第16話 屋敷
四大の香りが、鼻を撫でていった。
テレーゼのことなど、もう記憶の沼底に沈み切って忘れ去っていた。私はその暗黒に濁った沼底を覗き込み、そこから糸を垂らし、テレーゼを掬いだす。
なぜ、私は母であった人を忘れてしまったのだろう。
それは明確だ。
エルヴァーリオが忘れさせたからだ。
母はいた。だが、知らぬ間に、私が意識せぬままに、消えていた。どこかへ行ったのだ。あるいは、死んでしまっているのかもしれない。
私にとっては母とは、その程度の人間であったのだ。
幼き頃、消し去った記憶の跡を辿るように、流れる小川を遡る。もともと貴族の出であったイヴェール家の者たちは、この村へ移住すると、民と交わることを避け、酪農を営むこともなく、森でひっそりと暮らしていたという。村で水車を回していた小川の水、それを辿った先に、その家は存在していたはずだ。
「こんな森に……って、とんだ変わりもんだな」
私の後を続いていたエインがいつもの陽気な声で呟いた。
「国王の奥方はこんなとこで暮らしてたなんてな……てっきり貴族の出だと思ってただけに、驚きだな」
森を見渡して、エインはほうっと息をついた。その足が濡れることを厭わず、彼は小川の流れに逆らい歩く。彼が踏みしめると水が辺りに飛び散り、森の木々はその色を濃く示した。
「よっぽど、運命的な出会いだったんだろうな」
「そうでもないそうだ。イヴェール家は薬学において名門だったからな。病んだエルヴァーリオを助けたとかなんとか……そんなくだらん話だ」
「へぇ、まぁロマンチックじゃねぇか」
「心にもないことを」
言うと、彼は肩を竦めて舌を出した。でもまぁ、と彼はふっと仰ぐ。
「でも、こんな森の奥に住むなんて、やっぱ変わってるよな」
改めて吐き出された言葉に、私はひそかに同意を返した。
この森の歩きにくさは異常だ。大樹の根は這い、草は生い茂り、水はたびたび深く沈みこむ沼のようになっている。まるで、外界からの侵入者を――獣の類でさえをも、拒むようだった。
なにかを隠すにはうってつけの場所だ。
四大の脳を蕩かすような匂いは、鼻をついて離れぬほどになっていた。血が疼いている。エインの黒炎も激しさを増しているように見える。
鬱蒼とした森は昼間と言えど、光を通さず薄暗い。地を這う清流は、細く、早くなっていく。水に濡れた冷たい足元に、肌寒い風が染みる。少しでも暖を求め、私は枝を折り取って血を浴びせた。呪いを添えると、瞬く間に炎が燃え上がる。ぼんやりとした蒼い光は、森の陰鬱さを深めた。
その炎が照らし出した先に、屋敷はあった。
蔦に抱かれた巨大な屋敷だった。シンメトリーと装飾窓の美しい石造建築の屋敷は、森に風化するかのようにひっそりと佇んでいる。なによりもその目を引いたのは、屋敷を覆いつくす、庭先に植えられた花々だ。
「これ、全部キルヒェか……?」
庭に侵入したエインは、驚愕を隠せぬままに花々を見つめた。私は近くの花を手折り、その花弁を破壊した。一瞬の衝撃のような波動が広がり、血が疼くのを感じる。
「あぁ、間違いない。ここにある花々は皆キルヒェだ。おそらく、花だけではないだろうがな」
エインは転がる石を剣で砕く。石は半分に割れると、透明な液体を流した。血が滾る。エインの炎が激しさを増す。その炎につられるように、しゃらりと蝶が舞った。その翅は薄く透明で、微かに風を感じるものだった。
恐らくは、ここにあるすべてのものがキルヒェなのだ。花々だけでなく、転がる石ころも、空を舞う虫たちや、獣までもが。
「一体、どうやって……」
「さてな。ただし、良いことを行っているわけではなさそうだ」
キルヒェは自然に、四大に満たされたところで生まれるものであり、希少なものだ。それにも関わらず、この場所は四大の発生源ではない。されどキルヒェは存在しており、四大はこの地に満ち満ちている。
つまり、誰かが人為的に四大を生み出した可能性がある、ということだ。
錆びつき、蔦のよりあった門扉を押す。ぎいと軋んだ音を立てると、枯れた葉が崩れ落ちた。庭を抜け、玄関へと向かう。扉を開こうとしたとき、エインは今更のようなことを口にした。
「そういや、なんで誰もいないんだ?」
心底不思議そうなエインに、私は呆れてため息をついた。そして、いずれ人が死ぬよりも自然なことを言ってみせる。
「仮にいたとして、なんだというのだ。殺せばよいだけだろう」
これが噂の空振りか、あるいはエルヴァーリオの罠であるということは私も承知の上だ。だが、あのように矮小でただ傲慢なだけの人間に、なにができるというのだ。
「それもそうだな」
合点したエインは、剣を引き抜いて鍵を壊した。蹴破られた扉を進み、彼は振り返る。
「とっとと始末しちまおうぜ。それがエルの、復讐物語の幕上げなんだろう?」
そう言ってのける危機感のない彼に、私は含み笑いに頷いた。
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