第37話 追憶D
「……エルヴィア王子とエイン様が、脱走しました……」
そう報告してきたコルニの姿は、ひどくボロボロであった。汗ばんだ体に、ところどころ破れた服。手で押さえつける上腕に滲んだ赤が痛々しい。決して合わない視線で震え交じりに紡がれる声は、逆に私を落ち着かせた。
脱走した。その一言を理解しかみ砕くのに、数秒もかからなかった。
外れた足枷、手枷。壊れた木戸に、散乱する木屑。相当抵抗したのだろうか、コルニの傷もそれによるものかもしれないと素直に考えて捨てた。
「追っ手を向かわせましょう」
「いいえ、構わないわ。いずれ彼は私を殺しに来るはずよ。死したる世界で残る生命は、きっと私たちのみですもの」
蛆虫のように湧いていた人間も、今ではもう残り少ない。エルヴィアもエインも、その安息を求めて残りの民も狩り尽くすだろう。無論、それに私も含まれている。
盲目的な従者を黙らせ、それより、と私はコルニを抱き寄せた。
「り、りぜ……りぜる、さま……っ!?」
「さぞかし痛かったでしょう?」
驚きにか、はたまた別のなにかからか。腕の中で強張る、その華奢で痛々しい体を癒すかのように何度も撫でて、私は彼の耳元に口を寄せた。
小さかったコルニ。従順だったコルニ。
そして、耳朶を噛むように囁く。
「自分で体を傷つけるのは」
――今は亡き、素直なリーオンの息子。
逃れようと身をよじったコルニは、なんとも非力だった。わざとらしい切り傷の残る頬を舐め、耳を舌先で絡めとって囁く。
「ねぇ、知ってる? あなた、いつも嘘をつく時、絶対に私の顔を見ないのよ? それに、不安だからかしら、声がぶるぶる震えちゃうの。そう……今みたいにね」
腕を伝ってコルニの振動が私にもやって来る。怯えだ。まるで震えた小鹿のようだと、私は首筋に舌を這わせた。その度に、彼の体はびくりと跳ね上がる。
「ねぇ、どうして嘘なんてついたの? ねぇ、私のどこが不満? あなたはラフェールが甦ることを望んではいないの? ねぇ……」
無理に脱出を図ったにしては、枷の形が綺麗すぎた。さらに、保管庫からは彼らの荷物が消えてしまっていた。それができたのは、荷物を保管しており、なおかつ食事を渡しに行ったコルニのみだ。無論、彼らの鍵を持っているのもコルニのみである。
私たちの息子だと、かわいい研究熱心な後輩だと思い、かわいがっていた。ただ一人、信用していた人間だったのだ。だから鍵を任せた。食事提供を任せた。
――だが、その信頼を、コルニは一息に握りつぶしたのだ。
すっかり委縮してしまったからか、コルニは震えたまま動こうとはしなかった。抵抗の意思はなく、ただの一度も目を合わせることはない。耳元で熱く荒い呼吸が囁きかけ、触れ合った胸と胸に彼の鼓動が伝わった。
私は彼の背筋をなぞった。温もりをもって愛でるように。彼の心をいなすように。
「えぇ、子どもはいずれ、巣から飛び立つものよ……」
親のもとから巣立たぬ鳥はいない。子どもとはそういうものだ。いつか親の寵愛を跳ねのけ、そのまま振り返ることなく飛び去ってしまう。あぁ、それならば――。
「――ならば、さぁ、お逝きなさい」
――Folgen.――
歌い上げた神詞。それはコルニへの葬送曲。
コルニの影がぐわりと揺れた。刹那、それは羽虫のように羽ばたき、コルニにまとわりついていった。張りついた羽虫が騒がしく蠢くたびに、コルニの体は溶けていく。やがてコルニを喰いつくすと、羽虫は私の腕から飛び立っていった。そして月影に溶けてゆく――。
まだ肌には、コルニのぬくもりが残っていた。
最後まで、コルニは無抵抗であった。私の腕の中で、その体を小さく震わせながら逝った。最期の最期、羽虫が飲み込んだコルニのあの薄茶の瞳は、なにを語ろうとしていたのだろう。後悔か? いや――哀れみ? まぁ、なんであって構わない。大切なのは、私を裏切ったという事実だけだ。
数人の息を呑む音が聞こえる。恐れを抱いたような視線が突き刺さる。
私は振り返り、篤き従者たちに首を傾げた。
「……ねぇ、あなたたちもそうなんでしょう?」
――。
――――。
その後のことは、あまり記憶に残っていなかった。
気が付くとそこには誰もおらず、私はぼんやりと座り込んでいた。腕には自傷の痕が這っている。流れる血は地に弾け、濃密な四大を吐き出す。濃霧のように満ちた四大に、私はことの全てを理解した。そして、笑う。
「……独りがお似合いよ」
ぽつりと黒のドレスに滲んだ染み。それはどんどん大きくなっていき、頬を濡らしていった。
私……泣いている?
目元を拭っても、涙ははらはらと零れ出るばかり。治まるどころか、むしろその想いを認識した途端、あふれ出て止まらなかった。
悲しい? そんなわけない。裏切り者を殺した、ただそれだけだ。なにが悲しいというの? コルニは家族でもないし仲間でもない。そうよ、ただの裏切り者。私は独りで構わない。独りがお似合いなのだから……。
――そんなことないさ。
ふと、耳元で囁かれたのは、愛おしい人の声だ。
――君は独りじゃない。独りにはさせない。だから、だから早く僕を……。
「……そうね」
小さく答えて、私は立ち上がった。
私は独りにはならない。私は独りではない。
「私には、あなたがいるもの」
あなたがいれば他に何もいらないのだから。
私は血と四大の香りが入り交じる廃屋へと足を踏み入れた。官舎を模した、ラフェールの研究所のひとつ。我々の隠れ家だ。
まるで獣でも放たれたかのような廊下に、五つ輪っかのオブジェクト。奥の扉を抜け、階段を下りてゆく。しゅごーしゅごーと、蒸気の音が耳をついて離れない。ピストンが激しく打つような音に、濃くなっていく四大。立ちこめる不道徳的な香り。
進んでいくと、扉が見えた。開くとそこには、ひときわ大きなフラスコが一つと、それよりも小ぶりなフラスコが二つ。パイプを通る蒸気が騒ぎ立てる。機械仕掛けのふいごが唸り、液体が色めいてはフラスコ内を行き来した。私は足元のレバーを倒し、コックを捻った。
「始まりに四大……」
からくりが回り、四大がフラスコに注がれる。水とも異なる粘着質な液体に注がれた四大は、確かに存在はしているが姿は確かではない。点々と、開かれたコックから赤黒い液体が流れては溶けていく。
あの人は私を認めてくれた。才があると、そして共に高め合えると。
「次に神詞……」
詞を歌い上げると、そこにはなかったはずの形が生み出され始めた。蠢く四大の塊に、私はラフェールを歌い上げる。
いずれ創り出せると、だから諦めるなと、あの人は私に言ってくれたから。
私は梯子を渡り、フラスコの縁に座った。
「終いには――虚無を」
そして、一息にナイフで喉を裂いた。一気に噴き出した血に液体は真っ赤に染まる。
人と人を繋げるように、また、四大と四大を繋げるのも愛であるならば。
私は虚無に、あなたへの愛を捧げましょう。
視界が揺れて、心音が耳音で鳴り響いた。痛い? 苦しい? 否、そこにあるのは彼への愛情のみである。
フラスコの底で蠢く愛しい人の面影に、私は微笑んだ。
そして、視界を黒が侵食していく――。
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