第6話 実験室

 地下への入り口は像の先にある鍵のかかった部屋の先にあった。蹴破られた扉の先には本棚や小物が散乱している。地下への入り口となる階段をまるで隠しているように思えた。蝋燭がぽつぽつと立つ階段を、私たちは降りていく。

 薄暗くじめじめした石段は、かなり深くまで続いていた。階段の先で、四大が一点に集まっては離れていく。蝋燭の炎が影を揺らしていく。

 奴らはキルヒェをどうしようというのだろう。この先にある場所、激しい四大の流動は、なにを示しているのだろう。

 ひどく、心が落ち着かない。

 空耳だろうか、どぅどぅと地の底が唸っているような気がした。底へ一歩足を進めるたび、生暖かい風が肌を撫でる。バラッドの匂いとも血の臭いとも違う――頭が割れるような臭いが鼻をついた。

 やがて石段が終わると、石畳の床が現れた。その先に、無機質な鉄製の扉がある。

 心臓が焼けるように痛んだ。脈動が目視できるようだった。神の血が騒いでいるのだ。


「どうやら、この先が終着点のようだ」


 四大の流動の根源はこの先にある。神の血がそう言っていた。


「……あぁ」


 エインは心許ない返事を返し、扉に手をかけた。その右腕は猛るように揺らいでいるが、彼の眉間には深いしわが刻まれている。どうしたのだろう。この刺激臭にでもやられたのだろうか。


「……大丈夫か?」

「……あぁ。行こう」


 頼りない返答を返したエインの横顔は、どこか違和感のようなものを覚えているようだった。本当か? そう訊き返す前に、彼は扉を開いた。


「これは――」


 広がる景色に私は顔を顰めた。口から零れた言葉は紡がれることなく消える。熱は全身を駆け巡り喉元までやってきたが、それを正しく表現する言葉が見当たらなかった。


「なんだ、これは……」


 なんだとしか、言いようがなかったのだ。

 壁一面の棚に並べられた試薬。壁に張りつけられた、翼の焦げた鷲の解剖。フラスコ、壜に入った土と結晶の背のカエル、植物片。本と紙の散乱。よく分からないガラスの造形の中に揺れる液体。細いパイプで繋がれたその先には、小さな目玉が転がっている。腐敗したように、濁った色をした眼球だ。

 そして、床に散った、何者かの血と肉片。


「あっつ……!」


 しゅんっという一瞬で空気が抜けたような音がしたかと思うと、エインの苦鳴が聞こえてきた。右腕を押さえる、その先にはいくつもの巨大なガラス管があった。しゅんっという音と共に、白い煙が噴射される。おそらく蒸気だろう。しゅんしゅんと続く蒸気を辿った先には、巨大で曇った壜があった。まるで砂時計のような形状のそれには、よく見るとなにかの姿が見える。歪な、人のような姿の――。

 刺激臭が辺りに立ち込めていた。刹那、重たいものがぶつかり合ったような鈍い音がしたかと思うと、ガラスの曇りが解けていった。その中には――なにもない。ただ、泥水のように濁った黒紅色の半固体が、底の方に沈んでいた。

 ガラス壜に近づいて、私は触れる。まだ熱を持った壜は肌を焼くようだった。


「一体……一体なんなのだ……!」


 私が目を見張った、その時だった。

 耳を疑うほど呑気で、間の抜けた老婆のような声が聞こえてきた。


「――初めに四大。次に神詞。終いに虚無……のはずなのだがね」


 きぃと、金属が軋むような音が聞こえた。壜の奥、ガラス越しに何者かの姿が見える。車椅子に座り、ぼこぼことした背中をひどく丸めて近づいてくる姿は、どことなく老人のように映った。だが、どこかがおかしい。老人の気が、どこか人間離れしているような……そんな凄みに唾を飲み込み、私はガラス越しに問う。


「……ここでなにをしていた」


 老人は動きを止めると、肩を震わせ静かに笑った。


「そうさね……理論の証明さね」

「理論……これがか?」


 掠れた声が漏れる。血塗られたガラス壜に沈んだ細切れの粘度の高い固体。その中の目玉と目があった気がして、私は顔を背け一歩後ずさった。

 そんな私とは対照的に、老人は壜へと近づいていく。


「立てられた仮説の検証。それによって理論は証明される。証明の素材無くして、学説は認められないのさ。だがね……」


 老人はさらに近づき、ガラス壜を覗いた。うつむいた顔が捉えるのは、壜の底で蠢くなにかなのだろうか。


「また、失敗さね。才能がないのかねぇ……何回やっても同じさ。釣り合っていないのか……完璧なモノは生み出せない。すべて、歪なバケモノさね」


 老人がガラスの向こうでなにかを操作したのだろう。底のなにかは壜に繋がるパイプから外に排出された。排水溝を辿って、まるで肺をかき乱すような猥雑な臭いが立ちこめる。それを気にするばかりか、老人は唸ったままだった。


「……貴様は、何者なのだ」


 気が付くと私は問うていた。訳が分からない。頭を振って、私はよく、壜を観察する老人を見た。ただの人間に過ぎない老人を異形たらしめるもの。それは、私の中に湧く未知ゆえの恐怖だった。

 老人は質問には答えず、見当はずれな言葉を返した。


「ラフェール様は素晴らしい御人だった……あの御方の研究は世界を揺るがすほどのものだったのさ。……だから、邪魔だったんだろうよ。四人の探究者によって失われた研究……私がなすのは、それを取り戻すための研究さね」


 きぃ、と車椅子が軋む音がした。ガラス壜の向こうから近づいてくる老人は含み笑う。

 私は後ずさる。――どこからか、掠れた息が漏れるような音がしていた。


「だけど、私にそんな力はなかったのさ。正統なる後継ぎは、もう決まっているからね。

 リゼルダット様は、ラフェール様の意思を、力を一番濃く受け継いでおられた……だけど、ラフェール様のように、完全体を創ることは敵わなかったのさ。生み出したのは異形……気味の悪いバケモノさね」

「創る?」


 あぁそうさ、と老人が近づく。壜から覗かせた顔は、ローブに覆われて表情までは窺えない。ただ、口元だけはいやに吊り上がっていて――私は声を呑み込んだ。

 荒い鼻息のような音が激しさを増している。


「やはり、足りないのさ。完璧を生み出すには、犠牲が必要。私たちに、払える犠牲なんてないのさ。――だからね、リゼルダット様はレシピを変えたのさ。犠牲を払わない方法で、ラフェール様を創り出すために」

「れ、しぴ、だと……?」


 乾いた口から零れた声に、そうさね、と老人はねっとりと言葉を返す。目の前で、老人は頬まで裂けたような笑みを湛えた。

 老人の胸元で白い光が迸ったような気がした。


「それは、」


 ――刹那、老人の体から鈍い音が聞こえてきた。

 老人の腹を刺し貫いた剣。赤く濡れたそれは、エインの手に握られている。


「エイン……!?」


 鼻息荒くさせたエインはそれを取り落とした。かーんと鳴り響く剣に弾ける赤の雫。頭を抱える彼の姿に、私は目を見張るほかなかった。

 エインは老人を殺したのか……?


「なぜ……」


 口から零れた言葉は、不気味な引き笑いにかき消されてしまった。


「あぁ……もう少しだったんだがね……」


 その声は、確実に老人のものだった。視線を老人に戻す。全身を痙攣させる老人の胸から流れる血は、ローブを伝い床を濡らしていた。即死してもおかしくない、それほどの血の量だ。なのに、老人は恍惚の表情を浮かべ、あろうことか笑ってすらいるのだ。

 異常者以外の何物でもない。老人こそ、バケモノと呼ぶにふさわしい。


「貴様……何者なのだ……?」


 再び訊くと、老人は水気を含んだ笑い声をあげた。


「……愛も、憎しみも、一度冷めれば虚しくなってくるものさ。なにも、後には残らない。すべては、ただの虚無さね――」


 なにかが弾けるような金属音が響いたかと思うと、視界に青の閃光が走った。一瞬の光は視界を白に染め、視界が戻る刹那、私は信じられないものを見た。

 老人の高笑いごと、なにかがその体を包み込んだ。なにかがなんであるのか、私にはわからない。形容するならば――深く、沈み込むような闇、だろうか。そして、老人は、宣言通り姿を消したのだ。

 老人は――死んだ。


「死んだ、のか……?」


 死体は消えた。血だまりすら、消え失せてしまっている。触れた車椅子には、つい先ほどまで誰かが座っていたことを示す熱が残っていた。


「だが消えるなど……ありえない」


 ありえない。その魂がこの肉体から消えるというのなら理解できる。だが、肉体が消えるなど……。


「……すまないエル。ちょっと……外で待ってていいか?」


 声に振り返ると、ひどく蒼い顔をしたエインの姿があった。頭痛かなにかだろうか、彼は頭を押さえ、顔を歪ませる。本来手や服に残っているであろう老人の血痕は失せていた。


「別に、構わんが……」


 大丈夫なのか。問う前に、彼はふらふらとした足取りで扉の奥に消えた。

 彼が扉を閉め、私を閉じ込める――なぜか、私はその可能性を考慮しなかった。彼の様子のおかしさだけが、思考を埋め尽くしていたのだ。

 心から途方に暮れているような、訳の分からない、そんな苦しみが迫ってくる……そう真摯に訴えかけるような顔。


「エインは……なにか知っているのか?」


 だが、それがなにかは、おそらく彼にも分からないのだ。だから、あんな顔をしている。

 それに、と私は老人の車椅子の下に転がるものを拾い上げた。


「奴は、私を殺そうとしていた……はずだ」


 老人がエインによって刺される間際、老人の胸元でなにかが煌めいていた。それはおそらく、このナイフだろう。

 だが、なぜ? なぜ私を殺す必要がある?


「……調べてみるか」


 ここが研究室であるとしたら、なんらかの記述があって然るべきだろう。エインや私について、何らかの手掛かりとなりうる記述が。

 本棚からいろいろな本を引っ張り出す。神詞の文法書のようなものや、研究の記録などが残されていた。何気なくその中の一冊を取り出し、パラパラと捲ってみる。その時、一枚の紙が滑り落ちた。


 ――モントシュタイル大火災――


 物騒な見出しを飾るそれは、新聞の切り抜きであるようだ。年代の頃はこの紙面では確認できない。ただ紙の状態を見るに、ずいぶんと時間は経っているようだ。


「何故、これだけ……」


 ここにあるには似つかわしくないためか。私は吸い寄せられるようにただ一枚だけの切り抜きに見入る。

 どうやら、それはモントシュタイルの街で起こった事件についての記事らしい。舞台はモントシュタイル内の研究施設。そこで起きた火災についてのものだった。研究施設で起こった凄惨な事件だが、その割に犠牲者は二人と少ない。

 ――いや、そう言うには早計過ぎたのかもしれない。


「行方不明者7人、だと……!?」


 記事の一番下、そこには行方知れずとなった者の名前と素性が書かれていた。そのほとんどがモントシュタイル研究所の者ではなく、王立研究所勤めだと記されてある。ただ一人、「ラフェール」という名前の者だけが、この街の研究施設の施設長を務めていた。

 それが、老人の話とどう繋がるのかは分からない。ただ、気になるのは。


「……消えた、か」


 大規模な火災であるのに、あまり被害が出なかったのは、犠牲者の人数が少ないのは、単に幸運というわけではないらしい。

 その記事の最後には、死体は、炎は、そして施設でさえも、一瞬にして消えたと、書き置かれていた。暗黒の未知に飲まれ、沈みゆくかの如く。

 自然と目をやってしまうのは、あの老人が息絶えた場所だ。そこには当然ながら老人の形はなく、車椅子だけが残っている。

 老人の話によると、ラフェールの研究は失われたという。この記事と照らし合わせるに、その研究は消されたのではなく、燃やされたのだろう。誰によってかは明白だ。王立勤めの研究者たちに違いない。そして、彼らを巻き込むかのようにして、なにかが全てを消し去った。――エインの記憶にも通ずる、なにかが。

 そのなにかは、きっとここに眠っている。

 私は記事を握りしめ、一心不乱に頁を捲り続けた。

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