。
したがって、目立ってはいけないのである。目立ってしまえば、それだけ他人に自分が雨男であることを気づかれてしまう。また、インドア系の趣味を持つ、地元密着で社内業務を中心とした業務に就く人が多いのも、雨男であることを気づかれるリスクを下げるための自然な行動である。ゆえに、最近は雨男を特定することがとても困難となってきている。外交的な雨男はすでに特定がほぼ完了しているといってもよい。まして、晴れの要塞岡山では、雨男のシグナルをとらえづらく、地元岡山では半年ぶりの判定業務である。また、システムの推定値にも大きなバリアンスが存在する。雨が降らなければ、雨男であるかどうかわからない。データが少ない。白石氏の場合、推定値は500であるが、95%の予測区間は300から1500と大きな幅がある。雨男の判定基準は雨男指数300以上であるから、2.5%程度の低い確率ではあるものの、非雨男の可能性が残っている。他人事ではあるものの、非雨男であることを祈らずにはいられない。
また携帯が震え、メッセージが着信したことを知らせる。ターゲットが予定通り岡山駅行きのバスに乗ったことを伝える。これで彼の業務は終了である。私はねぎらいの言葉を送る。ここからは別のエージェントが不測の事態に備え、同じバスに同乗することになっている。ターゲットに気づかれてはいけないので、接触は最低限にする必要があるのである。今年2年目のこの女性エージェントからも、メッセージが届く。ターゲットの後頭部に大きな円形脱毛症があるのを発見したと、喜々と報告してきた。写真では確認できなかった情報である。ありがたい。また、白石氏にとってこの出張は想像以上にストレスである可能性がある。
「ありがとう、これで後ろからでも見失わずにすむよ。でも、ターゲットを笑いのネタにするのは謹むように」、と返信をする。
「てへぺろ」と返信が返ってくる。
「てへぺろ」とはなんだ?推測するに若い子たちで使われているすみませんとかいう意味だと思われる。後で調べておこう。今は駅に向かうことにしよう。
トレーをかたづけ、椅子の背にかけていた背広を羽織る。チェックアウトし、ホテルから出る。路地を抜けるとすぐに岡山駅西口である。ANAクラウンホテルの前にある階段を上り、駅改札へと続くペデストリアンデッキを進む。通勤・通学の人々で少し込み始めている。いつもは甘いにおいで道行く人々を誘惑するベルギーワッフル店も、まだシャッターが閉ざされている。ローカル線の改札前を通り過ぎ、東口へと続く階段の近くに位置する新幹線改札口を目指す。改札をすましておいてもよいのであるが、ターゲットの突然の行動の変化にも対応できるよう、改札とは反対側のさんすて岡山側の入り口付近で待つことにする。これも目立たないようにする配慮である。
くだんの彼女からあと1分で岡山駅着のメッセージが入る。1分15秒後、ターゲットが階段を上がってくるのを目視確認。明らかに、バス到着20秒前に先のメッセージは慌てて発信されたものだ。次のイベントの5分前の報告を常に要求しているのだが、なかなか彼女は身につかない。まだまだ成長の機会はあるということだ。
ターゲットの10m後から階段を上がってくる彼女とアイコンタクト。目でねぎらう。ここからは私の担当である。
ターゲットはまっすぐに改札に向かう。手にはすでにチケットが握られている。慎重にチケットの自動改札への挿入方向を確認するも、どの向きでもよいことを知り、心底感心したような顔をする。実際には私は彼を後ろから見ており、顔を確認できないのであるが、そのふるまいからは、きっと、そうに違いないと想像には難くない。彼は、出てきたチケットを忘れないように受取、上着の胸ポケットに大切そうにしまう。数歩進み、掲示板を確認する。自分が乗る予定の新幹線の前に何本か早い便があることを確認したようだ。自由席であるから予定を変えてもよいのであるが、白石氏は予定通りの新幹線に乗ることに決めたようである。
構内にあるセブンイレブンで物色しながら時間をつぶすことにしたようである。彼はまずレジの列を確認した。いつものようにここのレジは長い列ができている。この時間お土産屋はまだ空いておらず、また早朝であることから出張のためのサラリーマンで店内は込み合っている。結果買い物を早めに済ます必要性を確認したようだ。雨男はすべてのステップを慎重に確認する傾向が強い。
彼はまた、レジの側にあるコンビニコーヒーにも興味を持ったようである。缶コーヒーではなく淹れたてのコーヒーを片手に列車の旅を楽しむ、素晴らしい。そうとなれば、コーヒーのお供が必要である。本格的なコンビニスイーツか、チョコレート菓子この辺が妥当な選択と思われる。30男子が朝からスイーツは少し気恥ずかしい。であれば、チョコ系か。ここは定番のポッキーにしよう。ところで、コーヒーはどうやって頼めばよかったか?前の客がカウンターでからの紙コップを受け取っている。そうそう、カウンターで頼めばよかったんだ。それにしてもこの列長いな。大丈夫まだ時間はある。間に合うはずだ。
私は、コンビニから少し離れたところから彼を目で追いながら、彼に感情移入をしていた。レジに並んでじりじりと焦りを感じる彼の心の動きと私は感情を同期させていた。私が、特に雨男を判定するという業務において、優れた雨男監理官である一つの理由が、ターゲットの心の動きをシンパシーによって極めて正確に計ることができることにある。もちろんこれは諸刃の剣で、私自身の精神状態があまりにも揺れ動いた場合、私自身が雨男となってしまう。しかしながら、私は長年の鍛錬の結果、少々の感情同期では止水に0.3ミクロンの粒子が落ちた程度の揺らぎしか生じない。少々わかりにくかったか。ミクロンというのはミクロンメートルのことで、1/1000㎜のことであり、0. 3ミクロンはとにかく小さなごみということである。こんなごみが水面に落ちたところで、波紋など発生するわけもなく、私の心が全く揺るぐことはないということである。
なんだかんだで、予定の新幹線の出発時刻の13分前になってしまった。彼は焦っているようである。まだ出発までには十分に時間があるものの、自由席車両は1,2,3号車である。階段を上がった位置は大体7号車から8号車付近であり、1車両の長さは25mであるから、階段を上がってからさらに100mほど歩く必要がある。時速4㎞が通常の歩行速度であるとすると、階段を上がってから1分30秒かかる計算になる。階段を駆け上がったとして、コンビニから3号車付近まで、約2分。もし2,3号車が混んでいればさらに1分ほどかかる計算になり、乗車のための列に並ぶのが10分前になってしまう。遅れれば遅れるほど座れなくなるリスクが高くなり、せっかくコーヒーとお供のポッキーを楽しむのに支障が生じてしまう。
転んではいけない。走っているところを見られるのは恥ずかしい。大切なコーヒーをこぼさないようにしなければいけない。しかし時間がない。自ら課した様々な制約条件と葛藤の結果、結局小股でハイケイデンスな速足という、はたから見るととても残念な歩き方になってしまった。もちろん彼本人は気づいていない。
なりふり構わない(本人的にはスマートな)努力の結果、出発11分30秒前に2号車の列に、彼は並ぶことができた。
なりふり構わない(本人的にはスマートな)努力の結果、出発11分30秒前に2号車の列に、彼は並ぶことができた。
名古屋圏よりも東で、かつ午前中の早い時間に予定があるか、さらに時間的遠方で用事がある顧客が利用するこの時間帯の新幹線は、適度に混み合うレベルであり、ホームの列も7名が待つのみであった。広島発の列車であるから、通常でも十分に座席を確保できるか可能性は高い。さらに言えば、白石氏が席を確保できるのは確実なのである。我々は彼の心理状態を科学的手法によりモニタリングする必要があり、光学、赤外線カメラおよび微小脳はの観測装置が2号車の13〜16列Aに取り付けてある。我々のエージェントが、我々の得意とする行動制御技術を駆使して、被検者をそれらの座席に誘導する手筈になっている。白石氏は何の心配もいらないのである。彼は3列シートを独占し(観測およびプライバシーの観点からその列には白石氏以外を座らせない予定である)、車窓を流れる秋の色をまとった山陽の風情を楽しみながら、優雅にコーヒーとポッキーを楽しむことができるのである。しかしながら、白石氏の表情は冴えない。我々にとっては確定された未来であるが、その未来を共有しない彼にとっては不確定な未来であり、不安に苛まれることは致し方ないことである。可哀想ではあるが、どの映画でも、そして現実においても、未来は教えてはならないものである。
彼にとっては永遠とも思える11分間、たかが席に座れるかどうかと言う不安に見事に耐えきった白石氏を、朝のしっとりとした空気を纏ってあらわれたのぞみ112号東京行きは優しくその車内に招き入れる。我々のエージェントによって自然に誘導され13列A席に座る。私は彼を斜め後ろから観察すべく12列Dに陣取る。同時に、今回のミッションにおける様々な情報を一元管理する専用サーバーのアクセスコードがスマホに届き、彼に関する本格的なデータ収集が開始されたことを報せる。機器測定データに私の定性的な観察結果とをリンクさせるため、サーバーにアクセスを開始しつつ、彼の状態を確認する。さぞストレスを感じ、そして安堵し、大きく情緒が振幅したであろうが、今のところ彼の状態に懸念される兆候は見られない。今や我々エージェント間で彼のトレードマークと認識された(されているだろう)後頭部の10円ハゲの拡大の兆しは見られない。緊張状態にはあるが、パニック状態には至っていないだろう。
サーバーを介し、彼の現在の状態に関する測定データを確認する。ベーター波が相当強く極度の緊張状態を維持していることが確かめられ、私の観察との一致が確認できた。これまでの経緯および観察結果をサーバーに入力する。
通路をさまよっている人達が自らの席を確保するかしないか、白い流線型は静かに動き始め、時空を歪め、街を時間と空間のへりへと押しのけながら速度をあげていく。コンクリートの建造物が、高架を走る新幹線の目線において、仰角がプラスからマイナスへと変化する。次にその密度が低くなり、視界が突然トンネルに奪われる。光を取り戻したその時には、ようこそ穏やかなる備前の地へ。大小の川を横切り、点在する集落をつなぎながら秋の光の中を疾走する。山間では、太陽がようやくのぼり、夜露を未だに纏った枯れたカヤが金銀にゴージャスにたたずむ。川を渡れば、鉄橋と平行に走る道路は出勤の車が信号に列を作り、その横を高校生達が自転車で通学する姿を眺める。岡山ー新大阪間で最も緩やかに時が流れる。
白石氏は、3度、電光掲示板で号車番号とここが自由席であることを確認する。自分の隣には誰も座らないことを横目で幾度となく確認し、確信する。ラッキーなことに彼の後ろには誰もすわっていない(我々が白石氏の観察のためにそのようにしたのではあるが)。こころおきなくリクライニングを倒す。コーヒーカップを一度窓枠に置いて、折りたたんであるテーブルを倒す。コーヒーカップと、ポッキーをビニール袋から取り出しテーブルに並べる。さぁ、至福の時の始まりだ。
購入から18分23秒経過したコーヒーは超猫舌仕様に完璧にフィットする適温に達する。それでもリッドに口をつけ慎重に傾け、唇で液温をたしかめる。よし、飲み頃である。一口含み鼻腔に抜ける香りを楽しむ。
包装箱に部分的に入れられた切り込み開け口をひっぱりポキポキとポッキーの箱を開ける。中にはプラスチックフィルムにアルミ蒸着をし、酸素透過性を下げた個装パッケージが2つはいっている。有難い。一つは帰りか、いや研修の休憩時間か?
プラスティック製のパッケージは延伸方向を制御することで分子配向を揃えた結果、軽く横方向に引っ張るだけで手で切り開けることが出来る。
整然と並んだ精鋭たちの中から、クッキー部を摘まれ、チョコの一張羅をまっとった一本の同士がゆっくりと引き上げられる。車窓から注ぎ込まれる晩秋の朝日を纏い、チョコが神々しくきらめく。まだ社内の室温に温まっておらず、冷たさを舌が感じる。その直後、チョコの甘さと香りが鼻腔を駆け巡る。クッキーの小気味よい噛み応え。あぁ、至高の瞬間。
こうなれば、急性ポッキー依存症を回避することなど、並大抵の精神強者ではない限り不可避である。姫路駅を通過するまでに、2袋が空になり、72g、364kcalが白石氏の腹の中に納まることとなってしまった。成人男性摂取カロリーの16%をポッキーから摂取してしまった。コーヒーごときでは緩和しきれぬほどの胸焼けが残り、うしろめたさが支配する。「うしろめたさ」。多くの場合、原因は単一の物ではなく、複数背徳行為の複合体である。男子が甘いものにうつつを抜かすこと、多くのカロリーをすいーつから摂取してしまったこと、そして何より、そもそも、確固たる計画といえるほどのものではなかったにせよ、2袋目はこの新幹線内ではなく、後ほど食することとしていた自らが立てた計画をあっさりと反故してしまったこと。
後悔の念。
新神戸駅を発車することを気づいた瞬間に訪れる、何も準備をしていない焦燥感。あと3回は会場までの道筋を予測しなければ。会場案内の書類をカバンから取り出そうとするが、倒したテーブルが邪魔で、何より食い散らかしたポッキーの空箱と空袋が汚らしく散らばっている。カバンを足元から引き揚げた瞬間、テーブルが傾き、ごみが散逸する。かたずけなければ、と体を傾けると、カバンとテーブルに挟まれて、極めておかしなことになってしまう。
センサーの力など借りなくても、白石氏の精神状態の健全性が急速に悪化していくことは明らかである。急ぎ現在の天候情報を確認する。気圧の低下傾向が認められる。もちろん、これをもって白石氏の精神状態の悪化との関連性を判断するのは軽率極まりないことであるが、しかし、フラグを立てておく必要性がある。
雨男指数の予測値の更新を要求する。予測値は変わっていない。雨など降るはずはない。
しかし、新大阪が近づいたことを知らせる社内アナウンスが聞こえるころ、空はにわかに暗くなり、窓に雨粒が付き始めた。雨男指数の予測値は変わっておらず、未知の雨男がこの大阪地方に侵入したことを示している。そして、現時点で大阪地方に侵入した雨男管理局が観察をしている疑雨男はこの白石氏のみである。今後の調査によって、他の雨男が発見されない限り、白石氏は、この急激な天候変化を引き起こすほどの、おそらく1000以上、場合によっては5000の雨男指数を持つA級またはS級の雨男ということになる。白石氏の不運に同情を抱かざる得ない。いや、私の精神はそんなに高尚ではない。このようなレアな高い雨男指数を持つ雨男の発見に立ち会えたことをうれしく思い、しかも白石氏に公式雨男おめでとうの祝辞を盛んに叫んでいるではないか。あたまの中は祝賀モードである。
新大阪に新幹線は滑り込む。雨はまた少し強くなる。新幹線を下りた白石氏は看板もろくに見えずに、乗客の波に階下に押し流される。人が多い。人は無数の流れに分かれ、それぞれの目的地を目指している。ある者は新幹線に乗るために、ある者は地下鉄に乗るために、そしてあるものはスタバに入るために。
会場は地下でつながっているはずだ。まずは改札を出ねばと改札を出る。地下は? 階下に続くエスカレーターを見つける。おかしい、案内書にある地図と明らかに異なる。はたと気づく。ここは新大阪駅で、大阪駅に行かねばならなかったのだ!!再び1階に戻り、JR在来線入り口を探す。チケットを買いなおし、改札を通る。新大阪方面を探し、これでいいのかと7番、8番ホームへとエレベーターで下る。雨が強くなっている。
東海道山陽本線各停 新三田行。え、戻るの?と不安を抱えたまま、電車に乗り込む。ドア付近の路線案内で何度も次は大阪に停まることを確認する。雨がさらに強くなる。
雨は弱まる気配がない。白石市の精神状態は悪化の一途をたどる。
さすがにまずい。このままでは季節外れのゲリラ豪雨へと発展してしまう。
本部にこれ以上の白石氏の雨男判定のための追跡観察の中止し、その他の雨男諸氏を含めた行動規制の開始を具申する。
大阪駅のプラットフォームに吐き出されたとき、関西支部支部長から着信。
「お久しぶりです。ずいぶん大物のようですね。」
支部長は、確か私より3歳下のはずであり、いつも腰が低い。
「そのようです。まずは対象の精神安定を図りたいと思いますが」
「わかりました。こんな大物の正確な雨男指数を正確に測定する機会を見逃すのは残念ですが、致し方ありません。」
支部長は、私と同じ喜びのツボを持っている。
「まずターゲットの気持ちを落ち着かせた後、その足で神戸方面へ向かってください。何人か雨男が一時間以内に流入してくる予定です。彼らの流入時間を遅らせてください。システムに指示を送っておきます」
「わかりました」
雨はますます強くなる。
さて、助けに行くか。地図を片手に狼狽する十円禿、もとい、白石氏へと声をかけよう。
雨男晴女 酒本料磨 @Keiyama2021
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