第19話 宿
――愛しているよ、エルヴィア。
耳元で囁かれた奴の言葉に、笑みに、吐き気がこみあげてくる。だが、なによりも吐き気が催されたのは、そんな薄っぺらい言葉を受け入れかけた私がいた、という事実だ。
されど、もう奴はいないのだ。
自らの手にかけられなかったことは悔やまれるが、奴はもういない。奴は死んだのだ。この私の連れによって、長き生が一瞬で砕かれたのだ。
燭台に揺れる炎が瞼の先で眩しい。上体を起こすと、ボロ布と大差ない掛布団が床に落ちた。視線を落とすと、そこには痩せこけ傷だらけの上半身があった。脇腹に包帯が巻かれてある。薬品かなにかの、妙に鼻に突く刺激臭が漂っていた。
「……エインか」
丁寧な巻き方に、何度も嗅いだこの独特な刺激臭は、エインによるものだ。彼によって、私の傷のいくらかは痕にならずに済んでいる。この醜い体に、さらに醜い傷を刻むことはなくなっていた。
私はすっかり塞がって痕も消えた手の甲の傷を撫でる。エインと初めて会った日、瓦礫で貫いた時にできた傷だ。裂いた腕も、すっかり元通り。彼が常に包帯を変えてくれたからだ。毎朝毎夜、決して欠かすことなく。
――四大が無けりゃ、俺はただの木偶だ。
自虐的な笑みを浮かべたエインの顔が脳裏によぎる。
彼の復讐物語を完成させるためには、私のことが――いや、私に流れた神の血が必要なのだ。だから、決して死なせるわけにはいかない。正確には、私は死ねないので、エインとの同行を断られるわけにはいかない、といったところだろうか。傷口が化膿した。蛆が湧いた。そんなことでこの復讐の旅を中断されては、初めに交わした悪魔の契約が破棄されては困る。だから、彼は私の身を傷を、死ぬ気で治療する。
理解している。それは、私も理解している。
もともとそれだけの関係だ。復讐が終われば他人。殺すも生かすも、復讐を終えたなら自由。その代わり、その時までは、同じ復讐鬼として敵対しない。ただ、それだけの関係だ。
だが、なぜだろう。私は消え去った手の甲の傷を撫でた。
なぜ、少しの寂しさを感じているのだろう。
「……いや、気のせいか」
気のせいに違いない。私はそう思うことにした。私が寂しさを覚えている? 一体なにに対してというのだ。自分に向けた嘲笑が部屋に響く。断じてない。気のせいだ。ただの気の迷いだ。そうだ、その言葉がしっくりくる。気の迷いに違いない。私がエインとの別れを惜しんでいるなど、気の迷い以外に他ならないのだから。
そういえば、ここはどこなのだろう。完全に目覚めた私は辺りを見回す。白の木材で作られたベッドに机に椅子。白の木で組まれた、白を基調とした部屋だ。耳を澄ませば下から聞こえてくる男女の笑い声。一階は酒場か――としたら、まさか、ここは宿屋か。
「不用心にもほどがあるぞ……」
黒ローブの男が二人、怪しまれなかったのだろうか。いや、怪しまれたに違いない。そもそも得体のしれない馬の骨を招くほど、今の民の心に余裕があるとは思えない。ならば、なぜ、私はここにいる?
「いや――まさか」
はたと、私の脳内に一つの憶測が浮かんだ。
まさか、私は、すでにエインに裏切られていて――。
木窓を開けると、微かに胃を掴み上げるような不快な臭いが鼻をついた。外は夕日が沈みかかっていて、地平線の彼方は赤く燃えている。薄い星明りに照らされたこの地は、森林を切り開いた小村であるようだ。林業を営む村なのかもしれない。その割に石畳が整備されていて小綺麗だ。国の息がかかっているのかもしれない。もしかしたら……そんなことを考え、私の気は急いだ。窓から見下ろして、私は唾を飲み込む。やはり二階建てという見立てに間違いはなかった。足をくじくかもしれないが、飛び降りて死ぬことはない。窓枠に手をかけた、その時だった。
「お、起きたのか」
扉を開いて顔を出したのは、エインだった。その手に水桶とタオルを持っている。彼は私を見るなり、眉を顰めた。
「……なにやってんだ?」
その、心底不思議そうな、怪訝そうな顔を見、私はいそいそと窓枠から手を離した。
「……涼んでいただけだ」
なぜ、嘘をついたのかは分からない。だが、本当のことは言えなかった。
貴公こそ、と私はエインを見る。
「なにをしていた? それに、ここは一体どこなのだ?」
おとなしくベッドにつくと、エインはまだ怪訝な顔でこちらを見ていた。私は手で顔を仰いだ。生ぬるい風が肌にまとわりついて気持ち悪いので、すぐにやめた。エインはふっと鼻で笑うと、椅子を引っ張ってベッドの側に腰かけた。ベッド脇に水桶を置き、彼はタオルを差し出す。
「とりあえず洗えよ。ほら、さっぱりするぜ」
ふと背を撫でると、想像以上にべたついていた。変な汗をかいたからだろうか。エインの言葉に逆らう気はなかった。
桶の水はとても冷たかった。それは、指先が凍え、割れてしまうのではないかと思うほどに。井戸水なのだろう。綺麗な水に浸したタオルで体を拭っていくと、まとわりつくべたつきもマシになった。けれども、その全てまでは拭い切れない。拭えないのは、体についたべたつきではないのかもしれないと思った。
「……なんか、意外だな」
エインが小さく零した。手を止め、彼の方を見る。
「お前が嘘つくなんてさ」
その顔には、自虐的な笑みが張り付いていた。
私はしらを切るつもりだった。なんのことだ? そう問おうとしたが、声が思い通りの言葉となることはなかった。
「……うそ、など」
掠れた声しか出なかった。エインはいいのさ、と軽く手を振った。
「俺だってそうしてたさ。ご法度の俺たちが怪しまれないわけがないんだ。そもそも俺たちは裏切られる覚悟の契約だろうが」
あ、ぁ。あぁ、そうだ。裏切られる覚悟があっての行動だった。でも……そうだ、私はなぜ彼に嘘をついたのか。正直に言い通しても、なんら問題はないにも関わらず……。
エインは崩れてしまいそうなほどに儚い、そして自らを壊してしまうほどに強い、自虐の笑みを向けた。
「……でも、そう思ってたのは、俺だけだったのかもな」
嬉しさと悲しさの入り交じったような真っ赤な目を見続けることはできなかった。私はタオルを取り、肌を拭うのを続けた。水が肌に染みたが、気持ち悪さは拭えぬままだった。
ある程度で我慢した私はベッドに横たわるよう告げられた。包帯を付け替えるそうだ。こまめに変えなければ蛆が湧く。それは私も嫌だ。
包帯をほどかれた先に見えたのは、赤い脇腹だ。流れた時間が経っているのか、乾ききっており、息を吹きかけて粉が舞うほど。エインはその血を、丁寧に、されど力強くタオルで拭っていった。私は歯を食いしばってその痛みに耐えた。
私の――いや、彼自身のか――苦しみを和らげるためか、エインは茶化すように笑った。その顔に暗い陰を落としたまま。
「親を殺すのは、やっぱりいざとなったら堪えたみてぇだな」
――居心地が悪いのは私だけではない。
話を変えてくれたエインに心の内で感謝しながら、私はできるだけいつもの調子で答える。
「あんな男でも、たった一人の肉親だからな……正直に言って、少し揺らいではいた」
相槌を打ちながらよく分からない小瓶を取り出したエインは、それを布に染みこませた。
布をひらりと振り、彼はウインクを投げかける。どういうことだと首を傾げた、その時だった。
「――っ!」
全身に痺れにも似た激痛が走り、私の体は意思なく跳ね上がった。まるで傷口から神経が裂かれていくような痛みだ――ぼんやりと滲み始めた視界の先で、エインの笑みだけが明瞭に映る。
「ごめんごめん、傷抉っちまったかもしんねぇな……で、それは嘘じゃねぇんだよな?」
「むろ――ぃっ、無論だ」
エインはまるで私の反応を楽しんでいるようだ。彼が布を押し当てるたび、全身に衝撃と激痛が走る。そんな薬品をいつも倒れている間につけられていたのかと思うと――背筋が怖気立つようだ。
別の薬瓶から、彼は得体のしれないものを取り出した。薬草……なのだろうか。薬草のようなそれを押し当てられ思わず体が強張ったが、先ほどのような痛みはなかった。ひんやりする感覚が、むしろ心地いいくらいだ。その葉を私の体と共に巻き上げ、巻き直しは完成したようだ。上体を起こした私に、彼は医療一式を鞄にしまい込みながら告げる。
「まぁ、なんか安心したな。親を容赦なくぶち殺せるなんて、それこそバケモノの所業さ。お前はまだ、立派な人間なんだろうな」
「そう考えると、私自身、捨てたもんじゃないのかもしれんな。……それに、一応は残っているのだ。奴がまだ父であった頃の記憶はな」
狂気に触れる前の奴は、人並みには良い父であったと思ってはいる。病気がちな私を気遣い、退屈せぬよう道化を呼んだり、詩人に詠わせたりしたこともあった。養生のためと、テレーゼの故郷に行ったのはいつのことだったか。楽しかった頃も、少なくともひとつもないというわけではなかった。
だが、と私は窓の外を見つめた。
「たとえ人の道を越えたとしても、神になろうとまでしていたとは思っていなかったのだ……」
奴を形成する要素があるとするならば、奴は驕りが全てだった。驕りによってなされ、驕りによって全てを失ったのだ。
神を騙って、自らを驕った。
その顛末があのようにあっけないものであるなら、ずいぶんお似合いだろう。
ふと目を戻すと、エインが難しい顔をしていた。なにかが出てきそうで出てこない。そんな顔で、ただ一点を見つめている。
そういえば、と私はあの屋敷でもエインが苦しそうだったのを思い出した。
「エイン、貴公はあの実験室を知っているのではないか?」
宿所での苦痛に歪んだ表情。そして、今回。
あの実験室を見るたび、彼は苦しげに頭を押さえていた。そしていつも、彼は繰り返す。なんでもない、と。自分に言い聞かせるように。途方に暮れた顔で。
ただ不快であるなら、そうはならないはずだ。吐くなり顔を顰めるなり、いろいろある。だが、心細さと不安が入り交じったような、自分でもなにがなんだかわからない。途方に暮れたような顔を、果たしてするだろうか。
だから、私は考えた。彼は見たことがあったのではないか。知っているのではないか、と。
問いに、エインは目を合わせずに答えた。
「分かんねぇんだ……見たことあるのかもしんねぇ。でも……思い出せねぇんだ……だから、思い違いなのかも」
記憶に届きそうで、届かない。もどかしげに彼は下唇を噛んだ。
これ以上聞いては駄目だ。私はそう思った。思い違いであるなら構わない。だが、それを本当に見ていたとしたら。ただ忘れただけでも結構だ。もし、忘れさせられた、あるいは忘れてしまいたくて忘れてしまったとしたら……。彼の記憶に眠るのは、印象にも残らない程度のもの、というわけではないのかもしれない。
話を変えよう。私は流されて消えた質問に戻した。
「私が振っておいてだが、その話は後にしよう。今考えてもキリがないだろう。それより、さっきの問いに答えてもらおうか。ここはどこなのだ?」
エインはまだ記憶を掘り起こそうとしていたが、無駄だと思ったか、大きなため息をついた。そのまま私の問いに答える。
「あの屋敷からそう遠くねぇ。林業で生計立ててる、名前もねぇような小さな村さ」
「名もないような村であるのに、整備されて活気があるのだな……」
「おいおい、エルを背負ってここまで来た、その礼は無しか?」
「感謝はしている」
「それは偉そうにどうも。
――まぁ、問題なのはそこだ。無駄に綺麗すぎる。ここから考えられることは……わかるよな?」
「無論だ。私もそこまでの世間知らずではない。森の中の小さな村。なにかを隠すにはぴったりだ」
「そういうことだ。じゃあ、やることは分かってるよな?」
私は立ち上がり、ローブに袖を通した。机に転がるナイフを刺し、外套を目深に被る。
「あぁ、なるべく、穏便にだ」
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