第26話 エインという男


「ラフェール様は優秀な研究者でありました。故に、他の研究者に疎まれることとなったのです」


 薄暗くじめじめとした螺旋階段を照らし出すのは、男の持つ小さなランプだけ。ここが正規の見学場ではないのは一目瞭然だ。


「この世界の常識、そして自らの地位をも揺るがしうるラフェール様の研究成果。それは彼らを狂気に駆り立てました。よって、このモントシュタイルにあったリーオン研究施設を燃やし、ラフェール様を屠ったのです」


 螺旋階段に響き渡るのは、ずれた二つの足音。そして、この男の声だけだ。


「ラフェール様以外の研究者たちは、皆神の力を手に入れました。炎、水、土、気。それぞれを操ることに成功した彼らは、死した原初の神に代わり、新たな神として君臨したのです」


 この胡散臭い男の言うことが、どれほど信じてよいものなのかは分からない。ただの妄言なのかもしれない。だが、これならあの老婆の発言の辻褄が合うのだ。

 ――お前さんたちが殺しちまったのさ……。


「しかし、彼らは狂ってしまった。新たな神は、原初の神の定めをも引き継いだのです。そして彼らは、四柱の聖域に幽閉された。数百年経った後、ある王子のために殺されるまでは、ついには聖域を離れることはありませんでした。苦しみながら、痛みにもがきながら、最期は刹那、儚く逝ってしまったのです。

 それで、ひとつの旅路は終焉を迎えたかのように思われました。――しかし、それは新たな物語の幕開けだったのです」


 淡々と紡がれる、特に耳にも入らない語り部の声。しゅごーしゅごーと、蒸気の音。確かに濃くなっていく、不純な四大。

 炎が照らす先に映し出されたのは、大きな鉄扉だ。その先で確実にそれはある。人の元となる、神の身業の残骸が。


「リゼルダット様、彼女は一度死にました。が、実験によって再び生み出された。他でもない、ラフェール様の手によって。そして彼女は、決意するのです。あの人を、創ろうと」


 開かれた鉄扉。決して笑わぬ目を細め、男はステッキを奥へ差し向けた。


「どうぞ、中へ……」


 中はひどく暗かった。薄暗く、なにもろくに見えない。一歩進むたびに肌に生暖かい風がまとわりついた。騒ぐ血に、四大を側に感じる。


「研究を重ねた彼女が初めに被験体として選んだのは、仲間に認められなかった賊の青年でした」


 ごう、と音が聞こえたかと思うと、部屋に明かりが灯された。入り口から遠ざかるように、順々に炎がついていく。どういう原理なのかは、私にもわからない。

 照らされた室内には、想定通りのものがあった。キルヒェが山積みになった器、散乱する本、ひどい臭いに、よくわからない大型の機械、そして巨大なフラスコ。

 しかし、その中に浮き沈むのは、肉塊ではなかった。


「これは……どういうことだ?」


 まるで血が通っていないのかと思えるほどに白い肌。対して恐ろしいほどに赤く輝く瞳。華奢な長躯に、欠けた片足。傷だらけの裸体の青年。

 ――似ている。


「彼は倫理に背いて生み出された子でした。故に体は弱く、片足は欠けている。使い物にならない子だと、常に馬鹿にされていたのです」

「……おい貴様、質問に答えろ」


 思い出す。キルヒェの森、エインが語ったあの日の記憶を。

 ――似ている。その姿は、他人の空似というには無理があった。


「青年は認められようとしました。だから、神殿を侵そうとした。宝物を頂き、仲間だと認めてもらうために。その時、彼は哀れにも、彼女と出会ってしまうのです」

「答えろと言っているだろうっ!」


 男の首元に掴みかかり、私は怒鳴りつける。だが、男は顔色一つ変えない。そのいやに冷静な態度が癪に障った。男を振りほどき、フラスコの中の青年を見つめる。

 儚く虚空を見やる青年。整ったその顔に、なんの感情も存在していない。


「彼女――そう、リゼルダット様は、青年の魂を人工的に作り上げた肉体へ移植しようとしました。ですが、それは失敗だった」


 ――俺、こんなんでも人気者だったんだぜ?

 私はフラスコに触れる。青年が小さく揺れる。


「いえ、半分成功、といったほうがよいでしょうか。魂移植は成功したのです。ですが、肉体の方がよろしくなかった。いくらリゼルダット様と言えども、ラフェール様ではない。なにが多くて、なにが足りなかったのか。彼女が生み出したのは、ただのバケモノ、ただそれだけだったのです」


 フラスコに反射して、男の張り付けたような笑みが映る。私は首を振った。

 ――気のせいだ。きっと気のせいに違いない。


「いいえ、気のせいではございません」


 すぐそばで吐息を感じて、私はナイフを振り払った。だが、男は変わらず扉の近くに立っている。ゆらゆら揺れる松明の炎が男の顔に影を差す。陰鬱で胡散臭い笑みに、濃く陰影を映した。


「彼は人より出でました。けれども、今、地上で躍る黒炎の彼は、虚無より出でたのです!」


 男は私など構う様子もなく、ステッキを持つ両腕を広げて笑う。

 そんなわけない。私はフラスコの中の青年を見上げた。この青年はエインとは何の関係もない。そうだ、そうに決まっている――はずなのに。

 なぜ、私は疑っているのだ?

 フラスコの中の青年は、光なき真っ赤な双眸を虚ろに開かせている。ガラスに反射した男が、惑わせるように微笑む。


「そうとも知らず、彼は疑いもしない。リゼルダット様より生み出されたというのに、自分が人間であると信じて疑わない! それが、埋め込まれた偽りの記憶とも知らずに!

 ――あぁ、彼が求めるものは、果たして本当に彼の望みを叶えるのでしょうか……」

「……なに?」


 芝居がかった口調と動きで謡うように紡いだ男を私は睨んだ。男はその笑みを崩さぬまま、フラスコをそっと撫でる。


「青年に助言を与えた燕尾服の男、彼の言葉は、果たして正しいのでしょうか……」


 ――燕尾服の、男?

 ふっと、記憶が蘇った。燕尾服の男。エインが語った過去。胡散臭い男の救い手――オルド大火塔の最深部に眠る、呪いを解く鍵。

 もしや――私は男に掴みかかった。


「エインの体は神の呪いなのだろう? オルド大火塔の鍵で解けるのだろう!?」


 男の話がすべて正しかったとしたら、この虚構じみた話が真実であったとしたら。

 エインは、騙されたのか?

 男は口角を上げた。まるで下卑た笑みで、彼は首を傾ける。


「さて……どうでしょうか」

「貴様……!」


 私は声高々に呪いを吐いた。この場所は四大で満ち満ちている。血を垂らさずとも、十分な四大があった。構築されていくのは蒼い火蛇。生を食らいつくすまで失せない乞食だ。

 男が小さく微笑んだ。そしてその瞳が青に煌めいた時。

 ――一直に向かった火蛇は、無へと帰した。


「なに……っ」


 思わず声が漏れた。私の驚愕を嘲笑うかのように、男は道化師めいた動きでステッキを回す。


「虚無を前にはいかなる四大も無力。それをお忘れになりましたか?」

「なんだと……っ!」


 下唇を噛みしめ、蛇目の男を振り払った。

 四大を無力化する虚無の力。それが、五つ目の元素であるとするならば、だ。

 私は呪いを吐いた。構築するのは、岩の矢。飛びし十数本の矢は、男に傷をつける前に四大と消えた。男の瞳は、青に爛と煌めいていた。


「やはり、そうなのか……!」


 私は数歩後ずさった。まさかだとは思っていたが、本当にそのまさかだとは思ってなかったのだ。


「ですから、無駄だと申しておりましょう」


 男は――いや、この道化めいた虚無の神は、呆れたように苦笑した。


「あなた様に私は殺せない。どう足掻いても、私に少しの傷さえつけることもできないのですから」


 さらに後ずさった。とんと背中に感じる、冷たく硬いもの。行き止まりだとでも言うように、男は手で指し示した。


「……そうだな、確かに、それが摂理であった」


 虚無を前には、何物も無力。殺すことはおろか、傷をつけることも敵わない。

 だが、と後ろ手に扉に触れた。研究所内のキルヒェと血の疼きから考えるに、ここに満ちる四大の量は計り知れないだろう。だが、と私は男に笑みを返す。


「だが、同等の苦痛を与えることはできよう?」


 ―― Ce hid zem luin alessa ve.――


 吐いた呪いが実行される前に、私は外へと飛び出した。呻くような鈍い声を背に、階段を駆け上がる。

 たとえ相手が私の力を無に帰し、四大のつながりを断ったとしても、だ。

 存在しないものを、無に帰すことなどできまい。

 空気なき世界で死ねぬというのは、地獄にも似た味わいだろう。

 地下へと続く扉を閉める。もたれかかって吐き出された息は、ひどく熱っぽかった。耳を澄ませば微かに聞こえてくる、男の悲鳴。まだ悲鳴を上げられるほどにはぴんぴんしているのだろう。私は拳を握りしめ、扉に叩きつけた。


「クソ……っ」


 嬉々として語るエインの希望。それだけが繋ぎ止めた彼の生。

 何度も、何度も。拳を振り下ろす。無人の館内に、貧相な悪態が響く。


「クソ……っ!」


 下卑た笑みで囁く、偽りの言葉。非情で、残酷な真実。

 扉を打つ拳には木の削げが刺さって赤く変色していた。扉が軋む。木くずが舞う。しかし、その手は止められない。

 ――エインは、騙されたのだ。


「クソったれがっ!!」


 ばきりと不快な音を立てて、木戸は割れてしまった。ぱらぱらと破片が転がる。拳には血が滲んでいた。新鮮な、赤々とした血がぽたりと白床に弾ける。たったそれだけのことが、なぜか今は苛立って仕方なかったのだ。私は呪いを唱えた。粗野でなんの憎しみもない、ただ苛立ちと怒りだけを固めたような、単純な呪いだ。呪いは小火を生み出し、扉を焼き払った。灰となったそれに、私は怒りを忘れた。代わりにやってきたのは、虚しさだった。


「……なぜ」


 座り込んで、零れた声は震えていた。震えているのは、私であった。

 男の話には整合性があった。エインの身体状況を鑑みると、余計に納得できる話であった。単純に、嘘だと決めつけがたいものだった。

 男の話は、おそらく真実だろう。研究のことも、エインを被検体としたことも、彼を騙したことも。

 ――そして、それを知っているのは、私だけなのだ。


「……そうか」


 ふらふらと立ち上がり、私は館内を見回した。そこには、奴らが大切にしてきたという資料群が眠っている。その全てを確認したわけではないが、もしかしたら私たちにとって不都合な記述があるかもしれない。

 隠匿というのも、一種の決断というものだろう。

 私はナイフを抜くなり、手首を裂いた。そして、勢いよく噴き出した鮮血をばら撒いた。廊下に、資料に、そして地下への入り口に。肖像画の前には、特に入念に血を振り撒いた。そして、火を呪った。これが奴らにとってどれほど大切な記録かは知らない。だが、私には価値を見出せない。見出したくもない、知りたくもない。それが、エインの体のことに関する記述であれ。

 エインは、神に呪われたのだ。

 それだけが、紛れもなき事実のはずである。

 炎を引き連れて、歴史館を出る。もうすっかり日は暮れていた。宵闇の赤には炎の蒼が燃え、不穏なグラデーションがあった。不吉なまでの真っ赤な月が照らす街には、心地良いまでの四大で満ち満ちている。生命の息遣いなど聞こえなかった。ただ、一人を除いては。


「……どうせ、ついでだ」


 私はさらに腕を裂き、血を振りまいた。呪いを吐くと立ち上る火は、この場所に街があったという事象さえ、灰へと帰していく。

 なにもなかったのだ。ここには、研究所はおろか、街さえ存在していなかった。それで、よいではないか。

 火蛇を引き連れながら街を歩んでいく中で、いくらかの死体が転がっているのを目撃した。狂ったように白目を剥いた者。体の一部が消えた者。腹に大穴を空けた者。殴られ、裂かれ、断たれた者――。まだ、かろうじて息をしていた者もいた。私は、その女に止めを刺した。恐れるような、忌むような。そんな顔をして、女は灰と逝った。

 その女の死体から伸びるように、石畳に血痕が垂れていた。ひたひたと続く、血の歪で不規則な足跡。そこを辿った先にあったのは、小さな広場だった。噴水があるだけの、陳腐な広場だった。その噴水にもたれかかるようにして座るのは、エイン。その前に伏す、血みどろの男。


「……エイン」


 声をかけても、返事はない。視線でさえ、よこさない。よく見ると、彼の腕や足は、ねっとりと赤黒いものが滴っていた。ただ黒炎に飲ませるには飽き足らず、普通の殺戮も楽しんだのだ、というわけではないだろう。エインの真っ赤な目は、虚ろに開かれていた。その姿は――いや、気のせいだろう。フラスコの青年の姿に似ているなど。

 数歩近づくと、エインはこちらに瞳を向けた。そして、ふっと淡い笑みを浮かべる。


「……よぉ、遅かったじゃねぇの」

「……少し、手間取ってな」


 エインの前に伏した男の目には、恐れなどは一切存在していなかった。ただ、嘲笑というか、侮蔑というか、憐みのようなものが光なき目には浮かんでいるようだった。その口は、消えてしまっている。鼻下から顎にかけて、まるで端からなかったかのような自然さで、失せている。その眼前に揺れるは、エインの黒炎の腕だ。


「これは……」

「なぁ、エル」


 男の前に膝をつこうとしたとき、エインが呼び止めた。彼を見ると、その顔には泣きそうな、不安そうな表情が張り付いていた。頭を押さえ、彼は震えた声で私に問う。


「俺、ちゃんと人間だよな……?」

「……あぁ」


 頷くこと以外、私になにができただろうか。

 エインはほっと安心したように小さく笑った。立ち上がって男を蹴飛ばす。ごきりと鈍い音を放った男を見下ろし、彼は自分に言い聞かせるように呟いた。


「そうだよな……あぁ、そうに決まってるさ……」


 狂気めいた横顔は、炎を受けくっきりと陰影をつけている。安堵、不安、盲信、疑心。入り交じった歪な表情を前には、なにも言えなかった。


「さぁ、行こうぜ、エル。城を、塔を落とすのさ」


 そして、エインは私に手を差し出す。遠くで瞬くオルド大火塔を見上げ、はっと笑った。

 いつも通りの笑みだ。先程までの感情をすべて振り払ったような、自信に満ち溢れた笑み。だが――なぜだろう。その目に、執着めいた光が煌めいたのは。


「……早くしろよ」

「あ……ぁ」


 先を行くエインに睨まれ、私は小走りに並ぶ。

 黒檀の空に穿たれたような、真紅の不穏な月。分厚い煤色の雲は、その淡い光さえも飲み込んでいった。

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