第21話 追憶C


「到着でございます。リゼルダット様」


 先に馬を降りたコルニの手を取り、私は足をついた。コルニは馬を労うように撫でている。確かに、この道は馬にはきつかろう。だが、よく走りきってくれた。強い馬だと、私もその腹を撫でた。次いで、三人が後からやってくる。その黒のローブを見つめ、私はイヴェール家の屋敷を見上げた。

 シンメトリーの美しい石造りの屋敷だ。ただ冷たく無機質なばかりではなく、様々な植物や昆虫によって彩られている。ずいぶん変わったものだと、私は門扉へと向かった。

 蔦のキルヒェが絡みつく門扉を押し開く。


「……っ」


 蔦には棘があったらしい。黒レースの手袋を破り、右手の指先に血を滲ませた。キルヒェが輝く。美しい黒の意匠がぐちゃぐちゃになる。私は顔を歪ませた。

 ――なにもかも、いずれ虚無に帰るのさ。だから、その刹那を愛さないといけないね。

 彼が耳元で囁いた。当然ながら、彼はいない。コルニと黒ローブが立っているだけだ。

 私は手袋を脱ぎ、袂にしまった。


「そうね、ラフェール。そうだわ」


 万物の存在は永遠ではない。私はこの手袋を、この一時まで愛し続けた。だから、もう未練はない。彼が私に送った贈り物も、永遠ではないのだから。


「大丈夫ですか?」


 コルニが問いかける。えぇ、そう答えると、コルニが門扉を開いてくれた。


voudearありがとう


 微笑むと、彼は私に手を差し出した。私は、その手を取らず、そのまま奥へと向かう。

 扉は開いていた。人の気配は全く感じない。私は恐れることなく先へと進んだ。あとからランプを手にしたコルニがついてくる。五つの影が長く伸びる。


「ここも、ずいぶん変わったわね」


 かつて薬学の研究で名を馳せていたイヴェール家の屋敷は、様々な植物の標本や資料、書籍で埋められていたはずだった。しかし、今ではその植物も、キルヒェによってうずもれている。それは動物だったり、虫だったり、様々だ。研究器具も、とても薬学研究に必要とは思えない、真新しいものでいっぱいである。

 隣に並んだコルニは、背から鉱石を生やしたカエルにランプを向けた。光に背の鉱石がきらきらと輝く。カエルは眩しそうに小さく鳴いた。


「ずいぶん改装なさったそうですから。それほど、テレーゼ=イヴェールのことが大切だったのでしょう。リゼルダット様がラフェール様を想う気持ちと同じです」


 奴と私の気持ちを同じにしないで。そう言おうとして、止めた。奴の気持ちの大きさなんて、他人にわかるものじゃない。それに、この改装模様を見れば、一目瞭然だ。大きさに違いはあれど、奴の妻であるテレーゼを想う気持ちは本物である、と。


「成功なさったのでしょうか」


 コルニが心配そうに呟いた。成功すれば、研究結果を学会に発表できる。奴らを見返せる。だが、失敗すれば……コルニはその可能性を憂いているのだろう。

 私は微笑んで言った。


「無理でしょうね」


 地下へと続く階段を下りると、すえた匂いが鼻をつついた。頭が痛い。だが、不思議とその足取りはしっかりしていた。隣ではコルニが息荒く頭を押さえながら進んでいた。待っていても構わない。そう言っても、彼は聞かなかった。


「俺には休む権利なんてないんですよ。だから、そんなに優しくしないでください」


 儚く笑ったコルニの横顔に、私は何も言い返せなかった。

 ラフェールは一人、モントシュタイル研究所にて、研究資料ごと燃やし尽くされた。自らの死期を悟っていたからだろうか。その日は、皆に休みを言い渡していたという。だから、誰一人として、彼と死を共にすることはなかった。

 ――もし俺が神詞を読むことができたなら、我が身を呪ったと思います。

 かつて、コルニは私に言った。その悲痛げで、今にも自殺しそうな彼の姿は、今でも鮮明に覚えている。

 ――あの時、俺もそこに居たら、一人で逝かせることはなかったのに……。

 以来コルニは、休暇を取ることも、休みを満喫することもなくなった。終始私の側に仕え、神詞を研究するようになった。それが彼にとっての償いであったのだろう。私がそれを止めることはない。


「具合が悪くなったら、すぐに言うのよ」


 臭いが濃くなっている。研究所への入口が見えてきた。コルニは青い顔で口元を押さえながら頷いた。黒いローブの者たちはなんの反応も示さない。ただただ無機質で不気味だ。

 地下への研究所の入り口を開く。

 酷い臭いが立ちこめていた。まるで臭いだけで肺を壊死させてしまうようだった。


「うわぁ……ぅ」


 コルニが腰を折った。口元を塞ぎ、部屋の端で丸まる。ぴちゃりと、なにかが弾けるような音と、彼のしゃくるような声だけが響いていた。その背を撫でてやりながら、私は呟く。


「酷い有様ね」


 自分の口元が笑みを湛えていることは、鏡を見ずともわかった。

 テレーゼになろうとしたものが浮いていた巨大なフラスコの中は、空だった。側の排水溝には、赤黒茶色、臓物をかき混ぜたようなものが詰まっていた。ぬめりと光っているそれを指で掬う。まだ温かい。確かに、数時間前までは生きようとしていたのだ。この世に生を受けようとしていたのだ。今では、それは微塵にも感じられないが。

 黒ローブで指の汚れを拭きとる。ひどい臭いまでは落ちることはなかった。

 恐らくは、いや、間違いなく王子エル一行の仕業だろうと、足元に転がる死体を見て思う。


「あぁ、エルヴァーリオ」


 私は死体の冷たく強張った顔を撫でた。


「運命は変えられなかったのですね」


 エルヴァーリオが言うに、今日は「最期の予言の日」であったという。テレーゼが言い残した予言がなにかは、私は知らない。ただ、それを変えるなら、今日しかない。彼はいつもそう言っていた。

 だが、それも失敗に終わったのだろう。

 無念を湛えたような顔を、私はせせら笑った。


「お悔やみ申し上げますわ」


 笑い声に、ほんの少し死体の顔が歪んだような気がした。だが、気のせいだろう。死したものにできることなど、何一つない。

 ――いや、ひとつだけ存在している。

 それは、その人の生きてきた場所を空けるということだ。

 私は振り返り、黒ローブに微笑みかけた。


「これで、邪魔者はいなくなったわね。

 ――ルイ、ドゥーエ、エド」


 名を呼ぶと、黒ローブたちは一歩前に出た。私は彼らに問う。


「教皇は消えた。次の教皇にふさわしいのは誰かしら?」


 エルヴァーリオが死んだことにより、彼の生きてきた場所、つまり教皇としての地位が空いたのだ。それは、誰かが埋めなければならない。

 答えたのはルイだ。


「それは大司教リゼルダット、あなた様にございます」

「私たちの王国に、私たち以外の思想を持つ者はいるかしら?」


 あの人を異端として断罪した人々。彼らに、居場所は必要であろうか。

 答えたのは、ドゥーエ。


「思想を統一。城の者は排除」

「排除するには、どうすればよいのかしら?」


 最後に答えたのは、エドだった。


「力を示す。相手よりも優位に立つこと」

「じゃあ、頼むわね」


 三人は頭を下げ、声を揃えた。


御意parche


 そして、闇の彼方へと消えた。

 彼らもまた、ラフェールの研究に強い同調を示した者たちだ。不気味ではあるが、あの人の目標に対する熱意は本物である。神の力こそ得てはいないが、遂行能力においては私も認めている。必ずや、成し遂げてくれるだろう。

 さてと私は、エルヴァーリオの近くに転がった黒刃のナイフを手に取った。流れているのは血だろうか。舐めると、全身に血が駆け巡るのを感じた。四大だ。これは、この濃密で甘美なる味は、四大によるものだ。それも、最上級の。


「この剣を使うとは……」


 エルヴァーリオがこの剣を初めて使ったのは、火の探究者を屠ったときだ。エル王子のためと抜いた刃は、もう抜かないと彼は言っていた。「その時が来るまでは」とも。


「予言を信じ、予言に抗おうとする……あなたの愛は本物なのでしょうね。けれど、その愛が結ばれるとは限らない」


 その時はやってきたのだ。だが、その時、振るわれた剣が報われることはなかった。彼の無念めいた顔が、何よりの証拠だろう。


「その愛は、伝わったのですか?」


 物言わぬ死体に問うても、帰ってくる言葉があるはずもない。

 私はふっと笑い、ナイフをしまった。これはもともと私のものだ。いや、私が生み出した、いわば私そのものなのだ。返してもらってなにが悪い。恨み言を吐かれても、私が頭を下げる必要はない。

 ふいに、どさっとなにかが崩れ落ちる音がして、私は音の方を見た。そこには、膝をついたコルニの姿があった。彼は口元を拭い、虚ろな目で呆然とテレーゼの残骸を見つめていた。


「これがあの実験の顛末と言うのですか……?」

「えぇ、そうよ」


 エルヴァーリオに教えたのは、死者を蘇らせる秘術。四大のバランスと量が一定になれば、テレーゼはもとの姿となる。信じた彼は、すべての要素を含む息子の血を求めた。足りない、あるいは微調整に必要な部分は、キルヒェで代用した。その行動は、並みの科学者よりも情熱的だ。テレーゼを蘇らせたい、その一心で、彼は私に縋ったのだ。

 愚かなことに、この私に。

 何故、とコルニは視線を落とした。悔しげに拳を握りしめて、彼は震える声で続ける。


「何故、成功しなかったんだ……っ」


 この実験が、教皇エルヴァーリオによって成功を迎える。それはつまり、国自体が「虚無」の存在を認めざるを得なくなるということだ。

 もう隠れなくてもいい。こそこそと実験することもない。ラフェールの夢を叶えることができる。

 さしずめ、コルニの思いはそんなところだろう。優しい子だ。思わず抱きしめたくなるほどに、愛おしい。あの人が生きていたなら、きっとよい右腕となったことだろう。

 私はコルニの茶の前髪をそっと撫でた。


「成功させなかったのよ」


 そして、告げた。

 コルニは思わずと言ったように、私を二度見した。驚愕に言葉も紡げぬようで、ただ口をぱくぱくさせるだけのその姿に、私は吹きだしそうになった。だが、それを遥かに超えるだけの想いがあったのだ。


「エルヴァーリオが実験を認めることによって、私は隠れなくて済む。そんなに物事がうまくゆくなら、あの人は殺されなかった。そうでしょう?」


 問いかけるも、帰ってくるのは乾いた息が漏れる音だけだった。

 どうせ研究が実を結んでも、たとえエルヴァーリオが認めようと、王立研究所の奴らによって秘匿されるのがオチだ。頭が固い奴らになにを言っても意味はない。それはラフェールの学徒たちもよく知ることのはずである。常にラフェールの側にいて、ラフェールへの陰湿な陰口を聞いていたコルニなら、なおさらのことだ。

 呆然と口が閉じられない様子のコルニを一瞥し、私は続ける。


「知ってる? この研究が恐れられているのはね、人と神の越えてはならない境界を越えてしまうから、ただそれだけじゃないのよ。表向きは奴らはそう言ってる。生命を生み出すのは、神の身業だって。その境界を越えてはならないって。でも、そんなの建前に過ぎない。本当はね、コルニ。奴らは恐れているのよ。自分の存在さえ、無に変えられてしまうのではないかって」


 王立研究所の言い分はこうだ。我々の研究は成功を極めている。学会への発表も済み、今やこの国の科学観は四大によって形成されている。その中で新たな要素が生み出されれば、我々の研究は、我々の存在は、無へと帰してしまうだろう。

 文字通り、「虚無」は人を無へと帰す。人だけではない。四大で構成されているものは、たとえ動物であろうと植物であろうと、この世界そのものであろうと、無へと帰すことができるのだ。奴らはそれを恐れている。無差別に引き起こされうる存在の帰化と、自分の世間での地位の剥奪を。

 それにね、と私は愚かな死体を見下ろした。

 いつ見ても、吐き気がする顔だと思っていた。


「あの人を断罪した……その罪は、忘れていないのよ?」


 あの時王立研究所の凶行を黙認した、そんな王族の末裔を、私は赦しはしない。

 私は死体に血を振りまいた。茨で指を切ったのも、テレーゼの示した予言の延長だったのかもしれない。ふと思って、私はため息をついた。予言など、馬鹿らしい。血は彼の瞳を真っ赤に染めた。そして、私は彼の耳元に囁く。

さようならpiele

 永久の別れに、狂おしい呪いを添えて。


 ――E acarta floomer ime,e fog hi zine.Tite duid.Vendya ce zine.Tec di Gvars.――


 刹那、死体は黒色のなにかに覆われた。炎のようなそれは、死体を包み込み、まるで獲物を飲み込む蛇のように死体を飲み込む。黒の炎は盛りを弱めると、爆ぜた。四大が満ちたような気がした。

 私はその空気を大きく吸い込んだ。血が滾る。対して青い顔のコルニに、私は笑いかけた。


「研究が認められることなんて、どうでもいいの。彼さえ笑ってくれたら、私はそれで幸せなんですもの!」


 そうだ、どうだって構わない。

 人のためになろうとして生きたあの人は、殺されてしまったのだ。誰かのために生きて、よいことなどなにひとつない。私は、ただ私一人のためだけに、生きればよいだけなのだから。

 私の笑い声は、地下の実験室では異様なほどに響いた。まるで魔女の哄笑のように。たとえそうであっても構わない。ラフェール、彼が笑ってくれるならば、あぁ、私は神をも殺す魔女になって見せよう!


「さぁ、行きましょう、コルニ」


 ――時は熟した。王座は空いたのだ。私のために、王はわざわざ退いてくれたのだ。

 あとは、王子の帰りを待つだけだ。

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