第31話 狙い
「……おかしいな」
城下へと至る無人の城門を通り、私は呟いた。
エインの所属していた賊の例にもあるように、この国の治安はよろしくはない。研究者かなんだかは知らないが、ともかく「神」と呼ばれていた存在が狂い始めてから、人間など明日にも思われる命に等しい。四大の量も平衡を保てない状態では仕方がないとも思えるが、そんな彼らの略奪や侵略から守るために作られたのが、この街を取り巻く巨大な城壁だ。7つある城門にはそれぞれ飛び橋が掛けられており、兵も置かれているはずだった。だが、そこには誰もいなかったのだ。いや、兵だけがいないのならば、まだ理解ができる。聖ロンダイト王国の中心部であるこの街は人の流動が激しい。その人の影すら見えないのは、一体――。
「バケモノがうろついているってなると、出歩きたくなくなるのが普通だろ」
能天気に空を仰いだエインに一応は賛同するが、そうとは思えなかった。それは単に人が身を隠しているというだけの静けさではなかった。まるで人の気を感じない。いや、人どころか動物の声さえ聞こえてこない。放し飼われているはずの豚や、野犬すら見当たらない。生物という生物が、忽然と姿を消してしまったかのようだ。
なにが起きたというのだろう。俯いていると、また肩に衝撃が走った。ごつごつして冷たい、エインの腕だ。
「そんなことよりさ、俺、人に戻ったらなにしよっかなーなぁ、なにすればいいと思う?」
顔を近づけ尋ねてくる。私よりも大きな男の体重を支えるには、私の肩では役不足だった。のんびりとした口調のエインに、私は彼の手を払いのける。
「重い。どけろ」
「冗談きついなー、俺の腕なんて軽いもんだろうが」
「なら痛い。どけろ!」
なに言ってんだと、エインはけらけら笑い声を上げながら、肩に回した腕で私を叩く。妙に角ばった腕はなだらかなところがないので、そのちょっとしたおふざけも萎びた赤子の私には重く響いた。
どうやら彼の中に、この街の異質さやこれから為すべきことに対する恐れや不安、緊張などはないらしい。つくづく能天気で幸せな奴だと、私は振り払おうと奮闘していた手を止めた。その諦めの意思はエインに伝わったらしく、彼も私の肩を叩くのを止めた。がっしりと肩を組まれているのは変わらないが。
「なにしよっかなー。なんだかんだ言って、やっぱりまず慣れるのが先だよな。この炎ともお別れなわけだし、それで……」
エインはあくまでもオルド大火塔に夢を馳せているようだ。輝かしい瞳に、私の中で生じていた黒い可能性が嫌でも脳裏をよぎる。私はうまく返すこともできず、適当に相槌を打っていた。
燕尾服にシルクハットの男は、エインに人に戻れる鍵が眠っていると告げた。
それは……なぜだ?
奴らはエインを黒鋼の姿に変えた。ラフェールとかいう男を蘇らせるため、エインは犠牲となったのだ。そんなエインを救うために、今更、真の親切心でオルド大火塔のことを教えるだろうか。
あぁ、そんなことがないのは分かりきっている。ならば、なぜ奴らは、ここにエインを誘導するような真似をしたのか。エインが人に戻って、彼らになにかメリットがあるのだろうか。
「はれて人間、ってのはうれしいけど、ちょっと寂しいもんがあるよなぁ……この力ともオサラバなわけだし」
考えられるとしたら……その力だ。心を狂わせる――だけだったはずの黒炎は、今や生物を消し去るほどになってしまっている。まるで、奴らの言う、虚無の力と同じように。
それが全くの別物であれ、初めの頃と比べて、その力が強大になっていることは確かだ。四大量の変動によるものかは分からないが、今のエインは、奴らにとって確実に厄介者だ。その力が虚無相手に作用するのかは分からないが、放ってはおかないはずだろう。
――だが、本当にそれだけだろうか。
「この力のおかげでこの終わりかけの世界でも生きてけたし、お前さんともやってけた。って考えると……なんだかな。まぁ、俺ですら手に余ってたのは確かなんだけどさ」
私なら、自分の危険因子となるようなもの、生み出した時点で即刻処分するだろう。いや、誰だってそうだ。そもそも、力を奪うだけならこんな回りくどいやり方はしない。私なら出向いて殺すだろう。だが、奴らはそうしなかった。追っ手の影は、あのシルクハットの男も微妙なラインだが、彼くらいなものだ。それはなぜか?
「どう? エルも手に余ってた――っておい、さっきから黙りっぱなしだな? 俺の話、ろくに聞いてないだろ?」
そうだ、手に余っていた。奴らにも処分できないほどに、エインの力は強大だったのだ。それなら説明がつく。自分たちではどうすることもできなくなったから、エインを誘導させた。人に戻りさえすれば、後は簡単だ。殺そうと思えば殺せるし、放っておいても死が迎えに来る。
――だが、もしエインが受け入れてしまったら?
そうだ、これは博打なのだ。エインが人となることを恋しく思っていたなら、この策は通る。逆に、思っていなかったら? 私のように力に納得し、それを復讐の糧として襲いかかってきたなら?
「ったく、そんなに思案してさぁー、なにがそんなに気がかりなわけさ。――あ、また無視? ……もういいよ、俺は独り悲しく独り言でも言っときますかー」
――奴らは、オルド大火塔になんの用があるのだ? エインを向かわせた、その意味は?
奴らは、なにを企んでいる?
「はーぁ、なんだかんだ言って、俺はこの力に甘えてたんだなぁー。また元通り、盗賊のエインになるんだからさ」
オルド大火塔には、なにかあるというのか?
「もしかしたら足引っ張っちまうかもしんねーなぁ、もちろん、お前が俺のこと、守ってくれんだろ?」
そうだ、と私は辺りを見回した。城壁に囲まれた町の中心、ロッツェルンの大橋の側の小高い丘に、王立研究所はあった。ここで、かつて神代の時代の研究者たちが研究をしていた。オルド大火塔が建設された時の資料も残されているかもしれない。
確認してみるしかない。私はエインの手を払おうとし、
「エイン、私は――」
「……なぁ、」
逆に、その手を掴み上げられてしまった。
赤のいつもは澄んでいる瞳が、濁りを帯びて闇を纏う。
「お前は俺のこと、見捨てないよな?」
背筋に冷たい汗が流れた。
エインの黒炎が、まるで蝕みの霧のように彼自身を飲み込んでいく。その中でただ二点、赤が鈍く、ぼんやりと浮かんでいた。
「わ、私は……」
今にも黒に染まりそうな赤が、私に向かって傾げられる。
「あぁ、もちろんだ」
それは嘘偽りない心からの言葉だ。だが、なぜか私の声は僅かに震えていた。
冷たくごつごつとした指が、私の肩を強く抱く。いや、それは抱くというより繋ぎ止めるに等しかった。肉のない私の体を抉るような指が肩を掴む。骨に刺さる指にも、私はじっと耐えた。
彼を一人にしてはいけない。側に居なければ、彼は簡単に壊れてしまう。それは彼も望んでいないのだろう。だから、私を掴んで離そうとしない。
エインはほっとしたように笑むと、私の肩をそっと撫でた。霜が降りたような冷たさが全身を侵食した。
「よかったよ」
無機質な、まるで貴金属のように冷たく角ばった言葉が、エインの口からこぼれた。そうして、また笑顔で先のことを話し始めた。私は黙って話を聞きながら、遠ざかっていく研究所を目で追っていた。だが、ふと視界は闇に覆われてしまう。
「……なに見てんだよ」
風景との間に割り入ってきたのは、エインだった。そこにはいつものお茶らけた様子も、いやに明るい態度もない。低く、掠れていて、棘のある声。まるで自分を攻める者から自己を守るかのように差し向けられる、冷たく慈悲のない瞳の刃が刺さる。私は目を逸らした。
「……別に、ただ景色を――」
「そうだよな」
私の言葉を遮ったエインは、私の両肩を握った。爪が食い込む。まるで肉を断とうとするかのように、強く。
見開かれた赤い双眸が、震えながら私を映した。
「綺麗な街並みだもんな。そうだろ? ただ、それだけなんだよな……!」
縋るような、断定的な言葉に、私は頷くほかなかった。エインは歪んだ笑顔を作り、あぁそうさ……と辺りを見回していた。綺麗だな、この景色は。綺麗なだけなんだ。惹かれるのも無理はないよな。俺の話を聞かないのも無理もない。綺麗だな。あぁ、綺麗だ……。紡がれる虚ろな言葉には、強い自己暗示のようなものを感じた。やがて訪れうる可能性の一つに蓋をしようと。
「……ほら、もうすぐオルド大火塔だ」
火の粉を降らすオルド大火塔を指差す。見上げたエインは、一瞬顔を顰めた。濃い影が映り、エインの表情がまた一層曇ったような気がした。だが、次に見たときには、そんな表情などどこにもなかった。結ばれた口が綺麗な隆線を描く。あぁ! と頷くと、私の肩に手を絡めて笑った。……きっと気のせいだ。エインの表情が曇ったのは、そうだ、ただ炎が眩しかっただけだ。そうに決まっている。
強い自己暗示をかけているのは、一体どちらなのだ。ほうっと息を吐きだし、下唇を噛む。エインは気の抜けたような笑みを浮かべていた。だが、その指は私の肩を抉っている。
城郭都市を二つに分かつ巨大な運河にかかる橋、ロッツェルンの大橋を渡ると、華やかで、かつ淑やかな風景が広がっていた。城郭都市の北部には、かつて私も住んでいたシュレーヒト城やオルド大火塔、教会などが多く建っている。修道の開拓時代に建てられた街なので、未だ川や森など、自然が多く残っている。その大河沿いに、オルド大火塔は街を見下ろすように建っていた。
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