第14話 エイン

 ぽつぽつと、濁った雨が灰を流していった。

 集落の裏の森には、巨大な木があった。終わる世界だというのに、逞しく枝葉を伸ばすそれは雨宿りにふさわしい。空に光が差す様子は見られない。激しくなる前に雨宿りする場所を確保しておこうという私の提案を、エインは否定しなかった。

 辺りにはたくさんの花が咲き乱れていた。淡い黄色の逆さラッパの花、カクラギだ。しかし、ほんのりと花の中が揺らぐように赤い。ランプのように明るいのだ。花を覗くと、めしべには小さな炎が燻っていた。どうやらキルヒェらしい。私もエインも十分な力を発揮できる、いい場所だ。それにもかかわらずその黒炎の腕が力なく揺れているようであるのは、私の気のせいに違いない。

 キルヒェと化していないカクラギに血を注ぎ、水を生み出す。先ほどの村で採ってきたブドウを添えて、私はエインに差し出した。


「血でできてはいるが、清浄水だ。これでも飲むといい」


 エインは受け取ったが、口をつけることはなかった。カクラギのグラスを見つめ、彼は呟く。


「……ごめん、エル」


 その横顔を、カクラギの小さな炎が揺らす。

 エインが目を伏せたのは、合わせたくないという意思も含まれているからだろう。彼の気持ちもわからないではない。計画を台無しにした手前、おめおめと顔を晒すなどできないはずだ。

 ――しかし。私は問う。


「謝罪など、私は求めてはいない。貴公が赦しを乞うというのなら……話してくれないか?貴公が異形となり果てた、その訳を」


 これを訊くのはエインの事情に踏み入ることになるのではないか。私たちは別に親しい関係じゃない。親しくなろうともしていないのだから。

 そう考え、ずっと尋ねるのはためらい続けていた。だが、いい加減、その訳を知らないまま手を組むのは辛いものがあった。尋ねるときがあるとすれば、それこそが今だろう。

 エインとは、一体なんなのか。


「……分かった。いずれ話さなきゃなんねぇと思ってたしな」


 そうして、彼は静かに口を開いた。




「……俺は、ただの人間だったんだぜ?」


 透き通るような白の肌と髪、ワインレッドの瞳。体つきは今では考えられないほど華奢な少年であったが、その明るく朗らかな性格ゆえに、人から好かれていたという。いわば絶世の美男子だと、エインはいつもの調子に一欠片の虚しさを孕ませて笑った。


「裕福ではなかったよ。賊みたいなのやってたし、おまけに足も悪かった。でも……少なくとも、お前よりは幸せだったと思う。気分を悪くしたなら謝るよ」

「いや、全くその通りだ。裕福で、だからなんだというのだ」

「だよな。お前の話聞いてると、金持ちも楽じゃねぇなって思うしな。――でも、やっぱり憧れるもんなのさ」


 途端、エインの声が低くなった。カクラギのグラスを手で弄びながら、彼は続ける。

 ――話は、今から三年前にまで遡るそうだ。


「俺は割と規模は大きい賊の仲間だったんだ。街や村をぶっ潰して、たまにそこに定住する。ある時俺たちが狙ったのは……馬鹿なもんだよな、北の聖堂だったんだ」


 決行は夜だった。複数だとバレる。だから小柄な彼はひとりだった。四大の力に驕った神が自らを示すために建てた、絢爛豪華な聖堂。そこには神が街の民から集めた財産が眠っているという。その街は、彼が生まれ育った場所にあった。

 仲間の期待を背負い、彼は聖堂へと降り立ったのだ。


「その結果が……」


 エインはあぁ、と頷き、その黒く燃ゆる腕で黒鋼の体を撫でた。


「このざまさ」


 昆虫のような下肢に、より合わさった黒鋼の角。頭から熔鉄を被ったような今のエインの姿には、彼が語る、かつての面影はない。

 彼は自嘲的にはんと鼻で嗤った。


「それでも、俺は信じてたんだぜ。滑稽なことだよな。まだ俺は人間だ、エインだって、信じて疑わなかったのさ。――だけど、それはただの幻想に過ぎなかった」


 彼を待っていたのは、その姿に対する恐れゆえの差別に他ならない。

 ――そうして彼は、見捨てられた。


「この姿は、どうやら見るもの全てに恐れを抱かせるらしい。人だけでなく、動物、そして植物でさえも、俺を恐れたんだ」

「じゃあ集落で馬や牛が恐れていたのは……」

「俺の、この姿にさ」


 その時になって、私は理解した。

 だから、エインは動物たちを避けていたのだ。生物は刻み付ける。自分は、人でなくなってしまったという事実を。

 それが、どれほどの苦痛であろうか。人と姿の変わらないバケモノに、その気持ちの全ては理解できまい。


「虐げられ居場所を追われ……死のうと思ったさ。それこそ、何度も何度も、死のうとした。この炎で、自分さえも焼いてしまおうと思ったさ。けど、その度に誰かが問いかけるんだ。このままでいいのかってな」


 突如、エインの瞳が妖しく輝いた。瞳に炎を映したように、妖しく、ゆらゆらと。

 その姿は、誰かに似ているような気がした。

 ――このまま生を終えてよいのか。何事も為さぬまま、ただ虐げられたまま、その人生を終えてもよいのだろうか。

 低く、甘く囁く声に、エインの中の黒き炎は燃え盛ったという。

 なんだか、訊いたことのある言葉だと、私は思った。


「でも、確かに思ったんだ。このままで終わっていいのかってな。これは因果応報と切り捨てていいものなのか? 確かに、盗んだのは俺だ。その因による果なら、潔く俺は死んださ。だけど、俺だけが盗むに至ったのは、仲間たちだ。俺が賊に堕ちたのは、自らの権威を驕った神だ。その因は、果たして本当に赦してもいいものなのか、ってな」


 そして、エインの心は、復讐の炎に燃やされてしまった。もはや彼にこれまでの人情など残っていないのだろう。この黒く歪な姿は、復讐に染め上げられた心の表れだったのだ。

 雨が激しさを増す。彼の横顔がひどく歪んで見えたのは、雨風にランプシェードが揺られたからであろうか。


「……なるほど、貴公の復讐心は、驕れる神と、貴公に責任を押し付けた愚かな者たちへ向けられたものだったのか」

「……実を言うと、それだけじゃなかったんだがな」


 ふっと、エインの顔が切なげな影を帯びた。


「憎くて憎くて、何度も殺そうとしたヤツが、もう一人いたんだ。……でも、どうしてもどうしても、殺せなかった」


 そしてエインは、切なげに細められた目を、こちらへと向けた。


「エル、俺は、神を殺したお前を殺したくて仕方なかった」

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