第30話 不安

 馬を走らせ続けて三日が経った。私の傷はもうきっと治らないのだろう。日を追うごとに痛みが酷くなっている。めまいや吐き気を催すこともあった。今はエインの薬のおかげで倒れずに済んでいるが、いずれどうなるかは明白だ。タイムリミットは近い。早くしなければと、私は荷台に意識をやった。

 エインの傷の方は、快方へと向かっているみたいだった。初めは浮かない顔をしていた彼だった。本当に人に戻れるのか。オルド大火塔は本当に自分を救うのか。障害を屠るたび、彼の顔色は悪くなった。そんな彼の前に伏した人間は、今や脳漿をかき混ぜられたどころではない。精神を侵すだけだったはずの黒炎は、いまや肉体をも飲み込んでいる。その事実は、彼の顔に深いシワを刻み込んだ。

 だが、オルド大火塔が近づくにつれ、だんだんと彼の顔色も優れるようになった。

 ――俺、案外良い奴だろ?

 オルド大火塔を見上げながら、エインが呟いたことがあった。

 ――そんな俺を赦さないなんて、神もそこまで薄情じゃねぇだろ。

 そう言って笑う彼の横顔には少し影があったものの、吹っ切れたような清々しさもあった。私はそれを、黙って見つめることすらできなかった。自らに向け舌を打ち、目を背けたのだ。


「――おいエル!」


 背後からの声を確認したとき、御者台が大きく揺れて止まった。はたと意識が戻ると、真横には手綱を握っているエインの姿があった。私の手の中には、先ほどまではあったはずの手綱がない。彼は呆れたような顔をして、こちらを見つめていた。


「ったく、バレるといけねぇから離れたとこで降りようって言ったの、お前だぞ?」


 広がる畑の先では、王都の要塞のような外壁がそびえ立っていた。どうやら思案しているうちに着いていたらしい。金色造りのオルド大火塔が火の粉を飛ばしていた。


「あぁ……すまない」


 馬をなだめ、御者台から降りようとしたとき、その腕はごつごつとした黒曜石に掴まれた。振り返らされた私の視界に、エインの不審げな表情が映る。


「最近ぼーっとしがちだけど……大丈夫か?」


 それとも、と彼は首を傾けた。


「なんか、気になることでもあった?」


 胸の内を見透かすような透明な瞳が、私をじっと見つめた。

 私はため息をつき、そして少しだけ笑った。


「気になるも、貴公が人の姿を取り戻すのだからな。人であった頃の姿を想像していただけだ。下らん話は良いだろう」


 早く行くぞと、私はエインの手をほどいた。熱く高ぶる呼吸を押さえつけながら、背後を追う足音に耳を傾ける。

 その手に滲んた汗は、彼に気づかれてしまっただろうか。

 口をついて出た下らない嘘は、彼に悟られていないだろうか。

 悟られていないに違いない。私はうまくやった。だが、悟られていてもおかしくはない。彼の目は私の奥を見ているようだった。いや、とっくに気づいてしまっていて――。

 エインが隣に並ばないので、私はもしやと後ろを顧みた。その瞬間、やってきたのは鈍痛と衝撃。思わず閉じた目を開くと、側には私の肩に手を回したエインの顔があった。


「下らねぇとか言うなよー俺寂しくなっちゃうだろー? で、どんなのを想像したんだ?あ?」


 なぁなぁとエインはしつこく尋ねてくる。煩いと突っぱねると、彼は拗ねたように口を曲げたが、すぐに「オルド大火塔だ!」と指を指した。その瞳は子どもさながらの無邪気さが輝いている。私の目には、寸分の曇も暗がりもないように思えた。

 まだ彼にはバレていないのだ。ほっと胸を撫でおろすが、胸に蔓延る漆黒の靄が晴れることはない。むしろ彼の無邪気無垢な輝きは、その闇をより濃く、深くさせていった。


「早く行こうぜ!」


 振り返って向けられた笑顔は、常夏の太陽よりも眩しかった。


「……あぁ」


 だが、そんな太陽も、迫る暗雲には敵わないのだ。

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