第33話 リゼルダット

 燭台の揺れる炎が石段を照らす。甲高い音は、螺旋階段を上って反響する。

 オルド大火塔はもともと、大罪人の魂の牢獄として建設された。魂はキルヒェという儀式さえ行えば、輪廻し転生し続ける。その輪廻の輪を断ち切る――必ずキルヒェが行われないようにするために、消えることもなく決して誰かの手に渡ることもない神の業火の中に投じたのだ。そもそも、放っておけば魂は自然消滅する。だが、ふらりと浮かび続ける魂は、誰かの手によってキルヒェが行われないとは限らない。それを封じるためのオルド大火塔だ。

 あのラフェールとかいう男は、研究所の奴らの話を信じるならばだが、大罪者としてその魂を封印すべき人間だ。危険視された思想と、それに同調する敬虔な信者たち。その魂は、悠久の時の中をオルド大火塔に閉じ込められているはずだ。

 そして奴らは――いや、奴、リゼルダットというべきか。彼女は今、愛する者を蘇らせようとしている。エインの、そのなにをも無に帰す虚無の体を利用して。

 そのために、彼女はエインをここに向かわせ、これまで生かしておいた――。


「――――っ!!」


 螺旋階段の壁を反響して上から降ってきたのは、絶叫にも似た叫び声だった。意味もなく空を仰ぎ、舌を打つ。誰の声かは分かりきっている。どうだっていい。問題は、事前か、はたまた事後かということだ。


「エイン!!」


 狭い螺旋階段をぐるぐると回り、辿り着いたのは大広間。見えた大きな鉄扉は少し隙間が空いていて、そこから活火山のような炎が噴き出している。

 その扉に背を向け、膝をつく黒鋼の姿があった。声に振り返ったエインは、肩を上下させながら、深く浅い息を何度も繰り返してこちらを見た。その顔に、私は息を呑んだ。

 黒鋼と黒糸に覆われたエインの顔。そこに唯一残された人である部分が、赤く、ひずんでいたのだ。血よりも濃く、その割に生き生きとしている。片目は焼け爛れ、その瞳の赤は色彩を無くし、白に染まっていた。……まるで炎に身を投じたが如く、酷く爛れていた。


「……わかっただろう」


 エインはまったく反応しない。伏せられた瞳の先には、真っ白な鉱石のようなものが握られていた。透けて見える鉱石の中では、黒と赤の稲妻のようなものが脈打つように動いていた。それは、私の目には彼を救う神の光というより、それこそ禍々しい、どこか呪いめいた憎の炎に見えた。


「……帰ろう、エイン」


 私は手を差し伸べた。


「貴公の姿が人でなくても、貴公は貴公だ。心は人間だ。……少なくとも、力に溺れた私よりは、貴公は人としてできている」


 それは彼に対する慰めでもなければ、その場しのぎの詭弁でもない。私の、心からの想いだった。エインは人間だ。人の姿を借りただけのバケモノに比べれば、彼の心はそれこそ人間らしい。外見などどうだってよい。彼は立派な、れっきとした人間なのだから。

 だから、と私は微笑んだ。


「帰ろ――」

「どこへ?」


 私の言葉を遮って紡がれた疑問に、私は口を閉ざした。

 ――彼の、帰る場所?


「それは、もちろん――」

「万物を跡形もなく消せる力を持った異形だ、受け入れてくれるところが、人が、いや、一人でも構わない、安息に暮らせる場所なんて、どこにあるんだ?」


 顔を上げて立ち上がったエインは首を傾げた。そのまま、私に近づいてくる。


「どこにあるんだよ、なぁ、教えてくれよ、なぁ……!」

「……っ!」


 私は思わず後ずさった。ならないと思っていたが、反射的に身構えていた。恐ろしい。怖い。その、寄り縋るような瞳が、その、異常に卑屈な声が、いや、私は――。


「……あぁ」


 小さく声を漏らしたエインには、感傷的な色があったように思えた。憐れみを誘うように顔を歪ませる。しまった、と私は思った。だが、思ったでは遅かったのだ。エインは小さく、寂しげにふっと笑うと、私の背をぐっと掴んで自らに引き寄せた。そして、鼻先がこすれ合うほどに顔を近づけると、嗄れた声で囁くように言った。


「お前も、俺が怖いんだろ……?」


 絞り出されたのは、蚊の鳴くようにか細い声だ。それをすぐにでも否定していれば、また変わったのだろう。だが、私は何も言えなかった。完全に委縮してしまっていたのだ。まるで声を奪われたかのように。

 エインは少し寂しげに眉を垂らすと、私を解放した。自虐的な笑みが彼の口元に浮かぶ。


「……ずっと、帰る場所だって思ってきた。そんな奴にまで、怖いって言われんだぜ? ……そんなんで、俺はどこに行けるってんだよ」

「……ぇ」


 胸を切なさに鷲掴みにされたような衝撃が走った。思考が真っ白になり、恐れも忘れてエインを見つめる。

 エインは鉱石を真っ白の瞳に映し、握りしめた。


「……でも、これさえあれば変われる。エルの言うこともそうだと思ってるんだぜ? こんなモンで俺の体がどうにかなるとは思わねぇ。けどよ、どれだけ望みが薄くても、縋るしかないじゃんか……!」


 最後の方はほとんど涙声で聞こえなかった。嗚咽を漏らしながら丸められた背がひどく小さく見えて、私は思わず胸を押さえた。その、孤影悄然とした姿は、ついさっき空いた穴を埋めるように鉱石を抱いている。

 ……私の中に、もう先程まで抱いていた恐れは消え失せていた。

 ただ、後悔と自責の念だけが、私の中で渦巻いていた。

 だから私は、エイン、と声を飛ばした。彼が私を嫌いであるというなら、失望したというのなら、私はそれで構わない。だが、それでも最後に、伝えたいことがあった。


「……確かに、私は貴公が怖い。だがそれは、貴公の姿が異形であるから、ではない。人であることに固執するが故、だ」


 エインはこちらを見ることもなければ、声を返すこともなかった。それでいい。これは私の、自己満足のような告白だった。


「貴公の姿がなんであっても構わない。私はただ、いつものように、貴公と共に復讐を為せれば、それで良かったのだ……」


 エインの姿がバケモノであれ、その力が私を殺し得るものであれ、どうだって構わなかった。共に旅した、あのささかな日々が、私には、確かにかけがえのないものであったのだ。


「エル……」


 私を捉えたエインの瞳の執着の炎が、微かに揺らいだような気がした。何か言いたげな表情が私に手を伸ばそうとしている。私がその手を取ろうとした、その時だった。


「……ごめん」


 頭を振ったエインは鉱石を放り上げた。黒と赤の閃光が光を放ち、空に舞い上がる鉱石。それはまっすぐに、彼の左腕へと吸い込まれていく。脈動する、黒炎の大口へと。

 仕方ないことだ。私は頷き、一切抵抗せず、エインを見守った。

 私は彼ではないから、理解することはできない。だが、彼にとっては、それほど大事なものだったのだろう。人間の姿であるということは。

 黒炎の手のひらに吸い込まれていく鉱石を、エインはその手で握りつぶした。透明な煌めきが弾け飛ぶ。その中から、暗黒に血を散りばめたような光の粒子が飛び出した。それは空へ舞うと、まるでエインに手を伸ばすかのように降り注ぐ。

 私には、その光は神の祝福であるようには見えなかった。

 エインはその煌めきに身を委ねるが如く、瞳を閉じて手を伸ばしている。その禍々しい輝きが彼を包み込もうと――。


「――あぁ、ラフェール!」


 上品そうな女の声と共に飛び出してきた影に、身をこわばらせる。反射的に呪いを吐こうとした、その時だった。


「Cwet」


 私よりも早く、別の誰かの呪いが響き渡った。瞬間、両腕を絡めとるような重たく冷たい感覚が襲った。同時に襲い掛かるはひどい倦怠感。力が抜け、思わず膝をついた。なんとか顔をつかず耐えたが……なぜだろう、ひどく、だるい。重たい。力が入らない首を何とか回し、それを見て私は舌を打った。

 腕に絡みついていたのは、文字の刻まれた鎖だった。あの時は掠れて読めなかったが、今なら読める。――Heit zine, ce ticerchenich as colvend.虚無の神詞であろう。だから、私から四大を、呪いを奪っていったのだ。あの時も、そして今も。封呪とは、虚無だったのだ。

 ――そうだ、エインは……。


「エイン!」


 気怠い顔を起こし、エインに目をやる。

 その目に映った光景に、私は息を呑んだ。


「ラフェール……会いたかったわ……!」


 その粒子はエインを通り越し、飛び出してきた女へ手を伸ばしていた。女もまた、手を伸ばし、虚空を、黒の輝きを抱きしめるように腕を折った。頬を擦りつけるように首を傾け、愛撫を施されるように瞳を閉じる。時々口からこぼれる色香に、浮かぶ恍惚の表情。

 彼女には見えているのだ。死したはずの、愛した者の姿が。

 そして、あぁ、彼女こそ――。


「リゼルダット……!」


 ラフェールの意思を継ぎし虚無の後継者。

 エインを騙した、張本人なのだ。

 私の声に、リゼルダットはついと視線をこちらに差し向けた。虚空に口づけると、彼女は真っ黒のドレスをチョンとつまんでお辞儀した。


「ご機嫌麗しゅう、エルヴィア王子」


 そして、と彼女は静かにエインに微笑みかけた。


ありがとうございますdivel voudear、エイン様」


 女の声にか、エインは瞳を開いた。恐る恐る、まるで闇を探るように自らの姿に目を凝らし――そして、ゆっくりと振り返った。見たくない、だが、確認せねばならない。その思いが拮抗し合いながらも、その目に映った光景。彼の気持ちは、容易に想像できた。

 エインは声も出さなかった。触れようと黒の光に手を伸ばしたが、光は霧散しただけだった。指は戻らない。黒鋼の甲冑めいた指は、確かに彼のものである。エインは瞳を伏せた。ついに私もリゼルダットも、一度も見ることはなかった。

 私も、なにも言えなかった。一声かけることもできず、その代わりに沸き起こったのは衝動だった。エインを弄んだリゼルダットに対する、怒りだった。


「貴様……一体なんのつもりだ!」

「別に、なんのつもりもありません。ただ、目的のために協力していただいただけですよ」

「なぜエインなのだ……貴様とて虚無であろうが、なぜエインを騙すような真似を――」

「だって、痛いのは嫌なんですもの」


 そう、なんの悪びれもなく、あくまで自然な調子で紡がれた言葉に、私は言葉が飲み込まれた。しかし彼女は、そんな私の様子などつゆ知らずといった様子で続ける。


「虚無だって無敵じゃないことは、そこの彼を見れば一目瞭然でしょう? 痛いのは嫌。貴方だってそうでしょう?」


 小難しい子どものわがままを、リゼルダットはあっけらかんと言ってのけた。当たり前じゃない。だから私は悪くない。そんな暴論に、私は開いた口がふさがらなかった。

 この女は、まさかそんな理由でエインを利用し、騙したのか? 愛した人を、取り戻すために?


「そんなに我が身が恋しいのか……!?」

「あら、誰だってそうでしょう? 貴方だって、そうやって彼を騙してきたじゃない」


 なに? と私はリゼルダットを見つめた。――いつの間にか、心音が大きく高ぶっているのに気づいて、私は冷や汗を流す。

 リゼルダットは同情めいた瞳を、呆然と立ちすくんだままのエインに向けた。


「さぞかし楽しかったでしょうね。真実を知りながら彼を騙し、自らの復讐のために弄び続けるのは」

「違う、私はエインを傷つけたくなくて――」

「彼を?」


 リゼルダットの冷たく、それでいて無邪気な目が私を貫いた。彼女は小馬鹿にしたように鼻で笑うと、手のひらで笑みを隠す。


「彼じゃなくて、自分が、でしょう?」

「なっ……!」


 ――エインでなく、私?

 私はなぜか唖然として立ちすくんだ。


「エインを守りたい。そう言っておきながら、じゃあなんで嘘なんてついたの? それこそ、彼にとってはなによりも残酷なはずなのに」


 一歩歩みよるリゼルダットに、私は首を振った。

 違う、彼を守るためだ。希望が打ち砕かれては、彼は生きてはゆけない。彼が死を選ぶ、そんな結末は嫌だったのだ。


「貴方はね、結局自分がかわいいだけなのよ。彼が傷つくのは見たくない。なんて言って、本当は逃げられたくなかったんでしょ? ――自分の復讐には、欠かせないものね」


 リゼルダットが近づく。私はまた頭を振った。その目は、彼女から離せないでいた。

 違う、そんなことない。復讐に利用したかったわけじゃない、いや初めこそはただそれだけの関係であった、だが今は違う私は彼を救いたかった自分の野心のためなどでなく――。

 冷罵の微笑が、耳朶を凍らせた。


「――じゃ、なんで何も言い返さないのかしら」


 言い、返さない?

 私は口元に手を当てた。閉じている。いや、むしろ開かない。開こうとしない。固く閉ざされた口は、まるで縫い付けられたように動こうとしなかった。

 開け、言い返してやれ。違うとはっきり言ってやれ。だが、口は言うことを聞かない。なぜだ、なぜ開かない? その理由は分かっていた。認めたくなかった。あぁ、認めざるそのわけは――。

 リゼルダットは微笑んだ。その聖母にも見まがうほどの美しい笑みで、私に首を傾けて問うた。


「もちろん、図星なのよね?」


 ……あ、ぁ。

 私は頭を垂れた。抜け去った力に、止めを刺すような彼女の指摘は、間違いではなかったのだ。

 ……そうだ。私は頷く。私は彼を傷つけたくないなどと言いながら、本当は自分が傷つくのが怖かっただけなのだ。彼に伝えれば、彼はきっと心を病んでいたことだろう。それも確かに嫌だった。だが、私の本意として一番に存在していたのは、そんな彼を見て自分の胸が抉られるのが嫌だったのだ。それほどに、彼の存在は私にとって大きなものへとなっていたのだ。

 あぁ、嘘だ。私は自らを嗤った。残酷だ。その嘘は、あまりにも残酷すぎたのだ。現に彼を苦しめている。私が必死に避け続けた運命よりも、はるかに彼を。


「コルニ、お二人を――」


 リゼルダットの呟きが聞こえた。何と言ったのかは聞き取れなかった。ただ、並々ならぬ無数の気配だけが感じ取ることができた。

 うなだれて私は過去を顧みる。暗い思考を割るように聞こえてきたのは、聞き覚えのある声の悲鳴だった。私ははたと顔を上げた。だが正面には、まるで人形のように整った顔の女が微笑んでいるだけである。


「もうすぐ……もうすぐ会えるのよ……!」


 冷たい、陶器のような細い指が頬を這う。唇にしっとりとした熱が伝わる。

 私の意識は、深いまどろみの中に落ちていった。

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