第9話 呪い

 木々の隙間から、冷たい輝きが差し込んでくる。

 私はナイフで親指に小さく傷を刻み、積み重なった木々にその血を注いだ。


 ――Tyute sta.――


 呪いを吐くと、木々は炎を宿した。燃え盛る薪にそこらの枝や葉を投げ込み、私は官舎から頂いた干し肉をふたつ、軽く炙った。そのひとつをぼうっと私を見つめるエインに渡す。

 芳ばしい匂いが漂っていた。食欲をそそる肉をかじると、スパイシーな味わいが口に広がる。香草の良い香りは鼻をついて離れなかった。

 喉の渇きに、水筒の水を呷る。……空だ。仕方なく、私は親指の傷を広げ、水筒に血を注ぐ。


 ――Envil,kitrind hin.――


 ちゃぽちゃぽという音と共に、水筒は重くなっていった。湧きだした原水を呷る。ふと感じた視線の方を見ると、干し肉に口もつけず、首をかしげているエインがいた。


「……なんだ?」

「いや、それってどういう仕組みなんだろってさ」


 そう言って、またエインは唸る。この呪いのことを言っているのだろう。確かに、知らない者から見れば、私は急に異言語を呟きだす異常者に映っても仕方ない。


「呪いは、四大に詞を授け、意図的に地水火風を生み出したもののことを言う。例えば、炎を生み出したい。その時は、四大にそう命ずるだけだ」

「なんだ、簡単じゃないか」


 そう呟いたエインは、よぅしと意気込んで干し肉を指差した。


「燃えろ!」


 もちろん、干し肉が燃えるわけもない。あれ、と首を傾いだエインを、私は軽く笑った。


「残念だが、呪いは神代の遺産だ。人の言語ではどうもできん。神代の言語、神詞が必要だ。例えば、」


 私は火の勢いが落ちた薪に血を一滴垂らした。


「この薪に四大が満ちた。そこに、炎を意味する神詞、Floomer、燃え盛るを意味する神詞、Tyute staを唱える」


 ――Floomer,tyute sta.――


 途端、勢いを失いかけていた炎は盛りを見せた。大気を揺るがすほどの炎に、エインは口を開いて見入っていた。


「呪いは詞によって具現化する。難しく言うと、虚無によってでなく、言葉によって対象の四大を集め、見えるようにするといったところか。炎であれば勢いや大きさ、どのように燃えるのかを、神代の詞で付け加えてやれば、その通りとなってくれる」


 ――Floomer,qlit chat e carita jinind we henglig.――


 続けて呪いを吐くと、蒼炎は蝶の形を成した。薄い炎の翅の蝶は入り乱れ、木々の隙間で顔を覗かせる月に誘われるように舞い上がる。


「綺麗……」


 感嘆の息を漏らしたエインは、火の蝶へ手を伸ばす。黒炎に吸い込まれて消えた蝶に、エインはほうっと息を吐いて目を細めた。私はそんな子供のような男に吐き捨てる。


「……美しさもなにもないさ。こんなもの、ただ命を奪うだけ」


 燃え上がる炎は、愚かにも光に誘われやってきた虫を焼き払う。火の蝶へ舞う蛾は、その翅を焼き尽くされ、糸が切れたように炎と共に落ちていった。

 お前の病弱さはこれで治る。そう言って神を狩ったエルヴァーリオは、その血を私に与えた。神々の血を飲み干して得ただけの、仮初の力。それは奴の野心に火を放ってしまったのだ。動物を焦がし、人を炙り、大陸を焼き尽くす。そして、生きとし生けるものを、皆殺しつくすことを強要された。


「……まさに、呪いだ」


 これを呪いと呼ばずして何と呼ぶのか。いくらその姿だけでも可憐に飾っても、所詮は命を狩り尽くすだけの禍にすぎない。

 弾ける炎の向こう側で、エインは固まっていた。くっきりとした陰影のついた顔は、陰のある硬い表情。私と目が合うと、目線を逸らして呟く。


「その……悪い」


 その、彼からは考えられないような謙虚さに、私は小さく笑った。


「なぜ貴公が謝る必要がある。ただの繰り言だ」

「そんなこと言っても、」

「さぁ、もう遅い。そろそろ眠りにつこう」


 明日は早くに出る予定だ。急がなくては、対象が移動してしまう前に。

 私は立ち上がる。次いで慌てたように立ち上がったエインは、私の手を掴んだ。


「火の番は俺が――」

「いや、火の番は私がやる。貴公は疲れたろう」

「でも、エルに任せきるのも、」

「なにか勘違いしていないか? 交代に決まっているだろう。それに……少し、夜風に当たりたい」


 乾いた木を拾い、私はそう告げる。

 しばしの沈黙が訪れた。炎が弾けるだけの音が響く。

 やがて、地面を踏みしめる音と共に、エインの気配が消えた。荷台ががたりと音を立てる。


「……呪いだ」


 薪に背を向けたまま、私はもう一度吐き捨てた。

 城下の占い師がエルヴァーリオに告げたという言葉だ。私の体の弱さは、前世での魂の行いが悪かったからだと。魂の浄化は、神の血のみが行えると。それを信じたエルヴァーリオは、その日から神を狩ることに執着した。なぜ、こんな信憑性のない話を信じてしまったのか。

 ――彼の占い師が、なにかしたのでは?

 かつて、そう考えたことがあった。顔も声も知らぬ占い師。奴がエルヴァーリオを騙し、神を殺すような凶行を行わせたのではないか、と。

 しかし、それは希望的観測に過ぎなかったのだろう。奴は私に宿った力を利用した。私欲を満たすため、人の時代を築くためなどと騙り、その他の神々を殺させ、他国へ攻め入った。奴は私のためと神を殺したが、初めからその先にはこの地方征服の未来が見えていたのではないか。

 そして、その野望が叶った今、私の力を恐れて、さらに神を殺したことによって上がった四大濃度を抑えるため、私を海溝付近の神殿に幽閉したのだ。私が寂しくないようになどと言って悔恨の宗教、クレオール教を生み出したのも、どうせ民衆の心を動かしやすくするために違いない。

 ……余計に気分が悪くなった。私は大きく息を吸い込む。森の空気とは、こんなにも澄んでいて心地よいのか。だが、それは蠅のように古傷をたかる記憶までをも晴らすことはできない。

 ふさがったはずの傷が虚しく疼く。私は小枝をかかえ、篝へと戻った。


「これは……包帯?」


 乏しく燃える篝火。そこに置いてあったのは、包帯だった。薬瓶もそばに添えられている。

 誰が置いたのか。わざわざ考えるまでもない。

 私は腰かけ、薬を包帯に振りまいた。親指と手首に巻きつけながら、私は思う。

 エインは、一体なにが目的なのだろう。

 相次ぐ介抱。そこには、絶対に私を死なせまいという意思を感じた。自由に四大を生み出せる私がいなくては、その四大を得て振るわれる力を存分に発揮できないのは分かっている。だが、あの黒炎を宿している限り、叶わないことはほとんどないと言ってもおかしくはないはずだ。そうまでして、なぜ私を生かし、裏切ろうともしないのか。

 それに、彼の体。

 あの異形めいた姿は、なにかに似ているとずっと思っていた。それがなにか、今分かった。あれはキルヒェだ。立ち上る黒炎の左腕に、光沢の照り映える金属めいた四肢。なんらかの四大が具現化したような、それも地水火風、そのどれにも当てはまらないなにかを宿されたような――。


「……まさか、そんなことがあるまい」


 私は思い立った愚論を鼻で嗤い、炎に小枝を投げ入れた。

 地水火風、そのどれでもないなにかなど、愚論も甚だしい。きっとあの研究室にいた老人に毒されたのだ。私も、疲れが溜まっているのかもしれない。

 だが、と私は思う。

 あの時、老人を包み込んだなにかは、エインの黒炎に似ているような気がしたのだ。

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