第40話 抗争

 それは赤黒い津波であった。

 砕け散った壜は中身を伴って弾けた。密閉されて赤々としていた肉塊も、酸素に触れて黒を示す。臓物の波は悪臭と共に迫りくる。


「ぼーっとしてんじゃねぇ!」


 エインの声に弾かれたように私は駆け出していた。ガラスがつぶされる音、からくりが無残にも砕かれていく音。それらは確実に近づいている。扉もまた、然りだ。重たい鉄扉は、もうすぐそこにはあった。


「エイン!」


 彼が黒炎の手を扉に伸ばす。

 首筋に、生温かいなにかが触れた。


「――エル!」


 硬く目を閉じ、エインと同時に黒炎の中にとび込む。そして階段を駆け上がり、そのまま倒れ込んだ。

 汗を拭い、呼吸荒く振り返る。

 ぴちゃりと、液体が顔にかかった。

 足元には、薄灰の瞳がひとつ。

 臓物の波は、これで引いていった。


「はぁ、はぁ……っ」


 階段の下には、もう鉄扉は存在していなかった。エインが虚無に帰したのだ。もう少し遅れていたら。熱い息を吐きだして、ただ茫然と見つめる。口の端を伝ってなにかの液体が入ってきて、そこで私は初めて気持ち悪いという感覚を思い出した。ぬめぬめとまとわりつく感覚。ぬらぬらとした光沢を放ち、脈打つように動き迫る、まるで生きているようなそれ。そして、最後に見た瞳――私は吐いた。腹にはなにも入っていない。赤茶けた汚水が肉塊に混ざり合って悪臭を放つ。痺れも相まって、体は限界を迎えているようだった。

 がたがたと、官舎が揺れている。


「エル、時間がない」


 差し出された手を握り返す。疲れたからと言って、やめていいものではないのだ。

 私たちの、復讐のために。


「……あぁ、終わらせよう」


 階段を駆け上がると、奇妙な虚無のオブジェクトに膝をつく女の姿があった。

 黒檀のまっすぐな長髪。まるで生気を感じない、少し火傷を負った、まるで作り物のような肌。真っ赤なルージュに、ところどころ破れた純白のドレスを纏った女だ。まるで、なにかを祝うような出で立ちで、彼女は嘆き悲しんでいる。

 どうやって彼女が私たちよりも早く地上に着いたのかはわからない。そもそもこの場にいる者たちに常識を問うこと自体誤りなのだろう。常識とは、本来人間に問うべきものなのだから。

 エインに目配せをする。四大はすでに満ちている。構築とは言葉。リゼルダットの背に神経を研ぎ澄ます。


「 Ce floome――」

「Dif teer」


 私の神詞を裂くような、鋭利な神詞。ふと肌を撫でた悪寒に身をよじる。

 頬を撫でた、一瞬の風。

 煌めく真っ赤な二つの光。

 そして、激痛。


「ぐぁ……っ」


 頬を押さえ、呻く。なにが起きた? 触れる。確かめる。ない。髪が一房と、濡れたような感覚が。ただ、細く、長く、溝のような傷があるだけで――。


「次は、ないわ」


 リゼルダットの口から紡がれた神詞は短く、深く、鋭い。息を吐くように紡がれる神詞の羅列。具現される虚無。空間が歪む。虚無が全てを帰し、光なき闇を固めたような剣が迫りくる――。


「おい!」


 不意に飛び出した黒炎が黒刀を薙いだ。無は無へと帰し、何物でもなくなり爆ぜる。そしてそのまま、私を殴り飛ばした。


「痛むんならこれで忘れろ!」


 爆風の先に黒炎をかざし、彼は私に吠える。

 ……ずいぶん応えた。重くのしかかる、鉛玉のような拳だった。

 私は腹を押さえ、ふらふらと立ち上がる。


「援護は頼むぞ。後は作戦通りだ」

「りょーかい」

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