第29話 追憶D

 始まりの神が死んだとき、その血は時の王が保護した。王はその血をもって、神の力の源を解明しようとしたのだ。そうして作られたのが、ここ王立研究所。


ご機嫌ようDe vouzer)? 研究者方」


 微笑みかけると、研究者たちは顔を上げ、そして慌てたように恭しく頭を下げた。


「リゼルダット教皇様が、一体なぜこのような場所に……!」

「ちょっと様子見です。どうぞ、お気になさらずに」


 私が視線を逸らすと、彼らは数拍おいて動き出した。まだ硬く、乱れた動作だ。それは私に対する畏れによるものか、はたまた恐れによるものか。前者であるはずだが、あるいは私の存在に気付いている者もいるのかもしれない。


「これは一体どういう研究を?」

「はい、えと……」


 コルニの問いに、彼らは震え交じりの声で答える。

 神亡き後、その血は時の王のもとに保護され、王によってこの王立研究所が建てられた。王立研究所で働くには、試験に合格すること、神の血に選ばれることが条件とされる。ラフェールもコルニも、以前の――一度死ぬ前の私も、その一人であった。かつてはここで働いた、仕事仲間なのだ。

 だから、この中にもいるかもしれないのだ。かつて、私たちと同期であった者が。

 研究者の答えに頷いているコルニは、熱心なことだ。ラフェールを殺した。その恨みはあれど、同じ研究者という観点からは決してその努力を見下したりはしない。

 私は真剣なまなざしのコルニをわらい、所内を歩き回った。背に感じるのは、無数の視線――おそれ。彼らの不安定な律音は、私の血潮を高ぶらせる。今がその時か――いや、まだだ。その時ではない。じっくりと寝かせた後の味わいがうまいのは、ワインだけではない。


「あら、これは……」


 目に留まったのは、神詞の羅列した資料だった。――いや、ただの羅列、というわけではない。それぞれの四大と、そこから連想される神詞をまとめたもののようだ。パッと目を通しただけでわかる。これは、初心者用だ。簡素と言えば聞こえはよくなるかもしれないが、はっきり言ってこれは稚拙。これで辞書を名乗るならば、いっそ燃やしてしまったほうがいい。これでも、猿に言葉を覚えさせるため、と考えれば、ある意味無意味ではないものなのかもしれない。生憎と、猿でない私には言葉絵本と馬鹿にすることしかできないが。

 資料を手に取って、私はよくよくと眺める。どうやらちょうど今写したところであるようで、醜い字はまだ黒々とした光沢を放っていた。その一言、馬鹿にしているとさえ思える単語の羅列に目を通すたび、安定しない視線は増えていった。

 罪は忘れ去られてよいものなのか? いや、違う。

 ――たとえ神が、あの人が赦そうとも、私だけは赦さない。


「ずいぶんとかわいらしい辞書ですね。初心者用なんですよね? これ」


 資料をぱらぱらと捲りながら、半笑いに首を傾ける。しかし、誰も目を合わせようともしない。次々と伏せられていく顔に、私の中から、だんだん挑発しようという気が失せていった。その代わり、ふつふつと赤黒いなにかが喉元にせりあがるのを感じた。

 奴らは、隠蔽しようとしているのだ。性懲りもなく、忘れ去ろうとしているのだ。

 もう、我慢ならなかった。


「あら……そう、」


 あまりにも小さく低かったからか、その声は彼らの耳にはきちんと届かなかったらしい。私はこの彼らの真ん中へと歩んだ。まるで、彼らの一員であると錯覚させるほどに、優雅な歩みで。私は微笑んだ。彼らに、最高の笑みを――一片の毒を孕んだ笑みを向けた。そして彼らに、まるで見せつけるかのように、資料を投げ捨てた。


「この程度の研究でここに入所できるなんて、王立研究所も廃れましたね」


 彼らは一言も返さない。言葉を唾と一緒に飲み込むように、顎を引いて私を見つめていた。その、反抗的な目。口にはしないが、内に宿したる不平不満がありありと伝わってくる。私に浴びせかけられた視線の罵倒に、なぜか、ぞくぞくと背筋が震えた。

 煽りを抑えられない。私は彼らの冴えない顔をせせら笑う。


「かつて四柱の神とやらが残された研究結果を、一体どこへやったんです?」


 彼らはぐっと声を飲み込み、口をつぐんだ。

 その顔に、私はわざとらしく手を叩く。


「あーぁ、そうだったわ。確か、消えてなくなってしまわれたのですよね? 神とあなたたちによって焼かれた、あの人の研究記録のように。ねぇ?」


 あの人の研究記録は、彼らの嫉妬の炎に焼かれて灰となった。

 そして神々が残した研究記録は、全て虚無に飲まれて無と帰した。

 文字通り、ひとつ残らず。


「消えてなくなったって……あなたが消してしまわれ――」

「あら、どこかで見た顔よね?」


 誰もが固く口を閉ざす中、声を上げたのは女だった。ぱりっとした白衣をなびかせ、皆よりも一歩も二歩も前へ出る。その顔は記憶によぎるものがあったので、私は歩み寄り、その頬を掴み取った。その女は一瞬たじろいたが、手をほどくこともなく、芯の強い目でこちらを見ていた。

 ――あぁ、そうだ。この目だ。

 その生真面目な態度と、熱いまなざし。彼女がそれらを差し向けたのは、研究者としての探究心などではなく、愚者がこぞって唱える倫理観だった。


「あら、お久しぶりですね。倫理なんてくだらないものに固執した愚者を百年も置いておくほどに、この研究所は堕ちてしまったのですね」

「くだらなくなんてありません。倫理を基盤として研究はなされるものなのです。堕ちたのは、あなたの方でしょう?」


 ――そうだ、この反抗的な態度だ。

 いくら目上でも手を抜かない。真面目な彼女は対等な目で回りを見回し、過ちは過ちだと言い放つ。その真面目さゆえに、彼女は研究者の探究心を捨て去ってしまった。

 くだらない。私は小さく呟いて、彼女の顎を引き上げた。無防備にも喉を露わにしてもなお、彼女は顔色を変えない。その頬に爪を立てて、私は囁いてやった。


「倫理なんてくだらないもののために、研究者としての使命を放棄した。そんな馬鹿には言われたくないわね」


 彼女の顔が、分かりやすく醜く歪んだ。顔いっぱいに湛えられた怒りの矛先は私にある。彼女は眉根を寄せ、私の手首に爪を立てた。そして、喉の奥から吐き捨てるような低い声で呟く。


「研究のために、人ですらなくなるよりマシよ。バケモノさん」


 息を呑む声が響き渡り、私の周りに居心地の悪い空気が流れるのを感じた。それはこの女も同じであろうが、我関せず。その軽蔑的な目は、その怒りの毒を滲ませた牙は、全て私に向けられていた。

 私は一瞬、女に爪を突き立てられた手首に目を落とした。うっすら血が滲んでしまっているのを確認し、ふっと息を吐きだし――。


「ふふっ……ははっ、はははははは!」


 思い切り、声を上げて笑った。

 品も作法も捨てて、笑いまくってやった。研究員たちが、コルニが、あの女でさえも、私に驚愕していたようだった。

 全く、笑わせてくれる。腹が痛い。頬がつりそうだ。さんざん笑ったのち、私は斑点状の赤が滲んだ手首をそっと女の脇腹付近に添えた。


「女性に傷をつけるなんて、あなたもひどいものね」


 その言葉に、女も研究員たちも理解したのだろう。だが、もう遅いのだ。

 私に血を流させた。その時点で、負けは決まっているのだから。


 ――Hash,sor ticerchen rean.――


 女が身をよじり逃げようとする。そんな努力も虚しく、女の脇腹は私の手から生み出された短刀に貫かれた。柄を握りしめ、女の腹を抉るように掻く。ぐちゃりと中が砕ける感覚。流れる血から沸き立つ四大の感覚に、体中の血潮が沸騰する。

 あぁ、心地よい。

 女の傷口の辺りから、侵食するかのように虚無が飲み込んでいく。私は黒の短刀の血を振るった。女の死体が膝をついて崩れ落ちる。白の床に塗りたくられていく赤を、研究者たちは唇を震わせてじっと見つめていた。


「……あ、ぁ」


 その中の一人が、小さく声を上げた。その声にはたとしたか、彼らは瞬きを繰り返し、一拍遅れて詠唱を始めた。長々と飾った、拙い詠唱だ。詠唱とは、すなわち語彙力だ。いかに短く、四大に形を与えられるか。その点で、奴らはただの素人同然だった。

 ほうっと溜息をつき、私は手を振り上げる。


「――Naid」


 私は形を与える。女の体から流れ出る四大へ。

 血は性質や構成を曲げ、黒く粘着質ななにかへと変わってしまう。ぬめらかに地を這うそれは、明らかな生命の胎動を宿しながら研究者たちの足元を捉えた。

 奴らの顔に、恐怖の色が滲んだ。

 その顔に、私は微笑んだ。一欠片の毒リンゴを添えて。


「Ciez」


 黒は、私が手を振り下ろしたのに合わせるように、奴らを飲み込んだ。黒ギフトボックスの中から聞こえてくるのは、いい大人の阿鼻叫喚。奴らが救いを求めようと手を伸ばすたびに、黒がその形を現した。


 ――Chilf.――


 彼は、ラフェールは、とても優しい人だった。皆に非難されながらも、ただひたすらに人のために研究を重ねた。


 ――Chilf!――


 だが、私は違うのだ。

 彼のように、一思いに殺しはしない。一瞬で逝かせたりしない。


「ごめんなさい、私、あの人みたいに優しくないの」


 少しずつ身が溶けていくかのように消えていく、そんな苦しみを味わいながら逝くがいい!

 私は高らかに笑う。男たちの悲鳴に負けぬよう、喉を鳴らせて高らかに。

 バケモノだ。そう女に言われて、苛立たなかったわけではない。だが、それ以上に、私は悦していたのだ。

 あぁ、そうだ。私は頷く。

 私は、もうどうしようもないほどに、この力を愛してしまっている。

 生を犯す、その喜びを知ってしまったあの日から、私はもうとっくにバケモノなのだ。


「リゼルダット様……」


 震えた声を聞いて振り返ると、そこには青い顔のコルニがこちらを見つめていた。わなわなと震えた薄い唇。どこか恐れたような、まるで狼に睨まれたように、怯え切った瞳。


「あぁ、コルニ……」


 私は虚無の短刀を放り、彼の痩せた肢体をかき抱いた。細い体が驚いたようにぴくりと跳ねる。その怯えを、恐れを、震えをいなすように、私は彼の背をそっと撫でた。


「そうよね、あんなに囲まれて、睨まれて……怖かったわよね……」

「いやっ、そうじゃ……」


 何か言いたげな彼の唇に人差し指を当てる。まだラフェールが生きていたあの頃も、コルニは口元になにかが触れると口を閉ざしたものだった。口を固く結んだ彼に微笑みかけ、私は彼の茶の髪をゆっくりとかき混ぜた。


「分かってる。なにも言わなくていいわ……私にはお見通しですもの」


 コルニの髪は柔らくて毛量も多いので犬みたいだ。飼い主想いなのも、向けるあどけない表情も。かわいらしい。そして、優しく繊細だ。だから、すぐ壊れてしまいそうな彼を、守ってあげたくなる。

 コルニはまだなにか言いたそうにしていた。私の瞳を見つめると、なぜか怯んだように目を逸らした。


「……はい、そう……ですね」

「えぇ、心配しないで」


 耳をくすぐって、私は静かになった研究室の一角の窓に近づいた。小高い丘の上に建設されているこの王立研究所は、街全体を一望できる。見下ろした景色は、景観という観点でのみ論じるならば、いつもと何一つ変わりない。街の奥には森が広がり、その緑と岩山の上に街を彩るシュレーヒト城がどっしりと構えている。灰の街並みに点々とする緑。街を横断する澄んだ川をかけるロッツェルンの大橋。その街の中央で輝くのは、この国のシンボルでもあるオルド大火塔だ。


「もうすぐ、もうすぐ会えるのよ……!」


 ため息とともに零れた声は、どこか震えているようだった。これを、きっと歓喜というのだろう。

 目を閉じれば血が教えてくれる。城下に広がる、凄惨な景を。悲鳴、虚無の侵食、そして消えていく命――。

 あの子たちは、きっとやってのけたのだろう。下らない宗教信者などいらない。その信仰が私の壁となるなら、残らず消し去るのみだ。

 もうすぐ。もうすぐ私を、ラフェールを救う王子様が、そして私の子がやってくるだろう。


「リゼルダット様……」


 窓の向こうで、コルニの浮かない顔が揺らいだ。

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