満月前夜
大河井あき
満月前夜
星々が眠り、翌夜には満ちる月が町を青白く照らす夜。アイリスは底がめくれた
門限の九時まではあと五分。間に合わないと、叔母にひどくぶたれたり蹴られたりしてしまうのです。服と呼ぶにはあまりにも粗末な、
アイリスと言う名前は彼女の両親が大切に育てていた花が由来でした。本当であれば惜しみなく愛情を注がれてすくすくと育つはずでしたが、アイリスがまだ字も書けないうちに両親ははやり病で亡くなりました。それで彼女は、
叔母はアイリスを
アイリスは夕食の匂いの
北から吹く風に歯をかちかちと鳴らして走っていると、道端に
彼は町はずれの館に住む青年で、名前をアスタといいました。南方の海を閉じ込めたような青い瞳と、刈り取ったばかりの稲穂の束のような
彼の目と髪は、大洋も麦畑も見たことが無いアイリスの足を止めてしまいました。彼女は急いでいたことも忘れて青年にくぎ付けになりました。
アスタは木製の
「こんな夜遅くに買い物かい?」
少女はびっくりして、頭を押さえて屈んでしまいました。
アイリスが顔を少しあげると、アスタが彼女をじっと見つめて返事を待っていました。彼女は
「おばさんに、頼まれたのです」
「そうなんだ。君はいい子だね」
アスタの言葉は温かさを持っていて、アイリスは頭を
「お兄さんは、ここで、何をしているのですか?」
アスタは質問に答えず、空を見上げて言いました。
「明日は満月。
アスタはランプを消すと、魔法使いが短い杖を扱うように絵筆の先をアイリスに向けました。アイリスは、自分たちの周りだけ木々がのけ反るように伸びていて、冷たくも明るい月光が差していることに気付きました。
「君には真白な肌がよく似合う。その赤い霜焼けも青い痣も塗り直してあげよう」
彼は瞳が
「そうだ、衣装も
彼は再び絵筆をふるいました。すると、襤褸の服はおとぎ話のお姫様が着る白いドレスに変わり、底が
アイリスは自分の身体を隈なく見回したり触ってみたり、くるりと回ってドレスの
「気に入ってくれたかい?」
アイリスは大きく二回も
「実はね、僕は人形作家なんだ。でも、自分の人形を持っていなくてね。人形作家が人形を持っていないなんて変だろう? だから、自分のために美しい人形を作ろうと思ったんだ」
「素敵ですね」
「だけど、どうも上手くいかなくてね。それで、外に出てみたんだ。満月前夜には願い事が叶うから」
アスタは満月前夜にまつわる様々なお話を聞かせてあげました。
「狼は人になり、蝋人形の体は永遠になって、落ち葉は尾ひれを手に入れた。そんな変化が起きるのは決まって満月前夜なんだ」
彼は一呼吸置いて、ビードロの純粋さを持った青く静かに燃える瞳をアイリスに向けて、手を差し伸べました。
「よかったら、僕と一緒にいてくれないかな」
これからも、ずっと。
アイリスはその申し出を受けたいと思いました。しかし、同時に怖いとも感じました。手を取ってしまえば、もう二度と後に戻れなくなるような気がしたからです。
彼女は目を閉じて、自分の心に耳を澄ませてみました。
もし本当に、願いが叶うのなら。
満月前夜に、願いが叶うというのなら。
私は、私の願いは――。
「ずっとずっといつまでも、私のことを愛してくれますか?」
「ああ、もちろんだ。もちろんだとも」
アイリスにははっきりと伝わりました。その言葉に、自分の両腕に収まらないほどの大きな愛情が込められていたことを。それは彼女が何よりも、何よりも欲しかったものでした。
アイリスはアスタと握手を交わし、頬にキスをしました。彼女が浮かべている笑顔は、過去に浮かべたどの表情よりも輝いていました。これからはその笑顔をずっと浮かべていられるという予感がして、
アスタは絵筆を振るいました。毛先がアイリスをくすぐるたびに彼女の体は少しずつ
小さなアイリスは、本当に幸せそうな笑顔をしているのでした。
翌日、町は行方不明となったアイリスの話題で持ち切りになっていました。ニワトリが甲高く鳴き始める朝に広がり始めて、フクロウの声が聞こえる夜にはもう町中の全員に行き届いていました。しかし、彼女が買い物に行ったきり戻ってきていないということのほかは誰にも、何も知られていません。
噂は町外れにある大きな館にまで届きました。しかし、館の主人はそれを意に介さず、作りかけの人形がいくつも床に転がっている工房の中でぶつぶつと白い息を吐いて熟考していました。そして、ようやく納得がいく場所を思いついたというようにいそいそと、大理石の
「ここがいい。ここにいる君が一番綺麗だ」
館の主人は
満月前夜 大河井あき @Sabikabuto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
なんでもBOX/大河井あき
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます