第39話 魔女


「いやぁ、まさかここに逆戻りになるとはな……」


 巨大な木造の官舎に、嫌悪と忌避をごちゃまぜにしたような臭い。ぐしゃりと腕のねじ曲がった骨と肉の男に、形も定かではない腐敗したなにか。


「敵の本拠地とも知らず、安らかに眠っていたころが懐かしいな」

「俺は荒らしまわってたんだぜ?」

「そうだったか、もう忘れたわ」


 お前な……とエインは苦い顔をする。だが、その表情は確実に強張っていた。それはかくいう私もだろう。

 肌をピリピリと刺すような緊張感。地下深くから這いずってくるような負の波動――悪寒、泡立つ背筋。その中心にいるのは、リゼルダットに違いない。

 なんとおぞましく――そして私の脳を蕩かすのだろう。恐怖と酩酊の底に誘うかのような四大に、私は息を呑む。確かに、冗談でも言わなければ、この緊張をほぐすことはできなかった。


「……行くぞ」


 細く開いた扉から流れる猥雑な臭いと、嗜癖的な四大の匂い。血の高まりを押さえながら、私は地下扉の隙間に体を滑り込ませた。



 奇妙なガラスの造形に浮かぶ肉塊に、転がり刺激臭を放つ試薬。割れたガラス片に飛び散った液体。パイプがなぞる先の臓物溜まりの中身は、すっかり腐敗してしまっている。

 机に仰向けに倒れているキルヒェのカエルが、びくりと跳ねて醜く鳴いた。

 ガラス管。赤茶にくすんだ、巨大な砂時計のような壜の並び。パイプを伝って流れる熱蒸気。

 その中に、ひとつの声を聞いた。


「それでいいの……そう……」


 上品でありながら、強さを兼ね備えた、妖艶な声だ。


「……聞いたか?」


 問いに、エインは小さく頷く。声が聞こえてきたのは一番奥だ。そこに奴はいるに違いない。

 息を押し殺し、奥へと向かう。

 息の詰まったような声を聞いて、私は振り返った。エインだ。

 どうした? そう問う前に私は理解した。そして、同じく声にならない声を上げ、それから即座に目を逸らした。

 並ぶ壜。それは赤茶にくすんでいるのではない。赤茶の塊と液体を混ぜたゼリィが、壜すべてにびっしりと詰まっているのだ。そこには、人体の構造を留めたものも押し込められている。その中の異様に艶めいた灰の瞳を見つけて、私は吐きそうになったのだ。歴史館で見た肖像画。その中のラフェールの瞳の色は確か――。

 先を急ごうとでも言うように、エインが私の背を押した。私は頷き、また歩みを進める。


「あぁ……ラフェール……」


 声は確かに近づいている。最奥には、天井まで届く程の巨大な壜がそびえ立っていた。中はこれまでのものとは違い、比較的綺麗な水で満たされているようだった。だが、表面のくすみのせいで、近づかなければ中はよく見えない。


「愛しいラフェール……」


 声はすぐそこだ。顎をしゃくって示すと、右腕に炎を燻らせてエインは壜の裏側を覗く。


「誰もいねぇのか……?」


 疑問を孕んだエインの声に、私も後ろを覗く。が、やはりそこには誰もいない。おかしな装置にレバーが組み合わさったようなからくりがあるだけだ。


「奴はどこに……?」


 確かに声はしていた。この場所からのように聞こえたのだ。首をかしげて、私は何気なく壜の中を覗いた。

 ただの、水だ。中は縦に仕切りがあるようで、片方に水、片方が空洞となっている。のちに側面のパイプから両面に水が入るようになっていると思われるが、それがなんのためなのかは分からない。ただ扉のようなものがあるため、なにかが入るようになっているのだろう。

 ”なにか”そこに大きな引っ掛かりを感じた。そして、ふと、私は疑問に思う。

 ――リゼルダットは、ここで何をしていたのだ?

 ラフェールを創るため? いや、違う。あの日、初めてこの目で虚無を見た日、老婆は言っていた。「完全体を創ることは叶わなかった」と。彼女には創れないのだ。だから私を探した。ラフェールと同じ素質を持つ私を。

 それで、どうするというのだ?


「私を捕らえ、どうラフェールにするというのだ……」


 零れた疑問に、エインが訝しむようにこちらを見る。



「――かわいそうな、エルヴィア」



 生暖かな吐息を感じて飛びのこうとする。その間もなく、私の体は蹴飛ばされた。全身に走る衝撃、がたりとからくりが作動する音。

 そして、上から降り注いでくる水――。

 壜の中だ。そう気づいた時には、私の体はもう痺れ始めていた。これはただの水ではない。生暖かいそれはまるで……羊水だ。

 これが生みなおしのからくりだとでも言うのか。水はもうすでに胸元まで溜まっていた。体が重く、私の意識から手放されていくようだ。そのガラスの先で、真っ白なドレスに身を包んだリゼルダットが愛しげな眼を向けている。


「ラフェール……ふふっ、もうすぐ会えるのよ……」


 恍惚とした表情で紡がれる言葉は、ぼんやりした意識になぜかとても鮮明に響いた。

 リゼルダットが慈しむようにガラスを撫でる。私の意識は、そのまま深く――。


「――エルっ!!」


 いつも私を激励してくれる、勇壮な声が脳を揺らして意識が覚醒する。瞬間、私が見たのは、粉々に砕けたガラスと、顔を背けるリゼルダットの姿だった。


「大丈夫かエルっ!」


 そのままガラスや水と共に倒れ込んだ私はエインに抱き起される。咳と共に吐き出された水が、外気に触れた途端赤茶けて汚れていくのが見えた。エインに抱えられるように後退し、顔を押さえて呻くリゼルダットを睨む。怯んでいる。今がチャンスだ。私は痺れた舌で呪いを紡ぎだす。


 ――Chalter noite lune fogind ce decht.――


 私の神詞によって具現化された青藍の巨大な塊はまっすぐリゼルダットのもとへ飛んでいき、衝突した。燃え盛る火柱が、無機質な天井を焦がす。


「やったの――」


 エインの呟きは、女の咆哮によってかき消された。

 ぶわりと歪む波動。蒼々とした炎の中、揺らめくもう一つの、どす黒い炎。

 リゼルダットは炎を避けるように、いや、炎が彼女を避けるように取り巻いていた。長いドレスは炎を纏い、片膝を覗かせる。乱れた長髪から覗く苦痛に歪んだ顔。右目を押さえる腕から零れる血は、純白のドレスに赤の刺繍を刻む。


「なぜなの……っ」


 わなわなと震えた声。右目を押さえた手は、なにかを握るかのように拳を作る。


「エル、逃げたほうが――」


 またも、エインの呟きは女の咆哮にかき消されてしまった。まるで獣のように甲高く叫んだリゼルダットは、手を思いっきり瞳から遠ざけた。瞬間、彼女の瞳からぬたりと赤が零れた。ふらりふらりとおぼつかない足取りのリゼは、目を押さえ、呻くように叫ぶ。


「なんで……なんで私の邪魔をするのよっ!!」


 血に濡れたガラスは地に砕け散る。ぬめり、奇妙な光沢を映す赤に濡れた瞳には、憎しみと怒りと、そして一片の悲哀とがあった。

 炎にぎらつく目。獣のように、自制を失った瞳。

 彼女の血に濡れていない片目が、ぎらりと赤を纏ったとき。


「おい逃げるぞ!」


 私はエインに引かれるように駆け出していた。血の高ぶり、心地よい酩酊と、微かな痛み。背後で四大が沸き立つのを、その身をもって感じた。肌を刺す電磁波のようにびりびりとした刺激を振り払い、壜の群れを避け進む。


「逃がさないわ」


 静かに、声が、近づく。

 がたんと、からくりの作動する音を聞いた。


「うわぁ……」


 エインの間の抜けたような呆然のため息を聞いたとき。

 ――ガラスと共に、空から赤黒いものが降ってきた。

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