第20話 旅立ち

 剣を懐に差したエインに続いて、私は下の階へと降りた。下の階は、酒を呷る男女がなにやら盛り上がっているようだった。


「アンタ、訊いたかい? また賊が出たらしいって」

「あぁ? 興味ないね」

「ウソぉ、同業者じゃないか。ちゃんと見といた方がいいんじゃないの?」

「構わねぇよ。どうせ相手は目立ちたいだけの性悪集団さ。生活かかってる俺らとはまるで違うね。俺らに喧嘩売るってんなら、買う代わりに市場に売り飛ばしてやらぁ――」


 どっと笑い声が響く室内。熱気は酒の香とともに、べたついて肌を撫でていく。

 賊――その言葉が胸に引っかかったのは、私だけではない。ちらりとエインに目をやると、案の定、彼は考え込むように黙り込んでいた。思案の奥には、誰に当てたか憎悪と怒りが滲んでいる。手をかけた白木の柱には、黒の爪が深々と抉り込んでいた。

 エイン、その呼びかけは、後ろから近付いてきた男の低い声に遮られた。


「そんなところに突っ立ってんじゃねぇよ」


 吐き捨てられた唾はヤニ臭い。こいつだけでも殺してしまおうか、そんな考えがよぎったとき、エインが手を引いた。


「すみません、ちょっと気分が悪かったんすよ。――ほら、もう大丈夫だから、行こうぜ」


 頭を下げ、男の横を通り過ぎる。――もう大丈夫。そこになにか含んだものを感じたのは気のせいだろうか。エインの顔を見ると、彼は口元に笑みを浮かべてウインクをこちらに投げた。そこに少しの陰が見えたのは、単に廊下の薄暗さのせいだけだろうか。

 酒場の席を通り、カウンターへと向かう。客を取る女の嬌声、酒を呷る男の蛮声。馬鹿話や痴話喧嘩で盛り上がっている者たちは、口を閉じるということを知らないのか。下賤な会話に顰めた顔を、私は外套で覆い隠す。しかし、身に感じる視線の数々は遮断することはできなかった。

 店主は酒場の主人も兼ねているようだ。カウンターに立つ店主は、騒がしい店内に怒鳴り声を浴びせ、ぶつくさと文句を言いながらグラスを拭いている。エインがカウンターを叩くと、店主は一瞥することなく言った。


「15ギールだよ」


 私たちは目を見合わせ頷いた。安すぎる。一夜の相場はだいたい30ギールだ。エインは確かめるように問う。


「おっさん、ホントに15ギールでいいのか?」

「何度言わせんだ。払わねぇんなら、身ぐるみ置いていきな。どうせ大した金にはならねぇだろうがよ」


 なにがおもしろいのか。酒場一帯に笑いが巻き起こった。顔色を変えない店主に、私は袋から金貨を三枚掴んで放り投げた。どうせ終わる世界では必要のないものだ。そんな石ころになんの価値も生まれまい。


「小銭はない。これでも取っておけ」


 店主は初めグラスから目を逸らさなかった。ちらりとカウンターに転がる金貨三枚を見ると、彼は腰を浮かせた。目を見張り、私とエインを見比べる。慎重な手つきで枚数を数えると、店主はすぐに懐にしまった。出口を顎でしゃくると、とっとと出てけとでも言うように、店主は手をひらりと振った。


「……まいどあり」


 宿を出る。その背に感じる視線は、今だ消え去ることはなかった。


「じゃあ、うまくやれよ」

「貴公こそ、頼むぞ。……遅れずにな」


 エインは頷くと、夜の闇に溶け込むように消えた。私はその背を見送り、歩みを続けた。

 石畳を鳴らす足音は、私ひとりのもの。であるはずなのだが、おかしい。小さく、視覚と聴覚しか頼れない生活を送ってきた私でなければ聞き逃していたほどの、まるで忍ぶような幾数もの足音が聞こえてきた。場所はそう遠くはないが、近くもない。あくまでも距離を取りながら、勘づかれぬよう動いている。私は左腕を振った。手練れた奴らだ。気を引き締めねばならない。

 木こりの村は流石木こりといったようで、家々は全て木製だった。吹く風がじわじわと肺を冒していくような臭いを運ぶ。村の中央では大きな木造風車が羽を回していた。よく燃えそうだ、と私は思い、左腕を振った。

 村を出る、その寸前で、木こりの男たちが立ちはだかった。――いや、木こりというには、少しガラが悪すぎるかもしれない。差し向けられた斧は、明らかに木以外のものを切ってきただろう痕が残り、黒く脂ぎっていた。


「おぉ、一人とは、俺らにもツキが回ってきたみてぇだぜ」

「ツキが回らなかったことが今まであったか?」

「ないに違ぇねぇ」


 大男が斧を鳴らして笑った。その顔には見覚えがあった。そうだ、酒場で酒を浴びるように飲み、汚い声で笑い声をあげていた男だ。さしずめ、店主とのやり取りを見ていたのだろう。それが瞬く間に伝播した、と。小さい村だと情報の伝達速度も馬鹿にならないと聞いたことがあるが、まさかこれほどまでとは。

 大男は乾いた唇を舐め、悪酔いに血走った目を細めた。


「兄ちゃんには悪ぃが、これがこの村のやり方なんでね。おとなしく持ってるもん置いてもらおうじゃねぇか」

「予想外に手頃な値段だったのは旅人を誘い込むため、か」


 そして、旅人から金銭を巻き上げ、売りさばく。この村は、賊まがいのことをして生計を立てているのだ。森の近くの小村ではよくあることだ。外界から離れた土地は、死体を隠すのも、隠れてなにかを行うにも、十分に適した土地だろう。


「冷静なのもいいが、回りを見たほうがいいぜぇ、兄ちゃんよぉ」


 背後に笑みを向けた大男。遅れてカツカツと音を立て、また別の者たちがやってくる。その存在は知っていた。今更驚くでもない。私は腰に結わえた袋を、左手でほどいた。そして、大男の方に口を下にして放り投げた。中から金貨ばかりが転がり落ちる。村の民は膝をつき、散らばったそれを卑しくかき集め始めた。大男だけは疑うようにこちらを見たままだ。どういうつもりだ、といった懐疑的な視線で。


「その程度のはした金など、くれてやるわ」


 私は手を軽く払った。ぴしゃりと音を立ててなにかが弾けた。


「――冥府の渡し賃にでもするがよい」


 大男は今までは外套で隠れて見えなかったであろう私の顔を見て、斧を振りかぶった。それよりも早く、私は呪いを唄った。


 ――Golte.――


 村に、一斉に火の手が上がった。村だけではない。石畳にばら撒かれた血が、そして私の手の甲から今まさに流れ落ちる血が、蒼く盛りを見せた。

 悲鳴が上がり、仲間が燃え果て、大男の動きは面食らったように一瞬止まった。その瞬間を、彼は見逃しはしない。黒炎は大男の顔に優しく触れた。まるで天使が口づけでもするように、そっと。それだけで大男は泡を吹いて倒れた。いくつもの命を刈り取ってゆく黒炎に、私は呪いを声高らかに叫んだ。


 ――Goltea chat e jinez norbal!――


 炎が滾るようにうねりを上げた。この村はよく燃えると思ったのだ。石畳を這うように炎が迫り、あの家々が、あの風車が炎に包まれてゆく。黒煙を上げて、人々を、まるで蛾でも燃やし尽くすかのように盛りを見せる。美しい。綺麗だと、私は笑みを浮かべた。いや、笑みはずっと浮かんでいた。滑稽なのだ。愚者が自らを驕り、他者をなめてかかる姿は。決して敵わぬというのに、自らを驕ったゆえに死す。愚か極まりない。私は声を上げて笑った。だが、それは家屋が倒壊する音にかき消された。


「ずいぶん綺麗になったな」


 人々の声もあまり聞こえなくなった時、炎の中からエインが現れた。彼の姿は焼けても煤けてもいない。返り血もない黒鉄は、炎に艶めかしく揺らいだ。

 私は村を見回した。

 体裁だけ木こりの村だったこの地には、もう緑も茶もない。石畳の灰もない。

 ただそこにあるのは、衰えを知らぬようにのたくる炎のみだ。


「森や木など、邪魔で目障りなだけだ。やはり炎だ。炎は美しい」


 炎は全てを灰に帰すことができる。人も、森も、この陰鬱と希望のない世界さえも。

 だから私は、炎を唄うのかもしれない。

 村に背を向け、私たちは歩いた。村の見えるあの丘の上へ。そして、その先に待つオルド大火塔へと。

 小高い丘の上に辿り着いたとき、私は振り返り村を望んだ。神の蒼炎に沈みゆく村――絵画のような仕上がりだ。私はしばらく時間を忘れて見入った。追っ手がやってくる、その考えをも捨て去って、炎に思いを馳せた。

 いずれこの炎は、この村のみならず、森を燃やしていくだろう。そして、また次の村を、町を襲うだろう。雨が降らぬ限り、永遠に。もしかしたら、再会する時が来るかもしれない。全てを燃やし尽くしたとき、そこに立っているのは、果たして私ひとりなのだろうか。

 くだらないことだ。ひとり私は笑う。そうに違いあるまい、と。エインは私を裏切る。いや、エインがやらなくとも私が裏切る。その時が来たら、私は平然とナイフを差し向けるだろう。

 ――果たして、本当にそうなのか?

 問いかけたのは、よく似た声の他人だ。だが、私でもある。そうだ、私だ。すっかり彼を信用しきってしまっている、まだ甘い私だ。私が問う。本当に、エインを殺せるのか、と。私は返す。それは私を力量不足だと言っているのか、と。私は妙に静かな声で答えた。私の心はそれを為せるのか、と。

 わからない。私は首を振った。少なくとも、今の私にはわからない。

 宿屋での一件で私が気づかされたのは、私は彼を信用しているという事実。そして、ただの利害の一致ゆえの関係だけではない、ということだ。だから彼が傷つくことを恐れ、私は嘘を吐いた。この世で全く必要のない嘘を。私は彼を頼っている。信用もしている。だが、同時に裏切られるのではないかとも思っている。彼に裏切られ、恐れられるのを恐れている私もいる。

 ――止めだ止めだ。私は頭に浮かんだくだらない自問自答をもみ消した。可能性でしかない事象をつらつらと並べ立てても意味はない。なにが起こるのか。それが分かるのは、なにかが起こってからなのだ。ならば、先に進むしかあるまい。

 ふっとエインに視線をやると、彼はひとり佇んでいた。外套は風に飛ばされ、その顔を露わにしている。赤い目は炎に輝くはずであったが、何故か暗く濁っていた。

 なにか、問題があったのだ。エインが私に隠して為そうとしたことに。


「……訊きだせたのか? その賊の居場所は」


 エインは物思いにふけっているようだった。細められた赤目が、ついと視線だけを送る。


「やっぱり、気づいてたんだな」

「当たり前だろう。私もそれほどまでに鈍感ではない」


 エインの故郷となっていた賊は、土地に縛られず、点々と移動してはその近くの村や町を襲っていたと聞く。そして奪えるものは全て奪い、また移動するのだ。酒場で賊の話を聞いたときの、彼の神妙な顔を覚えている。彼は疑っていたのだ。その賊とやらは、追い求めてきた仇ではないのか、と。

 エインは居場所が分かったというのに、陰気臭い顔でため息をついた。


「ちょうどひと月に一回の定住期らしい。モントシュタイルの町にいるんだってよ」

「行かないのか」


 問うと、彼は小さく微笑った。


「エルは地理も知らないのか? モントシュタイルだぜ? ……遠いんだよ。時間の浪費になる」


 ここがテレーゼの屋敷からそう遠くないと想定するなら、南東に位置している。対してモントシュタイルは北東だ。遠いといえば、遠いかもしれない。エインの顔が浮かないのは、そう言った問題を苦慮しているからか。

 ふっと、私も小さく微笑った。


「だが、遠すぎるわけではないだろう」


 行けないことはない。距離的に、馬の足なら休憩をはさんでも一週間で着く。

 私はまだ止まっていない手の甲の血を振りまいた。盛りを見せるエインの黒炎に、私は背を向ける。


「時間が惜しい、行くぞ。私とて暇ではない。そんな集団など、とっとと殺ればよいだろう」


 けど、とエインが私の肩を掴んだ。私は払いのけもせず、振り返りもせず、視線だけをエインへやった。


「遠い。時間がかかる。その程度で諦められる復讐心とは、私も貴公を買いかぶりすぎていたようだな」


 エインは返答に詰まった。ぐっと喉を鳴らし、違う、とでも言いたげな対抗的な目がこちらを睨む。

 私は笑みを絶やさず、オルド大火塔を仰いだ。


「私は憎いのだ。その憎しみはあの火の塔が如く燃え盛っている。そして、それほどに傲慢なのだよ」

「……どういうことだよ」

「もう、誰かのために自己を押さえつける必要はないのだ」


 エイン、と彼を見る。彼はもうこちらを睨んではいなかった。首をかしげていた。だが、理解していない、というわけではないのだろう。とぼけるには思い当たる節がありすぎる。だが、それは彼にとって無自覚であり、同時に分かってもいたのだ。

 それが、彼の長所でもあり、短所でもあるのだろう。


「驕れ、エインよ。誰のためにと、生きる必要はなどない。自分が成したいと思うことを成せばよい。驕れ、エイン。貴公の見る世界は、貴公が中心なのだから」


 私はオルド大火塔に目を戻した。勝手に行くこともない。エインの答えが帰ってくるまで、私はなにも言わないと決めたのだ。なにもしない。ただ、エインの返答を待つ。

 どれほど、時間が経ったろう。そんなに時間は経っていないのかもしれないし、もう一時間は経っているのかもしれない。


「……エル」


 声に、私は首を向ける。私の名を呼んだエインは、いや、と首を振った。


「エルヴィア=ヴェル=フリューギウス」


 エインの赤い目ははこちらを見つめた。その瞳は、まるで暗闇に浮かんでいるように見えた。そして、片頬を僅かに吊り上げて笑った。


「あの契約、忘れちゃいねぇよな?」


 まるで出会った時のような、設えたような笑顔と幻惑的な眼が言う。


「復讐劇の幕を上げるぞ」


 私は軽く笑った。その横柄で斜に構えた態度に、懐かしさを覚えたのだろう。


「あぁ、エイン」


 炎は未だ地を焦がし続けていた。

 闇に復讐の炎を灯し、私たちはモントシュタイルへと進んだ。

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