第18話 愛した人

「一度ゆっくり話をしたいと思っていたのだ」


 のらりくらりと歩み寄るエルヴァーリオは、私から三歩先のところで止まった。


「……くだらない。私が貴方と交わす言葉など、一言たりともございません」

「お前の母テレーゼと、このフラスコの中身についてだ」


 そう言って、エルヴァーリオは愛おしむようにフラスコを撫でた。その粘着質なまでの手の動きに、愛憐の念に満ちた瞳に、私は一歩後ずさった。フラスコを見上げる。そこには女のような形のなにかが沈んでいるだけだ。そう、女のような――。


「そんな……っ」


 私は口を押さえた。目を見開いて、信じられない――いや、信じたくないと、フラスコの中を見つめるほかなかった。

 神殿近くの屋敷で見た、おぞましい実験の数々。溶けた老婆が語った論理。

 あぁ、フラスコの中で浮き沈むなにかは――。


「そうだ」


 この悪魔のような男に抱いていた感情から、軽蔑の思いが薄れていった。いや、薄れていったのではない。軽蔑に勝る感情が、軽蔑を呑み込んでいったのだ。

 エルヴァーリオはおぞましいまでの、されど幸福げな、それこそ愛情を湛えるような笑みを張り付けて、フラスコの中身を見つめた。


「これは、テレーゼになろうとしていたものだ」


 エルヴァーリオは本当に狂ってしまったのだ。

 憐れみと、彼に対する恐れが募る。

 悪魔のような、ではない。

 彼こそが、悪魔であったのだ。

 悪魔は語りだした。ただ茫然と佇むだけの私だが、その話だけは、なぜかすっと頭に入り込んで溶けた。


「人がなにで構成されているかは、エル、お前も知っているだろう? そうだ、肉体と魂、その二つが合わさって、人となる。その肉体はどうすればいい? あぁ、創ればよいのだ!四大と四大とを繋ぎ止める要素、虚無の存在が確認された今、不可能ではない!」


 どこかで聞いた言葉だった。どこかで聞いたことのある話だった。

 どれもこれも、妄言に違いない。妻と一人息子を失い、気が触れてしまった男の妄言なのだ。だが、そう納得してしまうには、エルヴァーリオの瞳は純粋すぎていた。曇りひとつ存在していなかったのだ。


「この装置がなにか、だろう? この装置はテレーゼの新たな舞台なのだ。母胎なのだ!テレーゼを育み、テレーゼを産む。そのための、いわば母のようなものなのだ!」


 熱を持ち、その骨の浮き出た細い喉から到底出せないであろう大声で、エルヴァーリオは叫ぶ。執拗にフラスコを撫でる彼の姿に、私は思う。

 あぁ、エルヴァーリオも毒されてしまったのか――。


「……なぜ、何故です」


 絞り出せたのは、たったそれだけの掠れた声だった。

 先ほどまでの笑顔はどこへ消えたのだろう。彼は顔を歪めてフラスに拳を叩きつけた。


「テレーゼなき世界に、どんな意味があるというのだ!」


 気泡が浮かび上がり、水が振動する。――微かに、女の形が歪んだような気がした。


「私は報復した! テレーゼを殺した奴らに、復讐をした! だが! それだけでは!! ……テレーゼは、帰ってはこないのだ……っ!」


 エルヴァーリオが怒鳴り声を上げるたび、私の肩は意思なく跳ね上がった。寒くもないのに、体が震えあがっている。これは……奴への怒りなのか? いや、違う。これは、怒りゆえの震えなどではない。ならばなにか? まさか、そんなわけがない。私は奴を、奴相手に恐れを抱いて――。

 肩で息をしたエルヴァーリオは、ふっと目元を緩めた。その口に自虐的な笑みが浮かぶ。


「……理論は完璧だ。されど、理論が全てではない。私には才能が足りなかった。テレーゼは、見ての通り今やただの半固体。人でなければ、もはや生物でもない。……もう、彼女には会えない」


 自分に言い聞かせるように呟き、彼はフラスコを見上げた。何度も強く叩かれたフラスコの中の女は、水が波打ったためだろうか、歪なバケモノのようになっていた。いがみきったその姿には、もう人の面影はない。でたらめに形成された粘土細工のようで、水中を漂っていた。

 私は震えていた。見ていられなかった。エルヴァーリオが恐ろしくてたまらなかったのだ。人の業を越えようとしたこの男が、怖くてたまらなかったのだ。しかし、目は彼に釘付けになっていた。悟られてなるものかという意地がそうさせたのだろう。それは――なぜだろう。親に叱られた子どもの、決して泣くものかという意地に似ているような気がした。

 されど、とエルヴァーリオは続けた。


「もう、よいのだ。彼女は帰ってこない。その事実は、いかなるものであっても、神以外の者に捻じ曲げられることはないのだから」


 彼はフラスコの側のコックを開いた。しゅごーと蒸気が吹きだし、別の噴出口から液体が漏れだす。フラスコの中身が減っていく。鼻を曲げるほどの、人の組織という組織をばらしてかきまぜたような臭いが立ちこめていた。確かに半固体だ。人ではないが、人の片鱗は見える。

 それに、と彼は私に手を差し伸べる。


「私には、息子がいる。かけがえない、妻が残した、エルヴィア、お前という宝物があるのだから」


 エルヴァーリオが一歩歩みよった。私は一歩下がる。

 恐ろしい。その言葉が、たまらなく恐ろしい。


「共に暮らそう、エル。お前に流れる神の血などどうでもいい。もう一度、やり直そうではないか。家族二人だけで、お前を断罪することのない、どこか遠い所へと」


 私はナイフを取り出そうとした――動揺している。震える手ではうまくいかず、その手はエルヴァーリオに掴み上げられてしまった。ナイフがからんと音を立てて落ちる。

 目の前で男が、悪魔が、精一杯の詫びの顔を作り上げた。

 恐ろしい。その顔が、表情が、たまらなく恐ろしい。


「あぁ、怖がらせるつもりはなかったのだ。すまない、私がいきなり怒鳴るなどしたから……」


 悪魔は、その顔に笑みを湛えた。まるで怯える子をあやす親のように。

 恐ろしい。その笑顔が、不気味に輝く眼光が、たまらなく恐ろしい。


「もう、安心してもいい。なぜなら、もう誰もお前を怒鳴ったりはしないのだから」


 そして悪魔は、私の腰に腕を回し、耳朶を噛むように囁いた。


「愛しているよ、エルヴィア」


 ――刹那、鈍い音が響いた。崩れ落ちた悪魔はエルヴァーリオ。背中から突き出した銀が一息に引き抜かれる。悪魔の背後で、黒い炎がゆらゆらと鈍く揺らめいていた。


「あぁ、何故なのです……」


 私は虫の息のエルヴァーリオを見下ろした。


「ならば、何故ナイフを手にしているのです……」


 脇腹に感じる生温かい水気と、躍り高ぶる血潮。ぼうっと、視界にぬばたまの靄がかかっていく。微かに枯れた声だけが響いた。


「あぁ、お前の……言う通りでは……っ」


 迫りくる地面に、私は思う。

 お前とは、一体――。

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