満月前夜

大河井あき

満月前夜

 星々が眠り、翌夜には満ちる月が町を青白く照らす夜。アイリスは底がめくれたくつをぺこぺこ鳴らして、霜焼しもやけの赤色をした足でレンガの道を大急ぎで走っていました。

 門限の九時まではあと五分。間に合わないと、叔母にひどくぶたれたり蹴られたりしてしまうのです。服と呼ぶにはあまりにも粗末な、襤褸ぼろ切れをい合わせただけの布の下には、いくつものあざが出来ていました。

 アイリスと言う名前は彼女の両親が大切に育てていた花が由来でした。本当であれば惜しみなく愛情を注がれてすくすくと育つはずでしたが、アイリスがまだ字も書けないうちに両親ははやり病で亡くなりました。それで彼女は、叔母おばの家に引き取られたのです。

 叔母はアイリスを奴隷どれいのように扱いました。学校へは通わさせずに身の世話をすべて任せて、彼女が疲れたというたびに頭をなぐり、痛いと泣くたびに腹をるのです。食べていいものは野菜の皮と芯だけで、寝ていい場所は裏口の玄関だけでした。逃げ出そうと思ったことは幾度もありましたが、みすぼらしい彼女を引き取ってくれる人がいないということは、冷ややかな目をいっぱい向けられてきた彼女が一番よく知っていました。

 アイリスは夕食の匂いの残滓ざんしが漂う通りを、ごろごろ鳴るお腹を押さえながら右に折れて、葉のない寂寥せきりょうとした並木道に入りました。そうしなくても街灯に沿って道なりに進めば家に着くのですが、この道は彼女の家への近道なのです。月明かりが不気味に照らす腕の曲がった木々や深い孤独を感じさせるフクロウの低い声よりも、鼻の突き出た顔を真っ赤にして怒鳴り散らす叔母のほうが恐ろしいので、アイリスはたとえ夜であってもここを帰り道にしているのです。

 北から吹く風に歯をかちかちと鳴らして走っていると、道端に橙色だいだいいろの明かりがぽつんと一つあるのが見えました。近づくにつれて、椅子に座っている男の人が見えてきました。彼女がこの道で夜に人を見たのは初めてです。

 彼は町はずれの館に住む青年で、名前をアスタといいました。南方の海を閉じ込めたような青い瞳と、刈り取ったばかりの稲穂の束のような黄金色こがねいろの長い髪を持っていました。

 彼の目と髪は、大洋も麦畑も見たことが無いアイリスの足を止めてしまいました。彼女は急いでいたことも忘れて青年にくぎ付けになりました。

 アスタは木製の丸椅子まるいすに腰かけていて、足元のランプが彼を照らしていました。枯葉色のセーターの上に着たエプロンは色とりどりの塗料で汚れていますが、手に持っている絵の具を使った跡が無い絵筆以外に画材はありません。

「こんな夜遅くに買い物かい?」

 少女はびっくりして、頭を押さえて屈んでしまいました。

 アイリスが顔を少しあげると、アスタが彼女をじっと見つめて返事を待っていました。彼女はのどを枯らしたウグイスのような声で返しました。

「おばさんに、頼まれたのです」

「そうなんだ。君はいい子だね」

 アスタの言葉は温かさを持っていて、アイリスは頭をでられたような心地さえしました。もう少しだけお話をしたいと思った彼女は、頭を押さえていた手を下ろして立ち上がり、彼に向き直りました。

「お兄さんは、ここで、何をしているのですか?」

 アスタは質問に答えず、空を見上げて言いました。

「明日は満月。今宵こよいは何が起きてもおかしくない」彼は続けて言いました。「欲しかったものが手に入るなんてこともあるだろうね」

 アスタはランプを消すと、魔法使いが短い杖を扱うように絵筆の先をアイリスに向けました。アイリスは、自分たちの周りだけ木々がのけ反るように伸びていて、冷たくも明るい月光が差していることに気付きました。

「君には真白な肌がよく似合う。その赤い霜焼けも青い痣も塗り直してあげよう」

 彼は瞳がとがるほどに集中して絵筆をふるいました。さらさらとした筆の毛が肌に触れるたびにくすぐったくなるのですが、驚いたことに、絵筆が通ったあとは痛みがすっと引いて、骨が浮き出ていた皮膚ひふの下にはふっくらとした肉が宿ったのです。やがて、アイリスの肌はただ一色、月夜に映える白色になりました。

「そうだ、衣装も相応ふさわしいものにしないと」

 彼は再び絵筆をふるいました。すると、襤褸の服はおとぎ話のお姫様が着る白いドレスに変わり、底ががれかけた靴はガラスのハイヒールになって、くしゃくしゃの銀髪はまっすぐに整ってつやまとい、氷の輝きを放つティアラが載りました。

 アイリスは自分の身体を隈なく見回したり触ってみたり、くるりと回ってドレスのすそをふわりと浮かせてみたりしました。

「気に入ってくれたかい?」

 アイリスは大きく二回もうなずきました。アスタもまた、彼女と同様に嬉しくなりました。

「実はね、僕は人形作家なんだ。でも、自分の人形を持っていなくてね。人形作家が人形を持っていないなんて変だろう? だから、自分のために美しい人形を作ろうと思ったんだ」

「素敵ですね」

「だけど、どうも上手くいかなくてね。それで、外に出てみたんだ。満月前夜には願い事が叶うから」

 アスタは満月前夜にまつわる様々なお話を聞かせてあげました。山麓さんろくに住む少女に恋して最後には結ばれたおおかみの話、太陽の下で暮らせるようになった生きた蝋人形ろうにんぎょうのお話、海を泳いで東洋の国に辿り着いた一枚の落ち葉のお話……。そのどれもがアイリスの心を打ちました。

「狼は人になり、蝋人形の体は永遠になって、落ち葉は尾ひれを手に入れた。そんな変化が起きるのは決まって満月前夜なんだ」

 彼は一呼吸置いて、ビードロの純粋さを持った青く静かに燃える瞳をアイリスに向けて、手を差し伸べました。

「よかったら、僕と一緒にいてくれないかな」

 これからも、ずっと。

 アイリスはその申し出を受けたいと思いました。しかし、同時に怖いとも感じました。手を取ってしまえば、もう二度と後に戻れなくなるような気がしたからです。

 彼女は目を閉じて、自分の心に耳を澄ませてみました。

 もし本当に、願いが叶うのなら。

 満月前夜に、願いが叶うというのなら。

 私は、私の願いは――。

「ずっとずっといつまでも、私のことを愛してくれますか?」

「ああ、もちろんだ。もちろんだとも」

 アイリスにははっきりと伝わりました。その言葉に、自分の両腕に収まらないほどの大きな愛情が込められていたことを。それは彼女が何よりも、何よりも欲しかったものでした。

 アイリスはアスタと握手を交わし、頬にキスをしました。彼女が浮かべている笑顔は、過去に浮かべたどの表情よりも輝いていました。これからはその笑顔をずっと浮かべていられるという予感がして、ほおを紅潮させました。アスタもまた、その笑顔に勝るものは無いと思いました。

 アスタは絵筆を振るいました。毛先がアイリスをくすぐるたびに彼女の体は少しずつちぢんでいきました。夜が明けると、彼女は草むらに住む妖精の大きさになって小揺こゆるぎもしなくなりました。

 小さなアイリスは、本当に幸せそうな笑顔をしているのでした。



 翌日、町は行方不明となったアイリスの話題で持ち切りになっていました。ニワトリが甲高く鳴き始める朝に広がり始めて、フクロウの声が聞こえる夜にはもう町中の全員に行き届いていました。しかし、彼女が買い物に行ったきり戻ってきていないということのほかは誰にも、何も知られていません。

 噂は町外れにある大きな館にまで届きました。しかし、館の主人はそれを意に介さず、作りかけの人形がいくつも床に転がっている工房の中でぶつぶつと白い息を吐いて熟考していました。そして、ようやく納得がいく場所を思いついたというようにいそいそと、大理石の窓台まどだいに人形を置きました。

「ここがいい。ここにいる君が一番綺麗だ」

 館の主人は恍惚こうこつとして見入り、溜息を一つきました。そして、窓から差す月光が人形の肌をなおいっそう白く輝かせるのに満足するのでした。

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満月前夜 大河井あき @Sabikabuto

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