第12話 秘密
聖ロンダイト王国はワインや植物性油、オルド牛などを輸出し、その他の農作物を輸入していた。生活の基盤となる小麦などは属国とした国から送られてくる。それらを得るために、いったいどれほどのものを犠牲としてきたのだろうか。ただ命ずるだけの者に、そんなことなど考えたこともないであろう。この元あった豊かなる土地も、愚かなる人間の私欲を満たしたがゆえに、崩壊を迎えることになるのだ。牛の間延びした鳴き声。鳥のフルートのようなさえずり。透明な清水、揺れる草花。青々しく実る豊かなブドウの房も、皆、すべて。
それに気づいているのか、いないのか。死に腹を括っているのか、ただ鈍感なだけなのかは知らないが、まったく暢気なものだ。
その様は、見ていてぶち壊したくなるようだった。
広大なブドウ畑では、子供も老人も、皆がせっせとブドウを収穫していた。収穫期なのだろう。私の姿など眼中にもない様子だ――と、思っていたが、どうやら違うようだ。ちらちらと目が合う人々、目配せし合う人々。機敏さは、次第にせわしなさに見えてくる。
「……すみませんが、」
近くのブドウ畑に埋もれた女に問いかける。顔を上げた女は、一瞬眉を困惑げに寄せた。それは本当に一瞬のことで、次に見たときにはこのブドウのようにみずみずしく、爽やかな笑みを浮かべていた。
「あら、神官様。どうかされたのですか?」
赤茶けた顔の、見るからにこの世界の崩壊など知らぬような、愚鈍そうな女であるが、どうやら相当な演技派であるようだ。収穫したひと房のブドウを籠に詰め、丁寧なお辞儀などして見せてくれた。このローブのおかげだろう。神官だと思ってくれるのは、こちらも都合がいい。――いや、このローブのせいで、彼らは私を嫌厭しているのか。
「エルヴァーリオ様を探しているのです。最近この辺りによく来ていると聞いたのですが……王の所在を知りませんか?」
「教皇様、ですか……」
さっと、女が目配せしたのを、私は見逃さなかった。やはり、この小さな村にはエルヴァーリオへ繋がるなにかが隠されている。なにゆえ隠蔽するのかは分からぬが、ここで食い下がるわけにはいかないだろう。
「神官様なら、教皇様の居場所を知られておいでではないのですか? それに……一体どうして教皇様に?」
女はこちらに問いかけた。私を試すように、私の腹の内を探るように。
これは、この村との一種の駆け引きなのだ。
「エルヴァーリオ様は最近、ふらりとどこかへお出かけになることが多いのです。私たちのような下々には、行先など告げず……」
女はその顔色を変えない。これはあくまでも公然の事実にすぎないからだ。大切なのは、いかに彼女らの同情を煽るか、なのだ。
私はあぁ、とため息交じりに呟く。
「エルヴィア様が見つかったというのに、王は一体どこへ……」
クレオール教の同情心を煽る、最高の文句を。
女の顔色がはたと変わった。恐らくほかの村人たちにだろう、目配せをすると、彼女はほうっと息をついた。
「そういうことでしたら、早く仰ってくださればよかったのに……案内の者を用意させていただきます。しばしお待ちを」
女が手招くと、別の女が集落の方へ駆けて行った。案内の者とやらを呼びに向かったのだろう。結構な厳戒態勢である。一体、奴はどこにいるというのだろうか。
遠ざかる後ろ姿を眺めていると、横から声が飛んできた。
「……すみません。内密にするようにと、教皇様から言われておりまして」
女はそう言うと縮こまった。伝える者を制限するなど、奴は一体、この目障りなほど眩しい自然しかないようなこの地で、なにを為しているというのだろう。
「エルヴァーリオ様は、ここで一体何をなさっているのです?」
「私にも、分かりません。おそらく、この村の者は誰一人として知らないでしょう」
ただ、と女は想いを馳せるように、遥か遠くを見やった。
「……ただ、泣いておられるのでしょう。エル様と、イヴェール家のために」
「……イヴェール?」
どこかで、聞いたことのある。どこで聞いたのかは、思い出せない。
ただ、なんとなく――懐かしい。
「エルヴァーリオ様は嘆いてらっしゃいますでしょう? そして、一人でお悩みになっている。その姿は、とても見ていられんません……」
「……そうですね」
そんな演技を信じているなど、やはりこの女は正真正銘の愚者だ。あの男は、今もなお野心にその胸を焦がし続けている。私など、どうでも良いのだ。あの男にとって、私は世界のための犠牲であれば良いのだろう。
女はブドウを一房ちぎり、空を望んだ。
「私たちにできることは、終わる世界で、ただ一人生き永らえ続けるエル様が飢えないよう、ブドウを育て続けるだけ。それが、私たちに残された唯一の贖罪なのです」
――飢えないよう?
女は疑問を湛える私には気づいていないようで、ブドウを籠に放り込んだ。上品な紫の輝きが太陽に艶めく。また一房摘み、女は私に問うた。
「エル様は、このブドウをおいしいと言っておられましたか?」
私は牢を思い出す。辺りに散乱する腐った食物たち。その中に、果たしてブドウはあっただろうか。
「……さぁ、何分、私は下々の者でして」
適当に答えると、女はそれもそうですね、と小さく笑った。その眦に、悲しそうな光を添えて。
エルヴァーリオは、農夫たちに作物を奉納するように命じたのか? 私のため? あるいは、単に税を取り立てるため? ――だが、それならば、私の牢で腐敗した食物たちは一体……。
「大丈夫ですか?」
声に、ふっと焦点が合った。どうやらぼうっとしていたようだ。私は手を振って笑う。
「すみません、ただの貧血です」
「いいえ、仕方ないことですよ。王宮ではとても忙しいそうですしね」
女ははにかむと、切なげな視線を遠方へ投げた。
「……皆、疲れてるんですよ。だから、エルヴァーリオ様はここへやってきた」
「それは、なぜ?」
うっかり問うと、彼女は一瞬眉を驚きにか、吊り上げた。そして、少し馬鹿にするように眉を下げる。
「……神官様は、相当お疲れのようですね。少し休まれたほうが良いのではないですか?」
「……それには及びません。休んでいる暇など、もはや残されていないのですから」
取り繕うように言うと、女は確かに、と頷いた。
「それもそうですね」
女は収穫を続ける。私は広がる集落の方を見やった。
この村は――一体なんだ?
女の反応を見るに、この地は有名な場所であるようだ。それも、エルヴァーリオに関係のある有名地であるらしい。
――それに、だ。
遠くから見たこの地の景色。イヴェールという家名。
懐かしみを覚えるのは、一体なぜなのか。
「来ましたよ」
隣で女が水車の先を指差す。そこでは先ほどの女性と老人が立っていた。あの老人が、女の言っていた案内の者なのだろう。
籠いっぱいのブドウを抱えた女は、私に告げる。皮肉げな笑みを口元に乗せて。
「彼についていけば、連れて行ってくれることでしょう。テレーゼ様の――テレーゼ=イヴェール様の家へとね」
――テレーゼ……!?
では、と籠を抱えて段々畑を下った女の背に、私は呟く。
「ここは……母の故郷だったのか……!?」
テレーゼ=ヴェル=フリューギウス。旧姓は確か――イヴェール。今は亡き、私の母であった人だ。
そうだ、確かにそうだ。幼い頃、ぼんやり滲んで薄れた記憶の断片が甦ってくる。この村は、母テレーゼの故郷だ。母が死ぬ前、ちょうど私が3歳の頃に一度だけ来たことがあった。もう、その名すら忘れかけていたというのに、またここにやってくるなど……。
――エルヴァーリオは、なにを考えているというのだ?
今更テレーゼの故郷に、一体なんの用があるというのか……。
ふと、耳がノイズを捉えた。地鳴りのような音だ、そう思った時だった。
「暴れ馬だぁぁぁあああああああああ!!」
耳に響いたのは、誰かの悲鳴だった。
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