第2話 雨男岡山の地に育つ
気がついた時には雨男だった。正確には雨男と言う言葉を知ったその瞬間に、気づいてしまったのだ。雨で3度目の幼稚園の遠足が流れた際、当時小学校2年生だった3つ年上の姉が「あの先生やっぱり雨男だよ」って。その刹那、自分がその雨男だと気付いてしまったのだ。その日その先生は風邪で休みだったからだ。そんな不名誉な運命を自分が背負っているなんて、信じたくなかった。しかし、わずか5年の人生のなかにも腐るほど思い当たることがあり、自分が雨男以外の何物でもないことは疑いの余地がなかった。
当時から自分に厳しくすることを是としていた私には、この悲しい運命の現実から逃げ出す弱さが許せなかった。かといって周りに自分が雨男であることを知られるのも我慢ならなかった。何としても自分が雨男であることを隠し通す必要があった。私は決心した。
決心をしたものの、それは想像以上の戦いであった。なによりも親友にその罪をなすりつける心苦しさに耐える精神力が必要であった。幼い私の基本的な戦略は機先を制すであった。雨が降れば、「泰三お前、やっぱり雨男だろう」と竹馬の友に罪をなすりつけるのである。トイレにも一緒に行く私と泰三の仲である。行事ごとに雨が降るのは、雨男、泰三の所為であり、私は無関係である、そのようなバイアスを級友へ植え付けるのである。バイアスを植え付けるためには繰り返しが必要である。
そして例外は許されない。泰三は必ず行事に参加しなければいけないのである。イベントの一週間前には泰三が風邪などひいて休まぬよう、最大限のサポートをしたものである。突然の雨が降れば、私は濡れても、泰三に傘を貸し与えた。業間休憩は最も危険な時間帯である。大概のけがは、これらの休み時間にふざけあっているうちに起こる事故に起因する。休み時間は教室内で楽しい会話を楽しむため、泰三の関心事や笑いのツボを徹底的に調査した。ネタの収集のためには、独自の情報網が必須である。私が小学生の頃はインターネットはなく、雑誌や書籍、テレビが最大の情報網になる。むろん本屋での立ち読みやアニメや8時からのバラエティーは必ずチェックするが、加えて姉の持つ情報網は独自性のためには欠かせぬものであった。残念ながら姉は姉、女子の情報網は、年の離れた男子にはそのままでは使えない。そこで、かわいい弟を演じ、姉の級友の男子から様々なことを学んだものである。このような努力の甲斐もあり、泰三はほぼすべての学校行事に元気に出席することができた。言われた方はたまったものではないが、泰三が雨男であるというバイアスを植え付けることに成功したのである。
やがて、泰三には泰三の、私には私のコミュニティーが形成され、友人の知能も人並みになってくると、いつまでも泰三に罪をなすり続けることが難しくなってきた。幸いだったことに、父親の仕事の関係で、晴れの国岡山に引っ越すことになったのである。雨の降りしきる中、涙の別れを済まし、生まれ育った静岡市を後に、一路東海道を下ったのである。季節はもう1週間で秋分を迎える9月半ば。しかし、その年最後の台風による足止めを食らいながらも、予定より1日遅れで岡山に入ったのであった。
南に霊峰石鎚山を擁する四国山地、北を中四国最高峰大山を筆頭とする中国山地にかこまれ、瀬戸内海のど真ん中に位置する岡山は、まぎれもない晴れの国である。台風は狭い豊後水道を抜けなければならず、岡山に来る頃にはその牙を抜かれてしまう。夏の雨雲は四国山地で力尽き、冬将軍は大山での戦いで、その矛先は完全に錆びてしまうのである。この晴れの要塞を突き崩すには当時の私の雨男としての実力はまだまだ矮小であった。
そう、当時の私の実力は矮小だった。岡山に越して以来、運動会も遠足も雨で流れることはなかった。人生絶頂の幸福感に包まれつつ、しかし私は常に不安を抱えていた。私には予感があった。雨男であることを気にしなくてもよいこの時には必ず終わりが来ることを。
準備をすべきであった。私は考えた。雨男といえども、私の毎日は晴れの日もあれば、雨の日もある。では雨男の定義は何であろうか? 雨男とは、何かイベントがあるときに必ず雨をもたらす者である。日常は他の者と同じなのである。私は仮説を持った。雨男という天性の罪の発動条件は、平生と異なる感情状態になることであろうと。この仮説は、私が大学時代の研究室の教授であり、現在雨男管理局、主席研究員の
当時の私には、ここまでの深い洞察を得ることは、技術的にもデータ数の観点からも不可能であった。私はただ単に、感情の変化が重要なのであると考えた。この仮説に基づき、狼男にとっての月のように、雨男と化す要素、感情の起伏を取り除くべく、私は孤独な戦いを始めたのである。繰り返しになるが、私は私自身を律することは造作ないことであった。それでもこの挑戦は困難を極めた。思春期を迎えようとする多感な頃である。世の中、思い通りにならないことだらけ。異性が気にならないといえば、嘘になる。テレビは連日笑いのツボに効果的な指圧を加えてくる。物欲とニキビは絶賛増加中。しかし、私は頂きを極めた。壮絶なトレーニングの果てに、ついに感情の振幅をほぼなくすことに成功したのである。
今、私自身振り返れば、気持ち悪い男である。
ともかく、雨男は封印され、近寄りがたい雰囲気をまとった、感情の変化がない美青年が出来上がったのである。
できれば、恥ずかしいので「美青年」と書いたことを気づかないでいただきたいところであるが、そうもいくまい。私は自らに厳しい人間である。事実を正しく伝えないわけにはいけない。
父母のおかげで、顔のつくりは人並み以上であった。身長は175㎝を少し超えたところで、日ごろの節制のおかげで、細身の体形であった。比較的体重重めの皆様には大変申し訳ないのだが、体脂肪率15%は七難を隠してくれるのである。細いフレームの眼鏡をかけ、春のうららかな光を浴び、世の中を見切ったような静かなる心を反映した面持ちで読書をする様は、多くの女子の良い目の保養となった。ただし誰も声をかけることはなかった。私の言葉は彼女たちの好意を容赦なく切る刃だった。多くの女子が討ち死にしたのち、美術品としての鑑賞が最も推奨される行為として、諸姉の間で広まったのであった。
私がナルシストと思う方もいるかと思うが、再三ご説明したように私は自分に厳しく、ゆえに嘘や誇張を嫌悪する。ゆえに私は極めて客観的に、そして、今年40を迎えるいい大人として、過去の私について極めて控えめにお伝えしている。
私の雨男能力の成長という仮説が正しいことが、不幸にも証明されてしまった出来事があった。
その時、私も15歳を迎え、高校受験に挑む年となっていた。ご説明した通り、知性の香り高い美青年であった私であるが、実のところ、知性は香り程度で、実際の学力はそこそこどまりであった。自分に厳しい性格であったため、テスト前の血の滲むような努力により、学校でのテストでは常に上位を保っていたが、校外模試ではかなりの苦戦を強いられていた。超一流高とまではいかなくとも、3流高に、親の体面上行くわけにもいかず、志望校への合格はかなり際どい状態がクリスマスを過ぎても続いていた。
否、親の体面は実際のところあまり重要ではなかった。例のごとく私自身の体面の問題である。過去のことを、親のせいにするとは、四十になってもまだまだ、己の未熟さを感じてしまう。
閑話休題。クリスマスを過ぎても、結果が見えないと流石に焦ってしまう。正月を過ぎると、私の仮面の顔は引きつり始め、3学期が始まる頃には黒いオーラが他人にも見えるようになってしまった。もはや感情のコントロールもままならなかった。そして、事件は起こった。30年ぶりの大雪が岡山の地を襲ったのである。
念の為に申し上げると、雨男は雨を降らせるものであるが、雪も降らすことができるのである。冬は、雨は夜更け過ぎには雪に変わるものである。
その日は最後の公開模試があった。岡山市郊外に住んでいた私は、市内の予備校に出向き受験した。そこそこの手応えはあったものの、試験は水物、焦燥感満載、疲労困憊で試験会場を出ようとした。その時、クラスのある女子に見つかってしまった。私としてはこんな姿を知り合いに見つけられたくはなかった。動揺した。俯き加減で、退出しようとした時、彼女が声をかけてきた。
「難しかったねぇ。」
曖昧にうなずき、同意を示す。
「最近調子悪そうだけど、大丈夫?」
調子が悪いとは言えない。
「そっかぁ、疲れているだけかぁ。よかった。私すごく心配しっちゃた。あ、ごめん。勝手に心配してごめんね。」
どういう展開だ?
「私同じ高校を目指しているんだよ。一緒に受かったらいいのにねぇ。あ、親が迎えにきているんだ。もういかなくちゃ。」
彼女は、少し名残惜しげに、ためらい、しかし、意を決し、別れの言葉を告げて、試験会場から去っていった。
私は不覚にも舞い上がってしまった。普段であれば、気持ちを抑えることができたはずである。しかし、もはや喜びを、興奮を抑えることができなかった。この喜びを世の中の人々に気づいて欲しかった。分け与えたかった。
残念なことに、岡山の地といえども、一月の夕方ともなれば、寒風が吹き抜ける桃太郎大通りを歩く人はまばらであった。そこで、駅に続く地下街、表町でこの幸せのお裾分けをすることにした。地下街は賑わっていた。私は群衆の中を闊歩した。通りという通りをくまなく、3周程幸せの寄附をおこなった。
私は気づいていなかった。勉強疲れとひとごみを歩き回ることがどれほどストレスレベルをあげてしまうかということを。この結果、アドレナリンとノルアドレナリンが絶妙にブレンドされてしまったのである。奴が発動してしまった。
正直、やってしまったと、帰りのバスの中で思っていた。しかし、私は高をくくっていた。数年前の私の雨男としての実力では、この晴れの要塞を突き崩すことはなかったからだ。
甘かった。私は雨男として着実な成長を果たしていたのである。
もともと、曇りがちな天気ではあったが、瞬く間に、雲が厚くなった。白いものがちらつき始め、自宅の最寄りのバス停に到着した時には、歩道にはうっすらと積雪が見られるようになっていた。私の心の動揺とは裏腹に、音が消えていった。最終のバスがチェーンを着け、通り過ぎていく音を遠くに聞いた。人の歩く音も途絶えた。夜更かしの姉も早々と床に就き、エコキュートの室外機の音のみがわずかに聞こえる。雪は夜通し降り続けた。
翌朝になっても断続的に雪がちらつき、大雪警報の発令により、その日の市内全域の小中学校は休校となってしまった。彼女との「またあしたね」という約束は守ることができなかったのは、極めて残念なことであった。更に、高校三年生の諸先輩方に置かれては、センター試験初日にもかかわらず、雪のため交通機関が大幅に乱れ、多大なる迷惑をおかけしたことを、今更ながらおわびもうしあげる次第である。
ちなみに、この文章を書くにあたり、
改めてこの日の事を研究所の端末で調べてみた。岡山市で10cmの記録的な大雪であったことが山陽新聞で報じられていた。そんなもんである。
さて、諸兄の方々に置いては、岡山に大雪をもたらした私の恋の結末に興味をお持ちかもしれない。結論を言えば、そのあと彼女と声を交わすことも無かった。高校も別々になってしまったため。、今では名前も顔も思い出せない。ところで、あれは恋だったのであろうか?極限状態に置かれた男女が思わず惹かれあってしまう吊り橋効果が見せた幻惑であったのではなかろうか?いや、これが恋であったかどうかは重要なことではない。
私の不徳により引き起こしてしまった災害、いや、人災を、私は深く反省した。座禅を組み、心を鎮めた。明鏡止水の境地に至るには数日の時を要したが、私は通常を取り戻した。そして慄いた。この岡山の地で、僅かひと時の心の動きが30年ぶりの災害を引き起こしてしまった。いくら己を律する能力に長けた私でも、様々なストレスや本能からくる僅かな機微を抑えることは困難である。もしここが岡山でなかったとすれば、どんな酷いことが生じていただろうか?この時私の人生の当面の目標が決定された。経済的理由等を考慮し、地元の岡山大学に入学し、岡山で就職する。就職は出張のない、事務的な仕事。県庁あたりが理想的な目標のように当時は感じたものである。この後の3年間の様々な出来事で、この目標が達成しなければならない、マストなものであるという確信へと変貌するのに事例を欠かないということは、読者の皆様なら容易いことと推察する次第である。
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