第34話 謝罪

 がたんという衝撃が世界を揺らし、私は目を覚ました。

 そこは、なにも見えないほどの闇だった。私の手には鎖、背には、おそらく鎖が結ばれた先であろう、壁を感じる。細かな揺れと、耳につく規則的などっしりとした音。なるほどここは馬車の荷台であるようだ。どれだけ拘束されていたのか分からないが、全身の痛みから察するに数分の出来事というわけではあるまい。


「クソったれが……」


 呟いただけで、心拍が上昇するのを感じた。荒い息が零れる。なにもしたくない。そう思えるほどに、体がだるい、重い。じゃらりと音を立てる耳障りな音が、憎くて仕方なかった。この鎖さえなければ、とっとと脱出できたというのに。

 やはり、虚無には何物も敵わないのだ。

 たとえそれが、戦場を蒼に彩る神であったとしても。

 夢か現か、確証が持てないほどの闇に大きく舌を打つ。

 ――その時。声が聞こえてきたのだ。


「そうカリカリしてんじゃねぇよ……まぁ、無理もないだろうがよ」


 暗闇に響く雑音。老いか若いか、判別できないような掠れた声に、私は思わず声の方向を見る。

 ――だが、そこにはなにも見えない。ただの闇が広がっているだけである。

 それでも、私はそこに見えないものの面影を感じ、右へ視線を投げた。


「……エイン、いるのか?」


 私が今もっとも会いたく、それゆえに決して会いたくもない面影は、あぁ、と小さく返事した。そうしてため息をつくと、金擦れの重い音を立てながら笑った。


「どうやら、ここは四大を通さないらしい……おかげで、俺もただの木偶の棒さ」


 四大を通さないということは、ここは四大が存在しないということ。息苦しいのは、ただ鎖のせいというわけではなかったのだ。檻自体が、虚無であるのだろう。惹きつけるような黒炎の気配がなかったのも、その黒炎自体がなかったからか。

 はっと、乾いた息が私の耳に届く。


「……もっとも、もともと木偶みたいなもんだったんだけどさ」


 ――欠けた四肢。痩せた体躯。使い物にならないと揶揄された青年。

 そんなことない。そう言えなかったのは、この鎖だけのせいではあるまい。

 陰鬱とした闇が体にまとわりつく。不気味な沈黙の重圧がのしかかり、体は自然と空気を求めるように喘いでいた。


「……その、」


 なにか言わなければ。この空気を打ち破りたいがためだけに零れた声は、長くは続かなかった。代わりに、というわけでもないだろうが、私の言葉に続いたのはエインだ。


「……その、ありがとな」


 いわれのない感謝に目を見張り、私はエインの方を見る。無論、濃い闇は彼の姿を映さない。――なぜか、私はその闇にうっすらと不穏な笑みを浮かべるエインが見えたような気がした。


「なにがだ?」


 聞きたくはなかった。そんな思いとは裏腹に、私の口は声を紡いでいた。嫌な汗が滲む。耳に届く自虐的な空笑いに、私は震えながら紡がれる声を聞いた。


「俺の、クソみてえに空虚な復讐に手伝ってくれてさ」


 私は思わず目を逸らした。見えないはずのものが恐ろしくて堪らなかったのだ。だが彼がいない視界の先でも、彼は笑っていた。少し寂しげな、空虚で、魂の抜けきったような空っぽの笑顔を浮かべているのだ。

 契約、覚えてるか? とエインが尋ねてきた。もちろん、覚えている。忘れたことなど一度もない。頷くこともできない私などさておいて、彼は続ける。



「それぞれの復讐が終わればさよなら、なはずだったんだけどな。……もう少し、別れは先になりそうだな」


 ははっと、力なき乾いた笑い声が馬車に響いた。

 いつもなら軽く笑えた冗談も、今の私には笑えなかった。彼の空笑いが、今の私に深々と突き刺さったのだ。その声には彼の愉しさをひとつも存在しない。あるのは、ただの悲哀。そして、孤独。

 俺は人じゃない。皆と違う。同じにはなれない。バケモノなんだ。

 幻想のエインが口角を上げ、自虐的に笑む。その奥には、自分の胸を抉るように爪を突き立てる姿が隠れているような気がした。だが、彼の体が傷つくことはない。誰がなにをしようと、彼の体は砕けない。そればかりか、彼自身が誰かを傷つける。ひどい証明だ。彼は生を感じ、生によって人を殺める。バケモノであるという証明は、彼自身を傷つけるのだ。彼の、その奥を。

 私は知っていた。彼は人ではないと。知りながら蓋をした。彼を傷つけたくないから、ではない。彼が傷つくのを見て、私が傷つくのを恐れたためだ。

 そんな私に、彼に許しを乞う資格も、彼を慰める資格もない。

 だから、と私は彼の方を向いた。


「ひとつだけ、最後のわがままを聞いてはくれないだろうか」


 エインは訝しむこともしなかった。なんだ、と問われる言葉に、私は見えない彼を見つめる。


「もし、ここから出られたなら、私を殴ってほしい」

「……へ?」


 返ってきたのは了解でも拒否でもない。えらく素っ頓狂な声だった。見えなくても、彼の口をだらしなく開いたような間抜け面が想像できる。

 私は、未だ紡がれざる彼の言葉を待たず、続けた。


「……私は、貴公を騙してきた。貴公の姿が人ならざるものだと知りながら、貴公が為したその姿となったわけに疑問を抱きながら、それらに蓋をしたのだ。それも、貴公を傷つけたくなかったためではない。私が傷つきたくなかったからだ」

「でもそれは――」

「リゼルダットのでたらめ、というわけではない。……奴の言うとおりだ。貴公が傷つくのが怖かった。それに……そのせいで復讐が為せなかったら、という心配もあったのだ。……ひどいものだ。恨んでくれ。だから……だから、そんな私に、微笑むのはもうよしてくれ……!」


 私のしたことは、決して彼が許しても私が許さない。だからせめて、せめて私を殴り飛ばしてほしい。怒鳴り散らしてほしい。罵倒を浴びせかけ、いや、いっそ首を絞めて殺してほしい。


「……そっか」


 私の悲痛な思いは届いたのか。エインは小さく呟くと、


「やだね」


 そう、子どもみたいに言い放った。


「な、なにを……」

「そんな顔すんなよ。そんなに衝撃的か?」


 軽口を叩いて笑うエインに私は目を見張った。きっと私の顔は豆鉄砲を食らったようであったのだろう。ははとひとしきり笑った後、彼はあのさ、と口を開いた。


「恨まれて、憎まれて、嫌われて……それで俺がどうなんだよ。あ? 気持ちが楽になれるってんなら、俺はとんでもねぇサイコ野郎だろうが。……わかる? 謝罪するのも、嫌われようとするのも、それは所詮はお前自身が楽になるための手段でしかない。

 ……お前は、逃げようとしてんだよ」

「……逃げる?」

「傷つけた相手が目の前にいる。なら、楽になれる方法はひとつだ。自分も同じ傷を負う。傷は対等だ。なら、さほど気に病まなく済む。俺もやったけど、アイツもやったってな。つまり、それは罪からの逃亡だ」


 ――罪からの、逃亡。

 ……そうか。私は頷く。そうだ、これは甘えだ。

 私は楽になろうとしていた。私はエインに嫌われることを望み、そして殺されることを願った。死は救済だ。この世の全てを手放すことができるから。

 ……私は、エインを楽にさせるつもりで、自分が楽になろうとしていたのか。


「そんな悲しい顔すんなよ。別に、俺はお前を非難してるわけじゃない。……実を言えばさ、俺、少し嬉しかったんだ」


 嬉しい? エインの言葉に、私の顔はまた酷くなっていたのだろう。彼は声を上げて笑ったのち、照れくさそうに言葉を濁しながら言った。


「……こういうと、俺、変態みたいになるんだけどさ。俺、嬉しかったんだ。俺が傷つくとエルも傷つく。だから黙っておいた。それって、お前の中で俺の存在が大きくなったってことだよな。……愛されてるって、思えたんだ」


 違う、それはただの都合のいい解釈だ。悲劇を和らげるための一時的な思い込みに過ぎない。

 そう言うと、彼は小さく笑って、違うよ、と答えた。


「お前がモントシュタイルの街で、どこまで聞いたのかは分からない。でも、そこに偽りはないよ。……確かに俺は出来損ないで、使い物にならない木偶だった。道徳に反して生まれたんだ、虚弱体質に欠けた体。両親のぬくもりも、誰かから愛されたこともないだから、」


 早口に一息で紡ぎだしたエインはそこで一旦切った。繰り返される浅い呼吸ののち、ほうっと笑いに似た声が聞こえてくる。


「……嬉しかった。愛されてるって、初めて実感できて」


 もう、なにも言い返すことはできなかった。

 嘘だといってほしかった。あの燕尾服の男が言っていただけの、戯言だと信じていたかった。だって、こんな話……悲しすぎる。

 だが、歓喜にか震えさせた声は、紡がれた嬉しいの一言だけは、どうか真であってほしい。


「利用されてる? そんなの、初めから分かりきってんだよ。だって、もともとそのつもりじゃないか。俺たちは復讐のために互いを利用する。俺にとっても、お前は復讐のための道具だった」


 だけど、とエインは一拍置く。見えるはずもないのに、闇の中で彼の赤目が優しく細められたような気がした。


「変わった。その過程で、俺はエルのことを、本当に仲間だと思ったんだ」

「仲間……?」

「なんだ、疑ってんのか?」


 いじらしく訊き返すエインに、私は口を閉ざした。疑うもなにもない。彼のその柔らかな声音は、見えなくとも見えた穏やかな笑みは、紛れもなく本物だ。そこに嘘は潜んでいない。

 ――私は、仲間。


「殴れってんなら、あぁ、一思いに殴ってやるよ。でもその後、すぐ起こしてやる。治療だってしてやる。この復讐が終わるその時まで、俺はお前を勝手に逝かせはしない」

「それはつまり――」


 紡ごうとしたとき、突然馬車が止まった。慣性に背を打ち付け、鎖がじゃらりと鳴る。私たちの呻きと同時に、正面から一筋の光が差した。広がり行く光に目を細め、私は身構える。

 そこに立っていたのは、逆光のせいでよくわからないが、人影のように見えた。誰だ、低く尋ねたエインに、人影は光を閉ざす。また、がたりと馬車が動き始めた。

 しゅっというなにかが擦れたような音がしたかと思うと、炎の揺らぎが目の前に現れた。真っ赤な炎はぼんやりと人影の輪郭を映し出す。


「……お目覚めでしたか」


 その声はとても若い。それに――男だ。リゼルダットではない。

 男はそう呟くと、私のもとに歩み寄ってきた。


「おい、テメェなにする気だよ!」


 怒鳴り、鎖をじゃらじゃらと鳴らすエインに、強張る顔で男を見つめる私。

 男は特に意に介す様子もなく、私に手を伸ばし――。


「逃げてください」


 かちり、となにかが外れる音。軽くなる腕に、ことりと静かになにかを置く音。気怠かった体に血が滾る感覚が甦る。

 ――枷が、外れた?

 なぜ? 困惑しているのはエインも同じだ。顔を見合わせる私に、男はもう片方の鎖も外して、懇願するように告げた。


「お願いします、逃げてください」

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