第10話 追憶B

 王立研究所に入所する条件は、才能にあるらしい。その才とは、即ち神の血に選ばれるということ。神の血は、適合者には四大を操る力、不死の力を与えるが、不適合者には様々な障害をもたらす。選ばれた人間は、神の血をもって四大の研究に頭を悩ませるのだ。

 若くして王立研究所へと入所したラフェールもまた、例外ではなかった。ただ、彼を悩ませたのは研究だけではない。彼は才能の塊だと賞賛されながらも、対して疎ましがられてもいたのだ。

 彼の研究は、これまでの常識を覆し、世界のバランスを乱すものだったという。故に、彼は忌避され、虐げられていた。それは特に、自分の研究に強い確信を持つ年寄りほど、彼を責めた。しかし、そんな彼にも同調を示す者が少しばかり存在していた。その中の一人が、私であった。

 筋の通った仮説。斬新かつ新鮮な理論。確実性を極める実験記録。

 彼の研究を、世界に混乱を招くというふざけた理由、その程度で消し去ってはならない。ましてや、研究者ならなおさらだ。

 ――僕はね、この研究によって、皆が救われると信じているんだ。

 ベッドに身を沈めながら、彼は希望を抱いた瞳でよく言ったものだ。

 ――この研究がうまくいけば、皆を助けられる。例えば――そう、この僕の右腕も、元に戻るはずだろう? 片腕じゃなくて、両腕で抱きしめてあげられる。誰一人、不自由なく暮らせるんだ……。

 そう言って、彼は欠けた右腕を優しく撫でた。彼には右肩から先がない。不慮の事故か、生まれつきか、私に彼は教えてくれない。だけれどたまに、憎々しげに奥歯を噛みしめながら右腕を睨む彼の姿を、私は見ていた。

 夜半のまどろみの中だが、彼の眼だけは爛々と光り輝いている。私は、そんな彼の胸に頬を寄せるのだ。

 ――そうね、あなたならできる。研究所の人たちを、見返してやるんだから……。

 私が言う。彼は微笑った。そして、左腕で私を抱きしめる――。

 このままでもいいと、私は思う。このままの彼でも、私は構わないと。だけれど、両腕で抱きしめてほしいのも事実だ。

 でも、今思えば、このままでよかった。両腕じゃなくていい。他人の幸せなんて願わなくていい。あなたはあなたのままで、誰かのためにと生きなくてもよかったのに。

 そのどれも叶わず、あまつさえ命までも奪われるなど、なんという運命の皮肉なのだろうか――。

 彼は死んだ。だが、彼を虐げた老害たちは、研究を大成させ、新たなる神として君臨している。

 この神殿もまた、そうであった。

 すっかり洗浄が為された神殿は、気持ち悪く甘い臭いが立っていた。それはいつものことだが、どうしても慣れない。あの男を思い出すからだろう。火の四大を究めた男は、彼を迫害した第一人者だ。この神殿も、もともとは男のために築かれたものだった。四大に溺れ、狂ってしまった男を幽閉するために。もっとも、今では新たな神として祀られた王子のための神殿となっているが。

 バラッドの匂いに包まれて、神殿のサンクチュアリーを取り囲むように参列するのは、兵士の遺族たち、同僚兵だ。ねじれた絡まった金属輪の首飾りを握り、皆一様に頭を垂れている。そこにはエルヴァーリオの姿はない。


「――これより、イドリアを執り行います」


 恭しく頭を下げた司祭に続き、助祭たちがやってきた。二人がかりでやっと持ち運べるほどの大きさの杯に、華美な装飾の為されたふいごと槌。そして、十束の花束を持った助祭たちだ。

 イドリアとは、浄化の儀式でもある。

 生きている限り、人は皆、罪を背負う。食事などによる殺生こそがその一番の例だ。巡る魂。清浄なる肉体は清浄なる魂を求める。だが、前世、穢れた魂は肉体に拒まれてしまう。だから、その罪を浄化する必要があるのだ。

 助祭の一人が杯の中に転がる、キルヒェとなった岩を槌で叩き割った。四大が溢れ、岩の中から聖水が蜜のように零れ出る。それを杯に注ぎ清めた。そこに花束を横たえる。魂宿しの花、バラッドだ。

 魂には、二つの穢れが存在する。一つは罪の穢れ。もう一つは、悪意という性質の穢れだ。前者はイドリアによって祓われる。しかし後者は、イドリアを行っても祓うことはできない。さらに、その穢れは肉体に認められてしまうのだ。なぜなら、それはその人の人格や性質であって、生前に明確に行ったことではないからだ。

 故に、罪人にはイドリアは行われない。悪意を持つ魂が肉体に宿ってしまうからだ。それならば、その魂は繰り返される生命の輪から消えてしまったほうがいい。

 助祭の一人が、またやってきた。鉄の炉、オルド大火塔の炎を宿したそれを、司祭の下に献上する。司祭は火種を杯に入れた。炎は魂を宿した花束に燃え移っていく。ねっとりと絡みつくような重く甘い香りが立ちこめる。

 かつての世界でバケモノを討ったという神の炎は、すべてを燃やし尽くすという。悪意以外の、すべてを。

 ――だから、だ。

 だから、あの人の魂はオルド大火塔に封印された。悪意を持つ異常者とされたあの人の魂は、抜け出さないように四大の檻に閉じ込められ、神の業火に投げ捨てられた。あの人の遺志を継ぐ者に、勝手にイドリアを執り行われるのを防ぐため。

 ふいごで送り込まれた風は、炎の勢いを盛らせた。次々放り込まれていく一輪の魂は、瞬く間に灰へと帰していく。

 炎が完全に消えたとき、杯には灰だけが残っていた。

 司祭はねじれた金属輪の首飾りを握り、杯に頭を垂れる。皆、それに従った。そして祈りを捧げるのだ。次の世でもまた、巡り合えるようにと。

 この間、無言で行われた。言葉は魂を惑わせる。言葉こそが穢れであるからだ。

 助祭たちが全てを持ち、外へと消えた。それを見届けてのち、司祭がまた頭を下げる。


「――これにて、イドリアを終わりたいと思います」


 そうして、司祭は助祭の後を追うように消えた。消えてのち、いまだ人々は無言のままだった。重苦しい空気が漂う。ただ一心に祈り続ける彼らが馬鹿らしくて、私は外へ出た。

 バラッドの気持ち悪いほどに甘たるい臭いが、鼻にまとわりついて離れない。

 私は黒チュールのヴェールを上げて、外の清浄な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 少し、四大の香りが濃い。心地の良い香りだ。


「リゼルダット様」


 私を呼ぶ声にヴェールを下ろす。チュール越しに見えた顔は、茶髪の童顔、コルニだった。


「エルヴァーリオが先日、夕刻に旅立たれたそうです」

「……そう」


 自然と口角が上がる。今日のイドリアで、エルヴァーリオの姿だけがなかったのは、そういうことだったのか。


「テレーゼの予言の日……今日だったのね」


 エルヴァーリオは今日、決着をつけると言っていた。自分の中で始末をつけると。

 彼が成そうとしていた秘術が達成されるのも、今日である。


「うまく、いくでしょうか」


 コルニは親指をいじりながら小さく零す。茶の髪の隙間から覗く横顔は、暗く陰っている。不安の滲む瞳が、上目に私を見つめた。

 私は彼の茶髪をすきながら微笑んだ。


「どちらにせよ、エルヴァーリオは愚かだから」


 顔に疑問符を張り付けたコルニの額に触れるだけの口づけを落とし、私は馬車へと向かった。頬をほんのりと赤く染めるコルニは、疑問など吹き飛ぶほど動転しているようだ。顔を激しく左右に振り、馬車へと駆ける。その後ろ姿を見届け、私は手首を押さえた。

 ――人を騙すのは、簡単なものだ。

 かつて、私は自らの手首を掻き切って見せた。それが修復するまでを、エルヴァーリオと兵たちに示したのだ。それ以来、その力は奇蹟とされ、私は発言力を持つ大司教となった。いや、宮廷術師と称する方が合っているだろう。結果として、私の助言はエルヴァーリオの新たな野心に火をつけたのだから。

 それは奇蹟などではない。

 そんなもの、ただの呪いに過ぎないというのに。

 爆発的な四大の流動が起こった。エルヴィアの仕業だろう。おそらくは、ここからそう遠くはない。まだ関所をくぐってそう時間は経っていないようだ。

 エルヴィアを、異形の御子を簡単に捕らえてはならない。まだ、捕らえるに時間が早すぎるのだ。居場所など、簡単に知ることができる。その時が来るまでは、王国を泳がせなければならない。

 ――そう、その時まで、だ。

 その時が来れば、もう邪魔者はいなくなるはずだから。


「お願いね、コルニ」


 大声で裏返った返事にくすりと笑うと、馬車は動き始めた。窓から望むは、旅人の道標、オルド大火塔だ。その炎は未来永劫燃え続け、触れたもの全てを焼き尽くす。

 万物は四大により生み出され、虚無により生と死を繰り返す。

 虚無を前にしては、万物を燃やし尽くす炎など遅るるに足りない。

 あの人の魂も、必ず取り返してみせる。

 ――あの人さえいれば、ほかになにもいらないのだから。

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